終     章

(一)


 柩が係員の手で鉄の扉の向こうに消えると、弾かれるように和紀は外に出た。
 そとは、六月の緑が陽に映えて眩かった。
 幾人の人々が、ここから彼岸へと旅立ったことであろうか。
 累々と築かれた屍の醸し出す霊場の暗さと緊張から開放されて、一息つける気持ちであった。
 白い煙突からは、青黒い煙が、父の残す最後の形となって中空に消えていく。
 遠い昔の、懐かしい人々や数々の出来事までもが、煙と共に消えていくように思えてならなかった。
 「父ちゃん…。父ちゃん…。ごめん」
 縋り付きたい気持ちにかられて、登り逝く煙に向かって一心に手を合わせていた。

 玲子と千明を実家に残して、病院に着いたのは、その日の深夜近くになっていた。
 当直看護婦が、夕食が残っていることを教えてくれたが、寝静まった病室で、静かに布団にくるまった。
 朝になっても少しも気が晴れず、ディルームからぼんやりと外を眺めていると、津沢さんもやって来て、和紀の近くの椅子に腰掛けた。
 津沢さんも同じように、ぼんやりしていたが、見ると津沢さんの頬には、涙が筋になって流れている。
 津沢さんは、重度の鬱で、一日中何もしないで、ただぼんやりと外を眺めている事があったから、何時もは気にも止めなかったが、その時は津沢さんの近くまで行って声をかけてみたくなった。
 「さびしいよね。津沢さん」
 「うん。これからはさびしくなるよね」
 津沢さんは、前を向いままそう言った。
 「これからって?どういうこと?」
 尋ねる和紀に、新たな涙の筋を拭おうともせずに
 「氏家さん。お父さん亡くなられたでしょ。僕もね、二年前に父が死んだんだよ。
  病院にいるときに。父はね、長男の僕がこんな病気になったのは、父が後添えを
  もらって、義母が僕に辛く当たるからだと思っていて、何時も済まない。済まない
  っていっていた。病院の費用も充分過ぎるくらいにしてくれていたけど、父が
  死んでからは、小遣いにも不自由するようになってしまった。
  父がいなくなってからは、外泊もしなくなったよ。妹が来いって言ってくれるけど、
  妹にも家族があるからねえ…。肉親はありがたいよね。これからは寂しくなる
  けど、頑張ってね」
 和紀の父が亡くなったことで、津沢さんは、自分の父親を思い出していたのだ。
 しかし、和紀のために流してくれた涙だとも思えて、嬉しかった。
 (津沢さん…。ありがとう)和紀は目頭が熱くなるのを禁じえなかった。
 朝食のときになって、拒食症の百代ちゃんが白い木槿の花を一輪、和紀の前に差し出した。
 「氏家さんのお父さんに……」
 百代ちゃんは十二才の小学生だから、お母さんが毎朝早くから付き添いに来る。
 そのお母さんが、今朝一番に剪り取った木槿の花だった。

 田島さんが言った通り、和紀は彼らから見て、通りすがりの患者でしかない。
 その通りすがりの人に、一緒になって涙を流してくれ、父のためにと花をかざしてくれる。
 言いようのないありがたさと、済まなさが混在して、身につまされた。
 「ウーちゃん。うるさい親父が死んで清々したろ。俺の親父は八十九で、まだ
  ピンピンしてる。うるそーて、うるそーて早く死んでくれんか思うとるぜ。
  エヘヘヘ……」
 それに引き換え、アルコール患者の田中さんは、いったいどういうつもりだろう。
 所詮、アルコール患者はこんなものなのだろうか。
 こんなことだから、幻覚を見るまで酒に溺れるのだと、自分のことは棚に上げて、憎々しげに田中さんを睨み返してやった。

 「ただいまの時間。どなたについて、どのようなことをお調べいただけましたか」
 僅か畳半畳に仕切られた屏風が開かれ、静かではあるが厳しさを持った面接者の声が響く。
 「はい。小学校高学年の時の、母に対する自分を調べさせて頂きました」
 「お世話になったことは……」
 「はい。お世話になったことは繙繙繙です」
 「お返ししたことは……」
 「何もございません」
 「ご迷惑をおかけしたことは……」
 「はい。繙繙繙繙繙繙です」

 和紀の病院での生活も、二週間を残すだけとなっている。
 今は、内観研修所での集中内観が行われていた。
 開放病棟に移されると、治療のカリキュラムに「内観」の実習が組まれている。
 和紀達の場合は、毎週水曜日の九時から五時までで、主任看護婦が主な面接者であったが、午後の二時には研修所の所長がボランティアで面接し、終了間際に主治医が面接する。
 実習室には屏風も組まれ、昼食もこの日だけは自分の元に運んでもらえるが、食事は屏風の中で摂ることが決められているので、楽しみはなく却って味気ないものになっていた。
 和紀が内観実習に入って二回目のときに、初めて研修所の所長との面接があった。
 「所長さんは厳しいお人ですから、しっかり内観しないといけませんよ」
 主任看護婦が、そう言って和紀達をたしなめたが、和紀は所長との面接前から自分の言おうとすることを反復し、これなら相手の期待する答え方だと高をくくってその時を待っていた。
 屏風の前で合掌し、更に深々とお辞儀する面接者の気配がする。
 和紀もかしこまって、中からうやうやしく礼を返すと、静かに屏風が開かれた。
 瞬間。和紀はくらくらと目眩がした。
 (不浄のものがない!)
 面接する所長の全身から、余分なものが一切排除された、透明な厳しさが漲っている。
 「しまったっ」
 自分の送ってきた生半可な人生を、一瞬にして見透かされたように感じて、衝撃的に全身が硬直するのを覚えた。
 「ただいまの時間、どなたについて、どのようなことをお調べ頂けましたか」
 窓の光を背にして、端然と正座する面接者からは、容赦のない厳しさが伝わってくる。
 心が千々に乱れた。乱れた心は一気に放散して、答えるべき言葉を失っていた。
 慌てた。何かを言わなければならない。言わなければならないが、しかし、口がものを言ってくれないのである。
 「あの……。あの……」
 情けない。まるで餌をねだる鯉である。
 自分を恥じた。恥じながら
 「あの…。もう一度調べさせて頂きます」と言うのが、精一杯だった。
 和紀の完全な敗北である。この人には勝てない。
 アルコール依存症として、その人生の大多数を否認し続けてきた和紀が、初めて自分を認めた時である。
 その後の、内観実習に対する和紀の態度は一変し、田中さんや橘さんが実習途中で隣の調理室に逃げ込んで、煙草を吸ったりしていたが、本当に真面目に取り組むようになっていた。
 この面接者との衝撃的な出会いがなかったら、父の死を、ひとつの事実として、静かに受け入れることはできなかっただろうと思っている。

 「氏家さん。あなた、集中内観をやってみますか」
 「実習でやられていることを、一週間かけてやるのですが、これには健康保険が
  ききません。ですが、その割には費用もそれほどかかりませんし、氏家さんの場合
  は、このままの治療よりも、今までの実習の結果から見て、内観が向いていると
  思われますが、どうでしょうか」
 病棟回診の時の主治医の話である。
 自分の信頼している主治医が、自分の内観を評価していてくれる。
 そう思うと、和紀はとてつもなく嬉しく、二つ返事でここにいる。