終     章

(三)


 病院を退院してから、行方知れずになっていた正ちゃんを見かけたのは、和紀が断酒を始めてから、七年目の夏のことだった。
 本社出張を命じられた和紀は、早朝の電車に乗るべく駅に着いたが、少々早く着き過ぎてしまったために、出発までの時間を持て余していた。
 バス発着所には、夏山登山をする人のために、早朝からバスが運行されている。
 その一角は賑わいを見せているものの、まだ閑散としている発着所の隅に三人の男がいるのが目に入った。
 和紀は直観でその男達が、酒を飲んでいることが理解できた。
 男達からかなりの距離を置き、観察していると、酒を持ったまま発着所の屋根を支える鉄骨に抱きついた男に見覚えがある。
 思考を巡らしているうちに、男はこちらにふらふらと左右に揺れながらやって来る。
 薄汚れたワイシャツの前を肌けて、ズボンの股下からだらしなくその裾がはみ出している。(繙正ちゃん…)
 (正ちゃんだ…)思わず和紀は、腕時計を見た。
 電車が到着するにはまだ三十分程残されている。
 正ちゃんに何かを伝える必要を感じていた。
 夏の朝陽は、勢いを増してビルの間から射し込んでくる。その陽を背にして、正ちゃんは植え込みの前まで来た。
 声を掛けようとして、あっ、と息を呑んだ。
 植え込みの前で朝食を摂っている年配夫婦の登山客に、底に僅かに残るカップ酒を示して、ウーウーと言葉にならない声をあげている。
 空いているほうの手で、カップ酒を示し、それから遠くを指さした。
 それを何回も繰り返すため、訝しくなった登山客は、小銭を正ちゃんに渡した。
 正ちゃんは、また、ウーウーと言葉にならない声をあげて、何度も何度も頭を下げた。
 和紀は、自分の取るべき行動と、言葉を完全に失っていた。
 正ちゃんは生きていた、あれだけになりながらも、生きていた。
 (正ちゃんは…。いまだに宿り木だ……)

 和紀は、不思議な気持ちにかられていた。
 一緒に飲んでいた飲んべえ仲間の男が、一人は酒をやめ、一人はまだ酒を飲み、しかも、以前の飲み方から比べ、比較にならないくらいに悪くなっている。
 アルコール依存症の根底にある生き方は、受け身で、強く人を頼るところにある。
 大樹に軒を借りる宿り木のようなものだと思っている。
 和紀の四十五年の人生も、両親を頼り、玲子を頼り、その人達の人生の片隅に、間借りをして生きてきたようなものである。
 両親を亡くし、内観をし、そこで知り合った人々を心の支えに生きてきた。
 それにしても、と、和紀は思う。
 開放病棟での田島さん、津沢さん、それに百代ちゃんはどうだろうか…と。

 陽は高く上がり、登山客の数も増えてきた。
 小銭を渡された正ちゃんの姿は、朝陽に隠れてもう見えなくなっていた。