コナリーの創造した新しい主人公

(マイクル・コナリー『バッドラック・ムーン』解説)

バッドラック・ムーン  本書 Void Moon は、LA市警のハリー・ボッシュ刑事ものでお馴染みのベストセラー作家マイクル・コナリーが二〇〇〇年に発表した単発作品(アメリカでは stand-alone、イギリスでは one-off と呼ぶ)である。

 いや、本書の著作権年度は二〇〇〇年となっているが、じつは本書の限定版が一九九九年九月にデニス・マクミラン社より発売されていたのだ。革装豪華限定版が一〇〇部、布装限定版(番号なし、サインなし)が四〇〇部刊行された。この筆者が入手した布製限定版のコピーにはサインがはいっているが、最近のサインは『Ml Cy』と読み取れる程度のものである。ベストセラー作家なので、一日に約千部のコピーに「ちゃんとした」サインをしていられないのだろう。

 一九九九年刊限定版と二〇〇〇年刊普及版には装丁上の違いがある。ジャケットや遊見返し、扉のイラストレーションが異なるのだ。普及版のエピローグに当たる部分が、限定版では短い第一部になっていて、そのあと一部ずつずれる。そして、普及版の第五部に当たる部分が、限定版では第六部ではなく、「砂漠が海になるところ」という三章からなる長いプロローグになっている。普及版では各部の初めに、満月、上弦、新月、下弦の絵があって、月の数で第何部なのかわかるのだが、限定版では月の絵のかわりに髑髏の絵のはいったカジノ・チップが描いてあり、そのチップの数で第何部なのかわかるわけだ。

 さて、ここで問題です。この日本語版はどっちの版を底本にしているでしょうか?

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 原題の「ヴォイド・ムーン」の意味だが、本書第八章でレオ・レンフロがキャシーに説明しているとおりである。

「占星術におけるある状況なんだ。いいかい? 月が天球で一つの宮から次の宮に移るあいだ、まったくどこの宮にもはいっていないときがある。そのときは、次の宮にはいるまで、“ヴォイド・オヴ・コース”というんだ。それがヴォイド・ムーンだ。……」

「ヴォイド・オヴ・コース」は「進路欠如」と訳されることがあるが、「ヴォイド・ムーン」の適当な訳語は占星術事典に見当たらない。この筆者は占星術に関しては門外漢なので、興味のある方は占星術の専門書を当たっていただきたい。ただ、ヴォイド・ムーンの時間帯には、どんな悪いことが起こるのかわからないということを理解しているだけで充分だろう。

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 コナリーのボッシュものを読んでいる方は、本書で見覚えのある人物に再会することになる。本書で私立探偵ジャック・カーチに警察内の情報を売るメトロ警察のアイヴァースン刑事や、本書で言及される犯罪組織の顔役ジョーイ・マークスは、ボッシュものの『トランク・ミュージック』(扶桑社文庫)に登場していたのだ。

 コナリーはレイモンド・チャンドラーに大いなる影響を受けているのだが、本書を読んだあとで、チャンドラーの『大いなる眠り』(創元推理文庫)の第一章を読んでいただくと、コナリーの考えた楽屋落ちに気づかれるはずだ。

 本書に登場するある人物のその後が気になる方は、二〇〇一年刊のボッシュもの A Darkness More Than Night の第十章(の最後の部分)をお読みいただきたい。

 コナリーは親類や友人の名前だけを登場人物の名前としてよく使う(ただし、人格は使わない)。SF作家ウィルスン・タッカーにちなんで、これを「タッカライズ」という。ジャック・カーチに名前を無断で使われたテリル・ランクフォードは、カリフォーニア州シャーマン・オークスにあるミステリー専門書店、《ミステリーズ・ムーヴィーズ&メイヘム》の店主で、実際に Shooters という小説を著わしている。もちろん、キャシーがパスポートに使うジェイン・デイヴィスというのは、コナリーの妹で、コナリーの公式ウェブサイト(www.michaelconnelly.com)の管理者でもある。リンダというのはコナリーの奥さんの名前で、キャシーというのはコナリーの娘マッケイレブ(リンダの旧姓でもある)の愛称なのだ。そのほか、本書にはタッカライズされた知人が数人いるようだ。

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 コナリーが単発作品を書くのは、本書が初めてではない。一九九六年刊の『ザ・ポエット』(扶桑社文庫)ではデンヴァーの新聞記者ジャック・マカヴォイを、一九九八年刊の『わが心臓の痛み』(扶桑社)では元FBI捜査官テリー・マッケイレブを主人公にした単発作品を発表したのだが、二〇〇一年刊のボッシュもの七作目 A Darkness More Than Night では、マッケイレブが共演し、マカヴォイはLAのフリー・ジャーナリストとしてゲスト出演するのである。

 コナリーのボッシュものはミステリー読者のあいだでは人気があるが、ノンシリーズの『ザ・ポエット』を発表したときに、ベストセラー・リストに載り、ハリウッドに注目された。つまり、一般読者にも名前が知られるようになったのだ。それからは二作か三作に一作はノンシリーズを書くことにしている。ノンシリーズを書くことで、コナリーは自分の限界に挑戦しているという。

 コナリーが本書のアイディアを思いついた経緯はこうだ。LAのサンセット・ストリップにあるホテルに出没する泥棒がいるという話をLA市警の刑事に聞いたこと。サイン会で知り合った郵政公社の捜査員に招かれて、ラス・ヴェガスで催された全国警察会議に出席したこと。一九九七年に娘が生まれたこと。読者に同情されるような女性の犯罪者を主人公にすることは、コナリーにとって新しい挑戦だった。

 コナリー自身は本書を書くにあたり、ラス・ヴェガスに数回行ったらしいが、毎回長くても二日しか滞在しなかったという。《フラミンゴ》や《トロピカーナ》というカジノ・リゾートは実在するが、《クレオパトラ》は存在しない。ラス・ヴェガスのホテルに詳しい方なら、いくつかのホテルを合成していることに気づかれることだろう。

 本書の映画化権はワーナー・ブラザーズに七桁の金額(少なくとも百万ドル)で売れ、コナリー自身が脚色したが、ハリウッドのことなので、いつ実際に製作されるのかわからない。主役の女優としてアシュレー・ジャッドの名前が挙がっていたような気がするが、この筆者の勘違いかもしれない。そのほか、『ザ・ポエット』や『わが心臓の痛み』、ボッシュものの『ナイトホークス』や『ブラック・アイス』の映画化権も売れていて、脚色もされているのだが、実際に撮影されているという噂はまだ聞かない。ちなみに、コナリーがボッシュを演じてほしいと思っている俳優は、『ブリット』に主演した頃のスティーヴ・マックイーンだという。

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 講談社文庫にマイクル・コナリーが登場するのは初めてなので、ここで簡潔に紹介してみよう。

 一九五六年、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアに生まれた。父親は大工で、母親は銀行員。マイクルは六人兄妹の上から二番目。マイクルが十二歳のときに、家族はフロリダ州のフォート・ローダーデールに引っ越した。マイクルは父親のあとを継ごうと、フロリダ大学で建設科学を専攻したが、レイモンド・チャンドラー原作、ロバート・アルトマン監督、エリオット・グールド主演の『ロング・グッドバイ』を観たあと、チャンドラーに興味を持ち、専攻をジャーナリズムと小説作法に変更した。

 大学卒業後、フロリダ州の《デイトナ・ビーチ・ニューズ・ジャーナル紙》と《フォート・ローダーデール・サン・サンティネル紙》で記者として働いた。飛行機事故について書いた日曜版の特別記事がピューリッツァー賞の最終選考まで残ったおかげで、《ロス・アンジェルス・タイムズ紙》に引き抜かれ、一九八四年に結婚したリンダと一緒に西海岸に引っ越して、一九八七年より《LAタイムズ紙》のサン・ファーナンド・ヴァレー支社の事件記者になった。

 そこで、コナリーは夜と週末を利用して、ミステリー小説をまた書き始めた(じつは、フロリダでも記者や刑事を主人公にした小説を書いていたのだが、途中で挫折したのだ)。LAで書きあげた小説がハリー・ボッシュ刑事を主人公にした『ナイトホークス』(扶桑社文庫)だった。その作品でアメリカ探偵作家クラブよりエドガー処女長編賞を受賞し、自信を持った。

 そして、『ブラック・アイス』と『ブラック・ハート』を書いたあと、一九九三年に《LAタイムズ紙》をやめ、執筆に専念することにした。奥さんのリンダは保険代理店をやめ、コナリーとともに設立した《ヒエロニマス・インク社》で彼の仕事の事務処理を担当している。

 コナリーとリンダと娘の三人は、LAのローレル・キャニオン地区にある“ハリウッドが建ててくれた家”に住んでいて、彼はその三階で少なくとも朝七時から正午までは執筆に専念している。

 ちなみに、コナリーは左ききである。

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 コナリーの作品はいろいろなミステリー賞に受賞している。さっきも書いたように、一九九二年刊の『ナイトホークス』はエドガー処女長編賞を受賞した。一九九五年刊の『ラスト・コヨーテ』は《独立系ミステリー専門書店協会》主催のディリス賞を、一九九六年刊の『ザ・ポエット』はディリス賞と、《バウチャーコン》主催のアンソニー賞と、《ウルフ・パック》主催のネロ・ウルフ賞を、一九九八年刊の『わが心臓の痛み』はアンソニー賞と、《国際ミステリー愛読者協会》主催のマカヴィティー賞を受賞した。

 そのほか、コナリーの作品は英国推理作家協会主催のダガー賞や、国際推理作家協会北米支部主催のハメット賞にノミネートされたこともある。日本では、一九九三年刊の『ブラック・アイス』がハードボイルド小説愛好団体の《マルタの鷹協会》よりファルコン賞を受賞した。

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 コナリーはミステリー好きの前大統領ビル・クリントンのお気に入りの作家の一人である。クリントンがコナリーの『ブラック・アイス』を気に入ったということで、ワシントンDCのミステリー専門書店《ミステリー・ブックス》が次作『ブラック・ハート』(原題は The Concrete Blonde「コンクリートの金髪」)のプルーフをクリントンに渡したという。その店を出るところを映した写真には、『金髪と一緒に書店を出る大統領』というキャプションがつけられたらしい。そのあと、クリントンの要請で、夜中の二時にLA空港でコナリーはクリントンと会ったという。二分間しか話さなかったが、「この男の話を書き続けてくれたまえ」とクリントンはコナリーに言ったらしい。クリントンもサックスを吹き、実の父親を知らないから、ボッシュに共感を覚えるのかもしれないが、コナリーは今のところクリントンの要望に応えている。

 コナリーに影響を与えたミステリー作家は、レイモンド・チャンドラーとロス・マクドナルド、そして、ジョゼフ・ウォンボーである。とくに、コナリーに小説を書くきっかけを与えたチャンドラーは、コナリーのお気に入りの作家である。一九九六年二月にアリゾナ州スコッツデールで催された《ポイズンド・ペン書店》主催のシンポジウム、《AZマーダー・ゴーズ……クラシック》で、コナリーはチャンドラーについて講演をしている(『ミステリマガジン』一九九九年三月号訳載の「マイクル・コナリーのチャンドラー論』を参照)。

 コナリーはチャンドラーをかなり研究しているらしく、研究のためにラ・ホヤにあるチャンドラーのお馴染みの社交場《ウェイリング・バー》に行った。「そして、飲み過ぎてしまったのです。たぶん、わたしは天賦の才をもったチャンドラーの背後霊が取り憑いてくれることを期待していたのですが、結果は二日酔いになっただけでした」(門倉洸太郎訳)

 コナリーは新しい作品を書き始めるときに、チャンドラーの有名なエッセイ「簡単な殺人法」を読むという。コナリーの「書こうとしていることを再確認する儀式のようなもの」らしい。

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 コナリーはめったに短編小説を書かないのだが、オットー・ペンズラーが編纂した二〇〇一年六月刊の野球ミステリー・アンソロジー Murderer's Row に Two-Bagger(『ミステリマガジン』訳載予定)という短編を寄稿した。ボッシュもマッケイレブもマカヴォイもキャシー・ブラックも登場しないノンシリーズ作品である。

 そのほか、コナリーの公式ウェブサイトには、長編小説で使われなかったエピソードが載っている。"1961" というスケッチは一九九五年刊の『ラスト・コヨーテ』のプロローグとなるはずだったもので、養護施設のフェンス脇で十一才のボッシュが母親と話をする場面である。ボッシュが母親の姿を最後に見る場面でもあるが、編集者マイクル・ピーチと話し合った結果、作品から削除することにしたという。"1965" というエピソードは、コナリーが一九九九年刊の Angels Flight を執筆中に書いたもので、ボッシュが新しい里親のところに預けられ、新しい学校で除け者にされ、同じく除け者の黒人少女と一緒にダンスに行くエピソードが綴られている。結局、これも作品には使われなかったが、ボッシュが生まれて初めてジャズを耳にするという場面が興味深い。

 二〇〇一年一月二十三日に、A Darkness More Than Night が公式に発売されたのだが、その日にコナリー・コムのメーリング・リストのメンバーに Cielo Azul(『ジャーロ』二〇〇一年秋号訳載)という短編が電子メールで送られてきた。Darkness には、ボッシュとマッケイレブが以前に共同で殺人事件を捜査したことがあると書かれている。その事件がこの「シエロ・アズル事件」なのだ。身元不明の少女の全裸死体が発見され、ボッシュはまだFBIの心理分析官だった頃のマッケイレブに協力を求めに行くという話で、『ザ・ポエット』の不明瞭な結末を説明しているようにも受け取れる。この短編の特色は、ボッシュの一人称記述で語られていることだ。

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 現在のコナリーは一年に一作発表する(毎年一月に刊行)ベストセラー作家になり、アウトラインなしで執筆するという。ボッシュものは十二作目まで書く予定らしい。コナリーによると、ボッシュものを書くことがだんだん難しくなってきたという。ボッシュについてはほとんどのことを書いてしまって、書き残した新鮮な面が少なくなっているからだ。二〇〇二年刊のボッシュもの City of Bones の結末で、ボッシュはとうとう……いやいや、言わないほうがいいだろう。

 コナリーはボッシュや、『ザ・ポエット』のジャック・マカヴォイや、『わが心臓の痛み』のテリー・マッケイレブや、本書のキャシー・ブラックが同時に住む平行世界を創造しているので、ボッシュとマッケイレブが共演する A Darkness More Than Night にマカヴォイがゲスト出演するように、キャシーは将来の作品にゲスト出演するかもしれない。もしくは、本書の続編で再び主役を張るかもしれない。それは、今のところマイクル・コナリー自身にもわからないだろう。

 とにかく、この筆者はいつかキャシー・ブラックに再会できるものと信じている。

二〇〇一年七月

[マイクル・コナリー著作リスト]
1*The Black Echo (1992)『ナイトホークス』扶桑社文庫 
2*The Black Ice (1993)『ブラック・アイス』扶桑社文庫 
3*The Concrete Blonde (1994)『ブラック・ハート』扶桑社文庫 
4*The Last Coyote (1995)『ラスト・コヨーテ』扶桑社文庫 
5 The Poet (1996)『ザ・ポエット』扶桑社文庫
6*The Trunk Music (1997)『トランク・ミュージック』扶桑社文庫 
7 Blood Work (1998)『わが心臓の痛み』扶桑社 
8*Angels Flight (1999) 扶桑社近刊 
9 Void Moon (2000)『バッドラック・ムーン』講談社文庫 本書
10*A Darkness More Than Night (2001) 講談社文庫近刊 
11*City of Bones (2002)  
[*印はハリー・ボッシュもの]

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これは木村二郎名義で翻訳したマイクル・コナリーの『バッドラック・ムーン』(講談社文庫、2001年8月刊、上876円、下857円)の巻末解説であり、自称研究家の木村仁良が書いている。講談社文庫発行の『IN☆POCKET』2001年8月号に訳者の木村二郎が「月見る月は悪運の月」という「もうひとつのあとがき」を書いているので、いちおう目を通しておいてくだされ。(ジロリンタン、2001年8月吉日)

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