言葉に対してひどく鈍感になったのに反比例して、弱いものたちを馬鹿にし攻撃する言葉が鋭くなっていき、相手の人間性を否定し、侮辱し、いじめているとしか思えない番組が増えている。
子どもたちがいじめで自殺したという記事を最近よく見るが、いじめている子どもたちには、いじめている意識もなければ、罪悪感などないのも、たけし軍団や松村邦宏、出川哲朗、ダチョウ倶楽部、山崎邦正たちがされていることや言われていることを見続けた子どもたちが、(あの程度のことは言ってもいいし、してもいいんだ、遊びなんだし、ゲームなんだ)と思いこんでいる(あるいは思いこもうとしている)のではないかと思う。
しかし、このことを芸人やテレビ局のせいにする気はない。悪いのは、子どもたちに、正しいことを教えない、その親たちの責任だと思っているからである。
子どもと一緒にテレビを見ていて、おかしいと思ったことを親が言えばいいのである。「この人たちは芸人で、お金をもらって我慢してやっているのであって、テレビの世界だから許されることで、もし現実にこんなことを他人に言ったり、したりすれば、相手がたとえ許してくれても、この私が許さない」と、していいことと悪いこととの区別ぐらい教えなければいけないし、日頃から「自殺なんかしても誰も喜ばないし、誰も反省なんかしない。それよりも別な方法で相手を反省させる方法がある」ことを教えていけばいいのである。
それもせずに判断力のない子どもたちに、そういうテレビを無条件で見せる親が悪いのである。
視聴者・観客の側がもっと賢くなればいいのである。その方が話は早いのである。
そうしたカタギの人間の誇りを取り戻し、芸能人たちにもっとがんばってもらい、一流の芸を見せてもらうためにも、われわれが一流の視聴者、一流の観客となることを目的として、このコーナーをスタートさせた。
まずその第一歩として、一流のスターというものがどういうものか知らなければならないし、一流のスターをどのように育てていたのかを知るその第一歩として、タイトルクレジットにおける出演順を取り上げることとした。
一口に言って、昔の芸能界はスターをあまり作らず、スターでもない人間がスターらしい振る舞いをすることも許さなかった。そのため本当のスターになった時の喜びは大きかったし、周囲の人間の見る目も今とは大きく違っていた。
バラエティやクイズ番組、CMに出て、人気や収入は上がっていても、肝心の芸の力が上がっていないタレントたちが、自分のことをスターだと勘違いしているのも、こうした点が昔に比べて甘くなっているのではないかという観点から、スターとはそんな甘いものではなく、なかなかなれないものだったということを多くの人に知ってもらうために、そして芸人に対して公正で温かく厳しい一流の目を持った「客」を一人でも増やすことを目指して、これを企画した。
その名を汚さぬように芸に精進し、イメージを大事にし、ビッグネームとなるために骨身を削り、芸能人としての格を大事にするあまりに、他のタレントより名前が先に出た、後に出た、名前が小さい、大きいで大騒ぎするのである。
最近では、宮沢りえ(というよりりえママ)が、浅野ゆう子より名前が先に出なければいやといって、決まっていた「蔵」という映画を土壇場でキャンセルしたことを覚えている人はいようが、その昔渥美清や田宮二郎に同じような話があったことを知る人は少ないだろう。
昔、渥美清が舞台に出演するときに、看板に出る名前を座長格の先代松本幸四郎(初代白鵬)、山本富士子コンビと同じ大きさにしろと要求したが聞き入れられずに舞台を降板したそうだし、有吉佐和子原作の「不信のとき」を映画化したときに、主人公役の田宮二郎は愛人役の若尾文子や妻役の岡田茉莉子より先に名を出せと言ったが聞き入れられず所属していた大映という会社を辞める原因にまでなったらしい。なおこの欄に出る個人名はタレントを指すというより、本人及びマネージャー事務所スタッフを含むプロジェクト名と考えて戴いた方が正確かもしれない。
タイトルクレジットでの出演順にどれほどの意味があるのか知りたい方だけ、しばらくお時間を戴きたい。
大学時代には、図書館へ行っては、昔の新聞の縮刷版を見るのが趣味であった。テレビ創世記の頃、テレビ欄はラジオ欄よりはるかに小さかったと知って驚いたものである。
主に映画やテレビ、舞台、スポーツを中心に読んで、世の中のニュースにまるで興味を示さなかったという点に私の特性がある。
私には九十(十九の間違いではない)になる親戚のおばあちゃんがいて、彼女は体こそ少し不自由だが、頭はしっかりしていて、記憶力も衰えておらず、昔見た映画や歌舞伎のことをよく覚えているのだが、彼女は「私が歌舞伎の話をしても誰も通じないし、昔の映画や役者のことを話しても誰も知らない。あなただけよ」と言われるのも、映画やテレビをただ見るだけでなく、新聞やビデオ、雑誌などを見るのが趣味だったからというしかない。
今でもタイトルクレジット(以下「タイトル」といい。名前の意味のタイトルは題名と呼ぶ)を見るのが趣味で、ドラマは見ずにタイトルクレジットで出演者の名前だけを確認することがよくある。
今回は、タイトルについて、私が知っている情報(独断と偏見と思いこみと私の記憶力によって成立しているものであることを、前もっておことわりしておく)の一部をお伝えしたいと思う。
映画で、配役というのは少ないが、役名も記して、事実上配役のケースは多々ある。
A.お山の大将型 | 1:[例:A型] | 12: | 13: |
B.竜虎激突型 | 1:1[例:B型] | 2:[例:C型] | |
C.ラブラブ型 | 1:1[例:Q型] | 2:[例:E型] | 1・1:[例:D型] |
D.御三家型 | 1:1:1[例:F型] | 3:[例:G型] | 1・1・1: |
E.四天王型 | 2:2[例:H型] | 4:[例:I型] | 1・1・1・1:[例:J型] |
F.集団ドラマ型 | 7:1:4[例:AN型] |
タイトルが、作品の内容に大きな影響を受けることは間違いない。役柄の重要性を無視して、役者の序列のみを優先させたとしたら、見る側に大きな混乱が生ずるのは間違いない。
主人公が一人の場合、その役者は完全に主演となり、これは間違いなく一枚看板(意味を知りたい方はここをクリック)で出るので、これを私は「お山の大将型」と呼んでいる。
次に主人公が二人の場合、それが男二人、男と女、女二人の3パターンが考えられるが、私は、スター同士が役の上でライバルとなり、演技の上でも火花を散らせるタイプと、スター同士が仲良く夫婦、恋人、兄弟・姉妹を演ずるタイプの2つに分け、前者を「龍虎激突型」、後者を「ラブラブ型」と呼んでいるが、この主演の二人をそれぞれ一枚看板で出す場合(その場合、初めに二人出す1・1:型[例:D型]と、初めと終わりに出す1:1型[例:B型]の2通りある)と二枚看板2:型[例:C型]でまとめて出す場合の2通りが考えられる。
同じく主人公が四人の場合も、同格のスター四人が集まった場合を「四天王」型と呼んでいるが、これも主演の四人をそれぞれ一枚看板で出す場合1・1・1・1型[例:J型]と二枚看板二組に出す2:2型[例:H型]と四枚看板でまとめて出す4:型[例:I型]の3通りがある。
5人以上はすべて「集団ドラマ型」[例:AN型]と呼んでいるが、最近は映画界もテレビの世界もバブルは続いており、昔は数少なかった一枚看板を乱発する傾向にある。
昔は、サンプルをみてもらえばわかるが、三船敏郎も勝新太郎も石原裕次郎も吉永小百合も、加山雄三も映画の主演俳優でありながら、二枚看板、三枚看板だった。映画の主演を何十本も経験してようやく一枚看板になれたのに、最近はテレビで人気が出たタレントが初めて映画に出演していきなり一枚看板で出る時代になってしまった。
NHKの大河ドラマも一枚看板には厳しく、民放のドラマや映画で主演しているのに一枚看板になれないケースがよくあったが、最近はいとも簡単に一枚看板にしてしまう。
まず外国(英語圏)では、最初に題名と共にスタッフや主な出演者の名前が出て、エンドマークが出てからもう一度役名と一緒に出演者の名が出る。
そこで外国のタイトルクレジットの順番は、役者の序列よりも役柄の序列を重視していると言うことが出来る。
外国映画でも名前が先に出た方が序列は上なのだが、役者の序列に全く気を使わないというわけでもなく、ある役者を特別扱いする場合には、特別出演(special appearance)と入れたり、andと入れたり、and intoducingと入れたりするようである。
日本と同様に、キャストをアルファベット音順や登場順にする場合があるので、やはり役者の序列問題が存在するのは間違いないようである。
日本の場合、映画がスタートしたとき、役者は歌舞伎出身の役者が多かったためか、歌舞伎のシステムが多く入ってきている。
たとえば歌舞伎では、「看板役者」とか「一枚看板」とかいうように、看板に一人で名の出る役者がいい役者であり、大物であると世間もいい、役者自身もそう思ってきた。
その伝統は消えることなく受け継がれ、映画の世界でも、テレビの世界でも、舞台の世界でも、看板(タイトル)に一人で名が出る役者が大物となった。
歌舞伎の世界では、一番先(右端)に名が出ることを「書き出し」といい、花形役者が一番先に名が出た。
そして、座長は一番最後(左端)に名が出て、それを「留め」といった。
座長に次ぐベテラン俳優は別格扱いで、中央に名を出しこれを「中留め」といった。
この三人を中心にし、色男は2番目に名が出るので「二枚目」と呼ばれ、ベテランで笑いをとる役者は3番目に名が出るので「三枚目」と呼ばれていた。これらの言葉が、そのまま今の芸能界に生き続けている。
ただし「中留め」より後(左または下)の方は逆に、左側(または下)の方が右側(または上)より格上となる場合もあるので注意を要する。(例えばA,B,C,D,Eの順でタイトルに名前が出た場合、Aが1番格上だが、2番目はBではなくEで、以下B,D,Cの順になるが、時にB,C,Dとなる場合もあるので注意が必要ということである)
歌舞伎の場合、文字が縦書きであり、バランスをとるためにね「中留め」を中心とした左右対称の看板が多く、一枚看板の役者が三人の場合は、最初に一人、「中留め」に一人、「留め」に一人となるが、これを1:1:1型と私は呼んでいる。
WOWOWで放送した昔の日活のオールスターキャスト映画(この表現自体が死語であるが)「忠臣蔵」を見たとき、まさしく1:1:1型の典型を見た。
そのとき一番先に名が出たのが浅野内匠頭、立花左近の2役の片岡千恵蔵で、中留めが脇坂淡路守役の嵐寛寿郎で、留めが大石内蔵助役の阪東妻三郎であった。
これは今で言えば、勝新太郎と仲代達矢と高倉健が共演したようなもの、それくらいの大スター3人であった。
3人とも歌舞伎出身であり、題材も歌舞伎の名狂言、これ以上ない絶好の舞台であり、これ以外考えられない出演順ではないだろうか。
各オリジナルとその変型バージョンの代表的な例を挙げてみた。見たい場合はクリックしてみて下さい。
1:1:1型[例:F型] | 1型[例:A型]、1:1型[例:B型、Q型]、1:1:2型[例:U型]、1:2:2型[例:Y型] |
2:1:2型[例:K型] | 2型[例:D型]、2:1型[例:AL型]、2:1:1型、2:1:3型[例:V型]、2:2:2型、2:2:3型 |
3:1:3型[例:N型、O型] | 3型[例:F型]、3:1:2型[例:Z型]、3:1:4型、3:2:2型[例:AE型]、3:2:3型[例:P型]、3:3:3型[例:R型、AG型]、3:3:4型[例:Y型、AR型]
|
4:1:4型[例:L型] | 4型[例:J型]、4:1:2型[例:AA型]、4:1:3型[例:AB型]、4:1:5型、4:2:4型[例:AG型]、、4:3:3型[例:AS型]、4:3:4型[例:AH型]、4:4:4型[例:AF型]、
|
5:1:5型 | 5:2:5型[例:AV型]、5:3:5型、5:4:5型、5:5:5型、 |
これを基本として頭に入れておいていただき次に話を進めたい。
石原裕次郎は大スターというイメージがあるが、昔の映画を見ると三人四人で名が出ていたので驚いたことがある。主人公なのに、ヒロインやそのライバルの娘役の女優や、ライバル役の男優と一緒に出ていた。
加山雄三にしても若大将シリーズの初期は、相手役の星由里子と二人で出ていたが、主演を何本も経験して、若大将ブームが起きた頃にようやく一枚看板へと出世した。最近の若手テレビタレントが映画に出たとたん一枚看板で出ることを、映画出身の役者達はきっと苦々しく思っていることだろう。
テレビの世界は最近、一枚看板をバブルのように乱発して、レギュラーメンバーなら誰もが一枚看板の時代に突入してしまい、一枚看板の権威や重みは、そのタレントの芸の力に比例して、まるでなくなってしまった感がある。
それもこれも映画を知らないテレビディレクター達が増えてしまったせいではないだろうか。映画に対して夢も憧れももっていない人たちがテレビの世界に入り、先人達が築きあげた映画の手法を学びもせずに、気のあったタレント達とただ楽しく遊びながらドラマを作っているだけのような気がしてならない。
各局があのNG大賞という番組を恥ずかしげもなく放送しているが、あの現場を見れば絶望的である。視聴者はもっと怒るべきだし、あのような芸のないタレントたちが大金を稼ぐことにもっと疑問を持つべきである。
実力があっても人気がないというのはあるだろうし、ある意味では仕方がないが、少なくとも人気のある人は、それだけの実力の裏打ちがあるという世界にならなければ、スターを夢見、ひたすらダンスレッスンやボイストレーニングに励んでいる若者たちがあまりにかわいそうである。
芸のない者、努力しない者は芸能界から消え去ることを願ってやまない。<文中敬称略>(三井波男)