真理さんへ

 また春がめぐってきました。道端のあちこちにかわいいタンポポの花が、黄色いまん丸な笑顔をのぞかせています。私は子供たちと一緒に、あっちのタンポポ、こっちのタンポポと、順々に声をかけながら散歩する毎日です。固く冷たい地面のどこで、こんなにも小さな命が寒い冬を耐え春を待っていたのかと思うと、この世に存在する命あるすべてのものの生きる力と、それを見守る大いなる自然の厳しさと温かさを思わずにはいられません。

 私は最近、自分の人生に貫かれた一本の見えない糸を感じさせられるような出来事に出会いました。大いなる意志の力とでも呼ぶべきもののような、その糸の存在に気づいたことは、自分がこの世に生かされているということの意味に思わず深い畏敬を抱かせられるような発見でした。私は今それを他の誰かに伝えたいと思っています。そしてそうするにはやはり、私の人生に起こった事実の流れをそのまま書いていくのが、一番いいような気がしています。そうすることによって、人間の目には互いに無関係で切れ切れにしか見えなかった一つ一つの出来事が、不思議な綾を織り成して、全体で一つの大きな物語となっていること、そしてそれが神様の描かれたストーリーであることが、自ずとわかってもらえるように思います。

(1)

































 


私が物心ついた頃から既に、お酒が入れば母に暴力をふるっていた父。母の髪の毛を根こそぎつかみ、部屋の壁に「これでもか、これでもか」と言わんばかりに打ちつける。畳に倒れた母の頭を、じりじりと釘でもねじこむように踵で踏みつけ、今度は仰向けにして顔面を蹴りつける。首をしめる。母の声がかすれる。しまいには声が出なくなる。まだ小学生の私の力では、母の首に巻かれた父の手を振りほどけない。(お願い、お母さん、死なないで!)悲しいとか辛いとか感じている暇さえない、生と死の境界線ぎりぎりで闘っている必死なだけの夜。やがて、夜の終わりもわからぬままに、次の朝を迎える。腫れた顔を冷やし、何事も無かったかのように装って、母は朝早くから勤めに出る。私も学校へ行き、人一倍気丈に振る舞って帰ってくる。一人ぼっちの夕ご飯。その夜起こることへの不安だけが支配する、静かすぎるひととき。押し入れの上の段に敷かれた布団にもぐりこんだ途端、言いようのない悲しみが高波のように襲ってきて、心が押しつぶされそうになる。


 そんな子供時代の思い出をもとに書いた、私の童話『涙がくれたおくりもの』が、いくつかの新聞・雑誌で紹介され、それを読まれた真理さんが私にお手紙を下さったのがきっかけで、こうしてご縁ができたんですよね。

(2)

































 


 この童話に出てくる妖精の言葉に、「悲しかったり、つらかったりして流す涙って、決してむだにはならないのよ。ほら、こうやって悲しみの涙の粒をのぞくとね、自分だけじゃない、ほかの人の悲しみまでわかるようになるのよ」というのがありますが、まさにその言葉の通り、新聞記事を見て寄せられた多くの手紙が、私と同じような、またはそれ以上に辛い思いをされている方々がいかに多いかを教えてくれたのでした。

 そして、妖精が語る「心が傷ついている人ほど、大きな愛を感じ取ることができるし、人の心に愛の種をまくこともできるのよ」という言葉の通り、様々な苦しみや悲しみの中にありながらも強く生きていらっしゃる、多くの方々から頂いた共感のお手紙は、私にとって何よりの癒しとなり、一生の財産ともしたい心の交流がそこから生まれたのでした。

********************

 私には、小さい頃の記憶というのが、あまり多くありません。小学校に入る前の思い出ともなれば、その数は片手の指でも十分なくらいです。最初は皆そんなものかと思っていましたが、結婚してから夫の話を聞いてみると、思い出の数の違いに驚くばかりです。それでも、僅かながらに残っている私の幼い頃の記憶は、前後のつながりのない断片的なものばかりではありますが、どれも妙に具体的で鮮明なのです。

 まだ小学校に入る前、小さなアパートの一室に住んでいた時のことです。狭い部屋の片隅にあるガス台で、母がよく「ちびろくラーメン」とかいう名前の、小さなインスタント

(3)

































 


ラーメンを作ってくれたものです。その時の母の背中と鍋から煮立つ湯気が、小さい頃の思い出として真っ先に思い浮かぶのです。それと同時に、母がテーブルに向かい夜遅くまで内職をしていた姿も、鮮やかに思い浮かびます。それが何の部品だったのかはよくわかりませんが、油のついた銀色の小さいリングの穴に、ピンセットでネジを1つ1つ乗せながら、幾つも幾つも上に重ねていくのです。できあがった大きさは、ちょうど女の人が髪にまくカーラーぐらいだったと思います。小さい頃の記憶がほとんど無いわりには、内職部品の細かい形や組み立てる手順だけは、妙にはっきりと覚えているのです。いつも母の横にぴったりとくっついて、その手元を穴のあくほど見つめていたからかもしれません。

 また最近になってようやく思い出したこととして、保育所時代、父の日のプレゼントにと、細長い紙にクレヨンで色をぬり、ストライプのネクタイを作ったことがありました。もらった父は大変な喜びようで、翌日大胆にもそれを会社にしめていったのです。小さい子供が作った紙のネクタイを、いくら嬉しいとはいえ本当に会社にしめていく親バカなほどの愛情を、なんだかくすぐったいような嬉しさでもって記憶していたように思います。それが二十年以上を経て、新聞記者の方に「お父さんとの楽しい思い出はありますか」と質問されるまで忘れていたとは…。父に対する悪い印象が増幅していくにつれ、父が私を愛していてくれた記憶までも無くなっていき、自分の子供時代は全くの暗黒時代だったといつしか思い込んでいたのでした。

(4)

































 


 私が小学校に上がる時、我が家はそれまでの小さなアパートから市営住宅に移りました。 童話の舞台となったその家では、押入れの上の段に布団を敷き、そこを私用のベッドとして使っていました。枕元に小さな電灯があるだけのあまりの殺風景さに、母がカレンダーの裏側を使って物語の挿し絵を大きく描き写してくれ、それを壁に貼っていました。一時期母は、昼間の仕事の他に、夜もまた仲居さんの仕事をやっていたことがありました。夕方母が着物姿に着替え、帯をぎゅっと締めている時の後ろ姿、それを淋しさをこらえながらじっと見守っていたことをよく覚えています。母の背中には、「ごめんね、これから仕事なの」という張り紙でもしてあるかのように、ピンと張りつめたものが漂い、とても私には「行かないで」と口にする勇気はありませんでした。私はただ黙って、着せ替え人形の髪をいじりまわしながら、母の背中を見つめていました。

 こう書くと、母が何か仕事一途の人間のように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。月に何万円と酒代に消えてなくなる家計を支えるため、母も必死に働いていただけでした。やっと家に帰っても、父の機嫌をうかがいながら心の安まる暇など片時もなく、父が家にいなければいないで、どこへ行ったかと心配し、夜中にもかかわらず、「おい、今すぐ迎えに来い」の電話で飲み屋に呼び出され、父を介抱しながら家に連れ帰るのが仕事でした。そして、父のかける迷惑のために、いつも隣近所やスナック、警察に頭を下げてまわるのが、母のもう一つの仕事でもありました。

(5)

































 


 そんな母を見ながら私は、どんなに貧しくても母と二人だけで安心して笑って暮らせる生活がしたいと、ずっと思っていました。(そのためならどんな我慢だってできる。貧しくても、私の姓が変わろうとも、それで友達から好奇の目で見られようとも、お父さんなんていなくていい。いや、いない方がいい。お願いだから、早く離婚して)と、ひたすら思っていました。けれど母は幼い頃に自分の両親を亡くしていましたから、どんな親でもいないよりはましと思っていたらしく、娘を片親にさせてはかわいそうだという思いを捨てることができませんでした。それに、(自分は夫と別れたら赤の他人になれるけれど、父と娘の血のつながりは無くならないのだから、今度はきっと娘にすべての負担がかかるだろう。それなら娘に父親の迷惑がかからないよう、自分が盾となって娘を守ろう)と、敢えて父のそばを離れなかったのでした。母のそんな気持ちは十分過ぎるほど分かります。けれど私にしてみれば、(こんな辛い毎日が続くぐらいなら、いっそ別れて一日でも平和に眠れる夜がある方がいい。別れないうちから先のことを心配したって、仕方が無いじゃないか)という思いでした。母にとっては、その頃の私がそれほど思いつめているとは想像できなかったのではないかと思います。というのも、それから二十年以上たって父が断酒し、私が小学校時代の体験をもとに童話『涙がくれたおくりもの』を書いた時、母はこう言ったのです。「映ちゃんはあの頃、そんなにまで辛い思いをしとったんだね。あの頃のお父さんときたら、PTAの会長をしたり、町内会の会長をしたりして、一番輝いてい

(6)

































 


る時期だと思ったけどね。あんたが東京の大学へ行ってからのお父さんの暴力ときたら、小学校の頃とは比べものにならないほどひどいものだったよ。あんたには父親のそんなこと全部聞かせたら可哀想だから言ってないけど、大学の頃のお父さんの様子をあんたが知っていたら、一体どんな童話になったかと思うわ。」

 けれど私にとっては、童話の設定を考える際に、小学生の頃の自分を主人公とすることに何の迷いもなかったのです。理由は簡単です。その頃が一番純粋に傷ついていたからです。それに、父の暴力に対する恐怖が映像的に一番鮮明に焼き付いている頃でもあったからです。

 まずは童話にも書きましたが、雪の中をパジャマのまま裸足で母と逃げた思い出。最近は富山にも本当の大雪というのは少なくなりましたが、当時は五十センチから一メートル程度の雪はざら。豪雪の年では、一階が全部雪に埋まって家の二階から出入りする光景も見られるほど。たとえ50センチ程の雪でも、小学生の私には足を全部とられてしまうほどの雪。その中を、足を必死に前に前に出して、雪の中に倒れ込みそうになりながら走った夜。忘れようもありません。ちょうど母の職場の同僚が近所に住んでいたのですが、母と私は夢中でその家に逃げ込みました。すると追いかけてきた父もまたその家に勝手に上がり込み、今度は人の家を借りて、また追いつ追われつが始まりました。そしてとうとう父が母を捕らえ殴りかかろうとした時、私が夢中で割って入って、「お父さん、やめて。

(7)

































 


お母さんを殴るなら、私を殴って」と叫びました。その後母と私は一キロ程離れた電車の駅まで逃げ、そこの待合室で新聞紙を体に巻きつけゴミ袋をかぶって一夜を明かしのです。

 またこんな事もありました。ある夜遅くパトカーがやって来て、家の前に停まりました。何人かのおまわりさんの話し声や足音が聞こえます。きっと父が暴力事件か何かを起こしたのでしょう。前後関係も、その時父がどこにいたかさえも、さっぱり覚えていないのですが、母と私はパトカーが到着する一瞬前に、家のそばの駐車場に停めてあった、父の大型トラックの幌の中に慌てて逃げ込んで、身を隠したのです。母がなぜそんな事をしたのかはわかりません。とにかく私が覚えている事と言ったら、幌ごしにでもサイレンの赤い点滅が感じられてドキドキしたことと、(私たちが悪いことをしたわけでもないのに、どうしてここに隠れていなければならないのだろう。どうして外に出て行って、おまわりさんに話をしないのだろう。あんなお父さん、早く捕まえて連れていってくれればいいのに…)と感じながら、トラックの中にいたということだけです。母はいつも父が外で迷惑をかけた時に、父のかわりに頭を下げて回ったり、父親のことで娘が近所や学校で恥ずかしい思いをしないよう、事実を周囲にひた隠しにするようなところがありました。それとは反対に、娘の私は大人の世界のごまかしが大嫌いで、正義の剣をふりまわしているようなところがあり、母のように父をかばおうとする気持ちなど全くありませんでした。むしろ逆に、(警察はどうしてこんな悪人をいつまでも野放しにしておくのだろう)とさえ思っ

(8)

































 


ていたのでした。

 人を傷つけるまでに鋭かった私のむき出しの正義感も、さすがに中学生の頃ともなると、すっかり鳴りを潜めてしまいました。これには自分なりの理由がありました。小学生の頃は、いつも父と母がもみ合う中に割って入って母をかばおうとしていたのが、いつの頃からか、自分がそうすることによって、かえって父を逆上させ、母の立場をよけい悪くさせてしまうことに気がついたのです。父なりに娘を可愛がっているつもりだったのでしょう。その娘が身を呈して母ばかりをかばおうとするのですから頭にくる、けれど娘には手をあげたくない、だからよけいに母への暴力がエスカレートする、という図式を、少しだけ大人になった私は読み取ったのです。それで中学生になった頃からは、両親の喧嘩から一歩も二歩も引いて、あからさまに母の味方をすることはなくなったのです。

 これには、中学進学と同時に、住まいが一戸建ての借家に変わったことも影響しました。二階に独立した自分の部屋が持てるようになると、階下で父と母の言い争う声が聞こえても、ずっと自室に閉じこもったままでいるようになったのです。そうは言っても、下からドタンバタンと揉み合う音が聞こえてくると、もう落ち着いてなどいられません。ひたすら耳をそばだてながら階下の様子に注意を払い、いよいよ母の身が危ないと感じた瞬間に大急ぎで階段を駆け下り、止めに入るようになったのでした。

 私のこの態度の変化にまつわる後日談があります。それから約二十年後の一九九六年三

(9)

































 


月、父が断酒して九ヶ月後に両親が千葉の私の家に遊びに来た時のことです。私は初めて両親と一緒に、地元松戸市の断酒会に出る機会を得ました。体験発表の中で私は、中学以降自分が父に対して心とは裏腹の態度をとるようになったことを話しました。後で知って驚いたことに、それを聞くまで母は、「映代は自分をかばってもくれず、なんて冷たい娘なんだろう」と思っていたらしいのです。それが、私の体験発表を聞いて初めて事情を知り、「自分はなんて愚かな母親だったんだろう。親なら、娘のそんな気持ちぐらい、言わなくてもわかっていてやるべきだったのに…」と思ったそうです。一方の私は、二十年近くの間、母親に自分の真意が通じていなかったことにショックを受けたのでした。

 話はだいぶ飛んでしまいましたが、もう一度小学校時代の思い出に戻ります。さきほど母の言葉の中に父が町内会長もしていた、とありましたが、これもまた私にとっては嫌なことでした。住まいが市営住宅の頃でしたから、押し入れのベッドが私の唯一の空間だったのですが、ひとたびその襖を開け放つと、畳二間をぶち抜いて二十人ほどのおじさん達が、町内会の会合と称して大円を描いて座り、半ば酒盛り状態なのです。母が仕事でいない時は本当に心細く、また居たとしても、お酒臭いおじさん達の間を女中のように動き回り、愛想笑いの一つも二つも浮かべているのですから、これもまた私にとっては見たくもない姿でした。父ときたらそれでも不満なのか、「おい、早く酒持ってこんか。お客さんに酌せんか」と、しじゅう威張り散らしています。父の性格を良く言えば、細かいことに

(10)