富山県の人口試論(2)
富山県の人口試論(2)

−前回(2月号)は、富山と石川両県の比較を中心に富山県の人口変動の要因を検討したが、今回は、地方一般の課題である高学歴化と雇用の問題を考え、続いて富山県の人口増加対策としてどのような視点が必要かを述べることとしたい。−
第5 富山県の人口を考える上での大きなテーマ
− 高学歴化と雇用 −労働力供給側の変化−


 富山県に魅力的な雇用の場が少ないという意見が、各種のアンケートで常に大きな比率を占めている。しかし、富山県の有効求人倍率は全国的にも常に高い方に位置しているし、この不況期においても高校卒業予定者の就職内定率なども全国的にかなりの上位にある。このことは、何を意味するだろうか。

 1 新卒時の県内就職率

 次の表(表1)のとおり、高卒、短大卒に比較して、大卒の県内就職率が著しく低い。これを素直に考えれば、県内には高卒、短大卒に適した就職先はたくさんあるが、大卒に適した就職先が少ないということになる(この傾向は、石川県でも同様だろう)。

  県内就職率(表1)  (S63県内高校卒業者)
    高 卒   県内短大卒   県内大卒県内就職率
    90.7    87.2      34.2%

 なお、このことは、県民の多くにとって極めて切実な問題である。というのは、県民の子弟が大学へ進学するとき、親は、将来その子が、同居はもちろん県内にすら戻ってこないという不安やあきらめを感じながら子どもを育てなければならないということだからである。実際に、子どもを大学に進学させると県外へ出て行ってしまうからという理由で進学をあきらめさせた例があるのである。

 かって大学進学率が低かったころには、この問題は、限られた県民の(ある意味で)ぜいたくな問題だった。しかし今は往事とは比較にならないほど多数の高校生が進学するのである。その点で、このことは、昭和40年頃までは大きな問題ではなかったとしても、現在では独居老人や高齢者世帯などにも関連して極めて大きな問題となっていると思う。

 2 新卒者に占める中高卒の比率の変化

 次のグラフ(図5)は、富山県内の中、高校卒業者の進学就職状況から概数で推計した学歴別の(県内出身の)新卒就職者の年次的な変化である。(大学、短大、専修学校については推計である。推計は、例えば、4年制大学への進学者は、4年後に単純に卒業、就職するものとした。)

 これから、次の点が明らかである。
 ア 昭和40年代前半に大学の新卒就職者が急増したこと。
 イ 昭和40年代を通じて急速に中高校からの新卒就職者が減少したこと。
 ウ 昭和60年代に入って専修学校への進学者が増加していること。

 なお、昭和50年まで専修学校進学者は「進学者」としてはカウントされていなかった(無業者扱い)。この専修学校については、昭和40年代以前の裁縫学校的なものから、昭和50年代中頃の「学校」としての認知過程を経て現在は専門的な学校としての色彩が強まっていると考えられる。

        

「教育要覧」(富山県教育委員会)の中学校及び高校卒業者の進路状況資料から推計を含めて作成

 この推計から県内出身新卒就職者に占める中高校卒の割合は、次のグラフ(図6)のように低下してきたことがわかる。すなわち昭和40年には90%近い比率を占めていた中高校卒者が、昭和50年には50%台に低下し、現在は30%台となっている。つまり、現在は、毎年の大学、短大、専修学校新卒就職者は、中高校を卒業して毎年就職する者の約2倍になっているのである。


 3 工場誘致と求職者のミスマッチ

 昭和40年代前半までであれば、単純に企業の工場を誘致すれば、それはそのまま新卒者の雇用の確保を意味した。というのは、図6からわかるとおり、当時は中高卒者が新卒就職者の約9割を占めていたからである。まさに昭和40年代前半までは、工場の誘致は、就業者の増加をもたらし、人口の増加にも大きく寄与していたと考えられる。

 しかし、現在は、第一に、高校卒業者の県内就職率は高い水準(表1、なお平成5年全国6位)に張り付いており、中高卒者については、むしろ人手不足であって、工場誘致を行っても就業者の増加にはつながっていないのである。

 第二に、工場誘致によって提供される職の多くは、専門的な教育を受けたという自覚を持つ大学等の卒業者のニーズに見合ったものではない。この結果、現在では新卒就職者の3分の2を占めるようになった大卒等(図6)に関しては、工場の誘致政策では適切かつ十分な職の供給ができないのである。

 つまり、昭和40年代までとは異なり、従来型の企業誘致すなわち「工場」誘致政策は、現在では、直接的には人口や雇用には貢献していないのである。現在の県内の高学歴化した求職ニーズに対しては、大卒等に適した分野、例えば研究開発機能や本社機能等の、産業のいわゆる頭脳部分の振興や誘致政策等が、昭和40年代までとは比較にならないほど重要になってきていると考える。

 ただし、工場誘致の産業構造転換効果その他の効果は大きい。また、現在、円高やそれに関連する経済のグローバル化に伴って、製造業の海外流出、産業の空洞化が懸念されている。そのような環境の変化の中で、工場誘致は、改めて、県内の雇用の確保の観点から重要性を増すことになるかもしれない。

 もちろん、これは、県内に魅力的な職場がないということを主張しているわけではない。県内企業が持つ魅力ある職を若者たちに知ってもらうことは重要だろう。しかし、職を求める若者たちから見れば、問題は、第一に魅力的な職があるとしてもその絶対量が根本的に不足していることであり、第二に多様性に欠けるという意味で選択の幅が小さいことである。

 このことは、富山県に限らず、石川県をはじめ地方にとって共通の課題である。この課題は、長らく解決が困難ではないかと考えられてきた。しかし、現在進みつつある高度情報化の波が、あるいは、この問題の解決の大きな鍵になるかもしれないと思う。この意味で、地方が「情報化」を注視していくことが今ほど必要とされる時期はないと考える。

 4 女性の流出と雇用

 先に、富山県の出生率が低い原因は、若い女性が少ないことであるとした。ではなぜ、若い女性が少ないのだろうか。この点を社会増減で見ると、グラフ(図7)のように、男性は、流出に対して学卒後のUターン等がそれなりにあるのに対して、女性は、それがほとんどない。特に昭和52〜53年頃までは、若い女性の社会減(流出)が、男性よりも著しいのである。これまで述べてきた人口に影響を及ぼす要因は、男性だけでなく女性にも当然当てはまるが、女性の場合は、それが特に顕著に現れていたと考える。これは、それ以後、流出の減少によって改善が見られたが、バブルの崩壊後の今日の状況を男性と比較するとやはり、流出は男性よりも大きい。

 一般論として言えば、若い女性は、男性よりも、手が汚れる生産などの製造現場への就職を嫌う傾向があることは否定できないと思う。これに対して、富山県は、図3(前月号)のように第2次産業の就業者比率が高いのであり、しかも、図4(前月号)のように、事務(技術管理)職や販売・サービス職の増加率が小さいのである。富山は、ブルーカラーの町なのである。富山県の産業構造は、これまで女性にあった職を十分に提供してこなかったと言える。

 つまり、若い女性の流出の大きな原因は、富山県に3次産業的な職業の供給が十分ないことであると思う。

 なお、図7で、最近、男女ともに流入が増加しているが、これは一つには、大都市圏等において、バブルの崩壊や情報化の進展から本社機構等の間接部門の採用の抑制が進んでいる影響であると思う。この意味で、従来の製造現場の合理化だけでなく、間接部門の合理化が進められるようになったことは、大都市圏と地方圏の人口動向に一定の影響を与えつつあると考える。

 図7(略)(グラフ提供 「2010年の富山」研究会(県統計課内))

第6 昭和初期から昭和50年頃まで富山県の人口が石川県の人口を上回ったのはなぜか

−過去の人口要因−

 県の人口対策の成果として石川県と同レベルの人口の伸びを期待するなら、単に環境変化の流れにまかせるだけでなく、それなりの努力−残念ながら石川県以上の努力−が必要である。

 富山県は、職工5人以上の工場の生産額では、昭和17年には全国で第9位だった(これがピークとなった)。これは、往事のいわゆる京浜、中京、阪神、北九州の四大工業地帯の都道府県に次ぐ規模(1東京、2大阪、3神奈川、4兵庫、5福岡、6愛知、7北海道、8静岡、9富山、10京都の順)だったのである。ちなみに現在、富山県の工業出荷額は全国第25位である。

 江戸時代から明治にかけて、富山県は、全国でもっとも貧しい県(北海道への移民が明治後半から大正期にかけて全国1位だった。)の一つだった。その富山県がここまで発展したのは、大落差かつ雪溶け水などで豊富な水量を持つ河川を生かした水力発電の開発が行われ、各発電事業者が、発電所を建設すると同時にその電力を売るため、企業誘致に努力したためである。誘致にあたっては、当時ですら常識を覆す圧倒的に低廉な電力料金(京浜地帯の料金の2分の1から5分の1、一時的には8分の1という契約があったという。)を武器としたのである。

 したがって、雇用面では、大正から昭和初期にかけては、当時の工事は人海戦術であったから、発電所やダムの建設工事等に大きな労働力(雇用)が投入され、その電力を活用した工場の新設ラッシュ(マ建設工事)によって、昭和10年代に入って2次産業の雇用が急速に増加していったのである。この状況を石川県と比較したものが図8である。図のとおり、富山県の生産額はようやく昭和9年に石川県と並んだのだが、その9年後の昭和17年には、決して足踏みしていたわけではない石川県の2倍以上に急成長したのである。つまり、それ以前−昭和初期以前−には、富山県は貧しい農村県にすぎなかったのであり、現在の豊かな富山県は、このときに基盤が作られたのである。富山県の現在を支える産業基盤は、全国レベルで圧倒的に低廉な電力料金を武器として形成されたのである。しかし、その低廉な料金が易々と達成されたわけでもなかったのである(要するに今で言う血の出るようなダンピングだったのだと思う)。今の富山の豊かさは偶然によって手にはいったものではない。今は、その先人の遺産を食いつぶしつつあるのかもしれないと思う。

 (水力発電史については、「北陸電気産業開発史」正治清英 昭和33年(国際公論社)及び「富山の知的生産」富山学研究グループ 平成5年(北日本新聞社))

 なお、富岩運河は、その企業誘致のために掘られたのである。戦後富山の新産都市計画は、ある意味で、戦前に民間主体で行われた企業誘致政策の焼き直し、富山新港は富岩運河の焼き直しであるとも言える。

 富山県は、昭和27年3月に全国ではじめて総合計画を策定している。この「富山県総合開発計画」 は、全7巻3,900ページに及ぶ壮大なもので、国土総合開発法に基づく都道府県計画の性格を併せ持ったものだったが、本格的な計画内容と実行手段を組み込んだ計画としても全国の注目を集め、その後の国の計画や各県の計画のモデルの一つともなったと聞いている。これは、戦前の上記の経験、つまり、能動的に努力すれば自分たちの手で地域経済を変えることが可能だという強烈な体験が下敷きにあったためにできたものではないかと考える。


「第1回日本統計年鑑」総理府統計局 昭和24年(日本統計協会)から作成


 このような戦前の水力開発とそれをベースとした企業誘致、それを基盤とする戦後の産業開発が、昭和初期から昭和50年頃までの約50年間にわたって、本来、江戸時代からの蓄積や地理的な優位を持つ石川県を人口面で富山県が上回るという状況を作り出したのであると思う。

 しかし、このような努力の前提となってきた、産業や社会のあり方そして人々の価値観などが大きく変化しつつある。このまま、それらの環境変化の流れにまかせ、あるがままを受け入れるということも一つの選択であり、これを乗り越えて新たな発展に向けて一層の努力を続けるということも一つの選択である。

第7 富山県や地方の人口対策

 ここまで、国が出生率関連の少子化対策、市町村が住環境の整備対策という役割分担が自然であるとすれば、雇用の確保こそ県の課題であるという視点で、富山県と石川県の比較から、産業構造、地理的要因、大学、観光、そして地方一般の課題として高学歴化と雇用の問題について考えてきた。適切な雇用の供給は、産業の構造や経済の活性化に依存するが、それらは、さらに政治制度や地理的環境にすら依存する。紙幅の関係からそのうちのいくつかを以下の課題としたい。

 さて、特に新卒者の雇用確保という視点で考えると、従来からの中高卒者の雇用の場の確保に加えて、今後は特に大卒等の高学歴層や女性の雇用の場を確保することが重要になってきている。そのような雇用の供給の視点で見ると、主な対策としては、第一に、産業分野では、企業の本社機能、研究開発機能、デザイン関係機能等の企業の頭脳的部分や情報処理産業の振興や誘致があり、また、現地採用の事務職の雇用という意味で企業の支店や営業所等の誘致がある。また、第二に、大学、短大、専修学校等の教育機関等の振興が考えられる。第三には、商業・販売、観光、サービス関係の振興が重要である。これらは、いずれも第3次産業や2次産業の中の3次的な分野である。第四に、もちろん既存の二次産業の一層の活性化も重要である。以下、このような振興の基盤や方策のうちのいくつか(高度情報化、地方集権、地理的対策等)について述べることにする。

 1 企業の本社機能等の地方分散
−富山に本社機能を−


 これまでに述べてきたように、富山県の人口対策にとって、大卒等の高学歴層や女性の雇用の場を確保することが極めて重要になってきている。そのような雇用の場とは、繰り返しになるが、企業の本社機能、研究開発機能、デザイン機能等であり、ついで企業の支店等のオフィス機能である。一般に、これらの機能(支店等は当然除く)の立地は、特に全国展開している企業にとっては、大都市圏特に東京圏以外に選択の余地がないかのように考えられている。本県に登記上の本社を置く企業であっても、事実上の本社機能が大都市圏に流出している例は極めて多い。このような現状は変えることができないのだろうか。

 平成6年6月の国土審議会調査部会の四全総の総合的点検調査部会報告では、21世紀に向けて、1経済のボーダーレス化をはじめとする地球時代、2地球環境問題の世界的広まり等を契機とした自然再認識の時代、3人口減少と高齢化時代、4新地方の時代、5本格的な高度情報化の時代の到来が予想されている。ここでは、こうした変化の中で、地方や本県の本社機能等の誘致に関連すると考える高度情報化と新地方の時代に関連するテーマについて述べ、続いて中小企業等の振興について簡単に述べたい。

  (1) 高度情報化は企業の本社機能等の地方分散に大きな影響を及ぼす

 高度情報化は、マルチメディア等の情報通信技術や光ファイバー網等の情報通信基盤の整備によって、情報格差の縮小や、高度情報ネットワークを活用した連携によって新たな産業発展の可能性を生むとともに、つぎのように、企業の本社機能、研究開発機能、デザイン機能等の地方立地に大きな影響を及ぼすだろう。したがって、これを積極的に生かしていけるよう対策を講じていく必要がある。

 −マルチメディア、テレビ会議、インターネット等−

 FAXのない時代に比べて、現在の仕事のやり方やスピードは大きく変化している。それと同様にテレビ会議が手軽にできるようになれば、離れた地域間で共同で行う仕事が極めて容易になる。同様に、パソコン通信やインターネットの活用も遠隔地間の共同作業のやり方に大きな影響を与えるだろう。つまり、遠隔地間でも、密接なコミュニケーションを保ちながら仕事ができる時代がまもなく来ようとしているのであり、その結果として、遠隔地間の距離を気にしない共同作業が飛躍的に増えていくだろう。

 ちなみに、このようなことは、すでに金さえ出せば可能になっているのである。あとは、そのような手段を持つあるいは利用できる人や企業の「厚み」の問題だけになっているのである。そして、この厚みは、今後急速に増加することが予想されている。このような変化は、企業の頭脳部分の地方立地に大きなプラスの影響を及ぼすだろう。

 −通信料金−

 郵政省は、平成7年4月から電話回線の「公−専」接続を認めることになった。これは地方にとって画期的なことである。「公−専」接続とは、一般の電話回線(公衆回線)と専用線の接続を認めるということである。また、2〜3年後には「公−専−公」の接続を認めるという。専用線は定額料金なので、使用量が多ければ極めて割安になる。ところが、専用線はこれまでは、1対1でしか引けなかったため、その専用線の定額料金を上回る利用頻度の高い企業の特定の本支店間とか特に密接な取引のある企業間を直接結ぶ形でしか活用できなかった。
 ところが、このように制度が変わると、東京全体との連絡量が専用線の定額の借り上げ料を上回る程度の需要があれば、富山ー東京間に専用線を1本借りるだけで、東京都内の不特定の企業等と極めて安い料金で連絡を取れることになる。また、中小企業で、それほど東京等との連絡頻度がない場合でも、誰か(回線リセール業者)が、専用線を借りて、それを安い料金で中小企業に使わせればよいのである。東京に企業が集中する理由のうちの一つは、都内にある膨大な企業に市内料金で電話をかけられるメリットがあることと言われているが、その落差が、これによって大きく改善されることになる。このことは、やはり企業の頭脳部分の地方立地に大きなプラスの影響を及ぼすだろう。

  (2) 「地方集権」は企業の地方分散にとって極めて重要である

 地方分権については、いろいろな論議がされている。しかし、地方分権がなぜ必要かは必ずしも地方の人々の意識になく、あたかも自明のこととして進んでいる部分も多い。一般に、地方分権の意義にはつぎの3つが上げられている。すなわち、
   (ア)多様な地域に画一的なシステムを適用する現在の中央集権的なシス
    テムには問題があり、地域ごとのニーズにきめ細かくこたえる必要がある。
   (イ)東京一極集中の弊害を是正する。
   (ウ)中央集権は、許認可権や補助金等の権限が国に集中しており政治腐
    敗の温床となっている。
である。このうち、(ウ)については、地方の相次ぐスキャンダルによって色あせてしまった。この結果、昨年実施された全国市長会の市長アンケートの中では、地方分権推進の目的としては、第一位は「個性的なまちづくり」78.1%(518市)であり、第二位が「住民サービスの向上」63.0%(418市)であるなど、どちらかと言えば上記の1関連に偏った結果となっている。

 わが国の行政水準が低かった段階では、海外の先進国をモデルに全国一律の施策を考えれば足りたが、一定の行政水準が確保された現在では、全国一律の施策の重要性は低下し、地域にある潜在的な行政ニーズにこたえることが重要になってきている。この結果、「現場」を抱える地方の情報が重要になってきており、国の事業も地方の企画が背景にあるケースが増えている。例えば、国に雪対策ダム事業という制度があるが、これは、井波町の消流雪用水確保のためのダム参加の要望に対して、富山県が、境川ダムで国、町と協議しながら考えた方法がモデルとなって創設された事業である。この状況を、情報の流れを中心に見るとつぎのようになる。

従来(手本のある時代) 海外モデル+あるべき論 => 国の企画  => 地方

現在          現場情報        => 地方の企画 => 国

 しかし、(ア)は、見方によっては、それほど切実な問題ではないという見方が成り立つ。むしろ、(イ)に関連した以下に述べる分野こそ、単に地方にとってというより、わが国全体にとって重要であると考える。

 企業の本社機能等の地方分散という視点で世界を見回すと、アメリカやドイツにおいて、企業の本社が地方都市に分散していることに気づく。これは、富山のように単に登記上の本社が地方にあるという意味での分散ではない。その原因を突き詰めていくと、地方分権−というよりも「地方集権」−にいきあたるのである。

 −アメリカ−

 アメリカ合衆国は、アメリカ「合州国」だという話があるくらいで、州の権限が極めて強い。これは、そもそも、この国が独立したときにさかのぼる。東海岸にあったイギリスの植民地の13の自治組織が集まって、本国と交渉するための組織が作られ、その組織が独立戦争を経て連邦政府に発展していったのである。したがって、そもそも政治行政の権限は13の州政府にあって、その中で、州では単独では行えない外交や防衛などの権限が連邦政府に与えられたのである(現在も、依然として各州は軍隊(州兵)を持っていて、その空軍はジェット戦闘機を持っていたりするのである)。このような権限配分の考え方は、まさに「地方集権」の考え方である。

 そして、このような中央政府の権限が限定されている政治行政環境が、アメリカの企業の地方立地の背景にあるのである。つまり、企業と中央政府との関係が、わが国よりもかなり薄いのである。わが国の新産業都市やテクノポリス等は、アメリカにおけるこのような分散的な産業立地をヒントの一つとして考えられたと言われているが、政治行政制度の差違を考慮しない計画では、はじめからその効果は限定されていたと言えよう。

 −ドイツ−

 ドイツの政治行政も、アメリカと同様、連邦国家の形態をとっている。ドイツというとプロイセンのドイツ帝国やナチスなどのイメージから中央集権的イメージを持たれることも多い。
 しかし、1871年にドイツ帝国ができる以前の数百年間、「神聖ローマ帝国」(ドイツ、オーストリア等を含む)の皇帝は、中期以降は7人の有力諸侯(選定侯と呼ばれた)の選挙によって選ばれていたのであり、皇帝の権限は弱体だったのである。このような脆弱な皇帝権を背景に、ハンザ同盟諸都市などの独立した自由な商業都市が栄えたし、極めて逆説的だがドイツ圏が東方へ拡張していったのである。つまり、ドイツを通じてもたらされるヨーロッパ文化の魅力と、封建領主にとっても上からの制約の少ない自由な政治環境が魅力となって、ポーランドは一貫してドイツ圏に蚕食されていったのである。
 また、プロイセンによるドイツ帝国の成立後においても、バイエルンなどの各王国や諸侯領は独立した国号、君主、政府と議会を持って、ある程度の独立性を保っていたのである。つまり、まず地方の権限が先にあったのである。このため、例えば寄せ集めの「ドイツ軍」を統合的に運用するために考えられたのが、それらの各軍にプロイセン参謀学校出身の将校を配属するという有名なドイツの参謀制度だったのである。
 このような状況は、ナチスドイツ下の約10年の中断期間を経て、現在に引き継がれており、各州は、固有の憲法、政府、議会、裁判所を持ち、州の権限はアメリカと同様に強いのである。

 −アメリカはアメリカ、日本は日本か−

 もちろん、日本には日本の歴史・文化・風土がある。アメリカはアメリカ、日本は日本であるという考え方も成り立つ。しかし、時代がわが国に地方集権を要求していると思う。それは、追いつけ追い越せ型の目標や手順が明確な社会や組織では中央集権型の組織が適しているが、手本のない社会では、中央集権型の社会や組織は、かえってマイナスに働くように見えることである。例えば、イデオロギーを離れて見てみると、ソ連の官僚主導による計画経済制度は、発展段階から言えば、追いつけ追い越せ型の時代に成功し、先進経済をうかがう段階で挫折したのである。ソ連が崩壊せざるを得なかったように、ソ連ほどではなくても、日本の中央集権的な制度も変革をせまられていると思う。
 具体的には、中央集権の課題としてつぎのものが考えられる。
 (ア)中央集権の結果生じた東京一極集中は、東京の地価を押し上げ、わが国企業を高コスト体質にさせている。
 (イ)企業の本社が、東京に過度に集中し各企業の得る情報が同じになっているために、企業の判断、思考が画一化している。これは、これまで追いつくべき確実な手本があったときにはプラスに働いたが、手本のない時代には、マイナスとなるだろう。人と人との直接の頻繁な接触による非公式情報の取得が東京集中のメリットだとされるが、それがむしろ弊害になることも多いのである。適度な孤立が革新を生むことも多い。

 (ウ)手本のない時代にあっては、画一性や規律性よりも創造性がはるかに重要になる。ところが、明治以降、経済的、文化的にわが国が単一化してきたために、わが国社会に創造的な環境が失われている。新しい考え方や方法を生み出すには、異なったもの、異なった考え方同士をぶつけあうことがもっとも有効であるし、多様な考え方を認めあうこと等も重要である。

 このような状況を生み出すために、地域間の独立性、多様性を作り出すことが極めて重要である。ノーベル賞は、1901年に第1回が授与されたが、それから第2次大戦までの三十数年間に、ドイツは、当時の先進国イギリスの1.5倍、中央集権国家フランスの2倍というノーベル賞受賞者(自然科学分野)を輩出している。もちろん、これには多様な要因が考えられるけれども、今日のアメリカと日本を比較して見ても極めて示唆的である。

  (3) 地場企業の振興、創業の支援
 上記のような環境や基盤が整えば、長期的に大企業の本社等を「誘致」することがありうるかもしれないし、その前段階として、環境の整備により、登記上の本社が富山にある企業の本社機能の富山への再誘致もありうるかもしれない。しかし、その第一歩は、やはり各企業が富山に持つ機能を強化していくことであろうし、中でも富山に根をおろした中小企業の振興が重要であると思う。具体的には、新規創業の支援や中小企業の振興によって、富山に本拠を置く有力企業を育てていくことは、県民のニーズにあった雇用の創出につながるものであり、その対策の抜本的強化は県民のコンセンサスを得られるのではないかと考える。

 2 地理的環境の克服

 企業の本支店、営業所等の立地を進めるとともに、商業やサービス分野においても広域から集客し、経済を活性化して雇用を拡大していくためには、石川県の地理的優位に対して、富山県の地理的なマイナスを挽回する方策を講じていく必要がある。

 このような富山の拠点性を強化するための対策の一つとして、広域的な交通基盤を考えると、整備新幹線や高速道路、空路などが考えられる。そして、富山の拠点性を強化するという視点で考えると、東西方向の交通軸については、相対的にはむしろ金沢の拠点性を増す方向に働くと考えられるのであり、富山の拠点性を増す方向に働くのは、東海北陸自動車道等の南北方向の交通軸であることが理解できる。これは、もちろん、企業の誘致等にも効果があるだろう。以下では、東海北陸自動車道や能越自動車道の意義について考えたい。

  (1) 環日本海交流の拠点性の強化と南北軸
 東西冷戦の終結に伴って、日本海が緊張の海から平和の海へと変貌をとげつつある。この結果、21世紀には、環日本海地域が経済的にも文化的にも、相互に活発に交流し合う海となると思う。
 そして、環日本海交流が活発化すれば、伏木富山港の拠点性が向上し、富山空港の意義も大きくなる。しかし、これを両隣の県との競合という視点で見ると、富山の利点は、中京方面との結びつきしかないのである。
新潟には、関越自動車道と新潟新幹線がある。石川には、北陸自動車道がある。つまり、富山の環日本海交流の拠点性を支えるのは東海北陸自動車道等の南北方向の広域交通基盤ということになる。

  (2) 中京方面との結びつきの強化
 新幹線や高速道路等の高速交通体系は、従来の交通体系に比較して、圧倒的に時間距離を短縮する。このため、遠隔地域間の密接な連携が可能となり、それによって地方の生活・産業基盤に大きな影響がある。
 特に富山県から見れば、東海北陸自動車道を介して中京方面との結びつきが強化されれば、環日本海交流にかかわらず、富山を北陸における物流の拠点とすることが可能になる。物流の拠点化は、富山の経済の強化につながる。このためには、東海北陸自動車道の早期完成が重要である。

  (3) 飛騨、能登との結びつきの強化と南北軸
 富山の商圏を広域化するためには、第一に商業集積等都市機能の集積が極めて重要であり、第二に率直に言って競合する中核都市から遠い地域との広域交通基盤の整備が重要である。その意味で、国道41号の高規格化や東海北陸自動車道の建設による飛騨地域との結びつきの強化、能越自動車道による能登地域との結びつきの強化は、富山の商圏の拡大に重要な意味を持つ。

 3 その他

  (1) 大学・学校等は地域を活性化する
 先述のように、大学等の学生定員を増加させることは、人口の増加等に関して効果が大きい。ものごとにしばられない学生の数が町に増えれば、保守的と言われる県民性も変化していくかも知れない。若い比較的自由な時間の多い人たちが街に増えれば街ににぎわいが出る。
 単に人口増加だけの視点から見ると、既存の大学を強化していくことがもっとも効率的である。その強化の視点は、学生が魅力を感ずる大学にするということである。もちろん、それが難しいのである。そういう大学の魅力という視点で考えると、例えば金沢城内にあった金沢大学が郊外に移転したことは、多少金沢大学の魅力を減じさせたかも知れない(ひるがえって同じような意味で富山城祉にとも思う。そうすれば、富山の中心部に若者があふれることにもなろう。しかし、市民の憩いの場がなくなるという問題もある)。

  (2) 観光は今後は県外客対策を強化する必要がある

 富山県では、昭和58年から「いい人 いい味 いきいき富山」をキャッチフレーズに、いきいき富山観光キャンペーンを実施してきている。この結果、観光客の入り込み数が、実施前に比べて約2倍に増加するなど大きな成果をあげている。しかし、その増加の多くはイベントに伴う県内客である。県民のサービス分野への消費支出が全国的にも低いレベルにあることを考えると、この努力は大きな効果を上げてきていると言えるが、今後は、県外からの宿泊客の増加に焦点を合わせていく必要がある。

 平成6年6月に国土審議会調査部会がまとめた四全総の総合的点検調査部会報告書によれば、「自然再認識の時代」が来ているという。富山県は、立山黒部をはじめとして植生自然度本州一の優れた資源を持っている。富山県がこれらの資源を積極的に生かしていけば、大きな可能性が開けると思う。しかし、PR、周遊性・回遊性、もてなしの考え方など課題は多いのかもしれない。また、時代のニーズとして、団体客から個人客への対応を強化することも重要である。その対策の重要な課題は、公共交通機関だと思う。

  (3) 都市の集積

 ショッピングセンターは、一般にいわゆる最寄り品を中心に購買頻度の高い商品を大量に販売している。つまり、消費者が週に一度とか毎日買い物をするようなものを売っているのである。したがって、100万都市であっても5万人の都市であっても、1つ1つのショッピングセンターの質や規模は同じでよい。5万人の都市に1つあるショッピングセンターと同じものが100万都市に20あるというわけである(もっとも日本では法的規制のためにショッピングセンターの性格が部分的にデパート化しているところがあって、話は少し複雑である。しかし、ここではそれは無視しよう)。これに対して、デパートは、専門品が中心である。これは、購買頻度が低い。つまり、普通の人々なら1年に1度とか数年に1度あるいは、数カ月に1度というような品物、あるいは極めて少数のお金持ちを相手とする品物を中心に売っている。したがって、デパートは、都市の人口規模が決定的に重要になる。つまり、同じデパートであっても、100万都市のデパートと30万都市のデパートは、品揃えが違ってくる。一般論として言えば、富山のデパートに金沢のそれと同じ質を求めるのは難しい。まさに都市(あるいはその商圏)がデパートの質を決定するのである。
 いわゆる高次都市機能といわれるものなど都市の魅力を作るものは、比喩的に言えば、ショッピングセンターではなくデパートの性格を持つものである。つまり、都市の魅力は、意識的な努力をしない限り、都市の規模で決まってしまうわけである。その対策は、やはり商業施設や公共施設の集中や重点の形成であると考える。

第8 成果を求めるなら政策面で重点形成が必要である
− 富山県の人口問題の解決は例えば石川県と同レベルの努力では足りない −


 本当に人口問題を解決する必要があると考えるなら、戦前に水力発電の開発や著しく廉価な電力の供給によってはじめて石川県を上回ることができたのと同じように、その対策は、当時ほどではなくてもかなりドラスチックなものでなければならないだろう。上で見てきたように、富山県は、1産業構造面、2地理的側面のいずれにおいても、現状では、(人口対策という視点に限定する限り)資源面で石川県に劣っている。しかし、一方では、昭和初期以前とは異なり、現在の富山県は豊かである。この豊かさを生かしながら、(豊かであるうちに)、つぎの世代のために、努力をすべきであると思う。

 重点形成は、孫子、クラウゼウィッツ、毛沢東、ランチェスター等々誰の理論かに関わらず弱者の戦略、戦術の基本である。この意味で資源の少ない富山は、人口政策面では重点の形成が必要であると思う。本当に成果を求めるなら他県並のことをやるだけでは足りない。


雑誌「とやま経済月報」(平成7年2、3月号)(富山県統計課)
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