三田村は腹に猛烈な激痛を覚え、眼を覚ます。悲鳴を上げる全身の筋肉と関節を無視して無理矢理に上半身を起こす。寝間着をはぐると腹には幾重にも包帯が巻かれていた。
突然ゴムの焦げるような臭いに猛烈な吐き気を覚えた。気が付くと口と鼻に透明なプラスチックの酸素吸入器が当てられていた。宿酔いを酷くしたような猛烈な頭痛に襲われる。激しい嘔吐感を覚えて酸素吸入器を外すと、手近にあった洗面器に吐いた。胃が空っぽのせいか何も出ない。吐くものは胃液だけだった。それでも足りずに十二指腸液まで吐いた。ただ、ひたすらに苦しいだけだった。
一時間ほど水を飲みながら吐き続けていると落ち着いてきた。洗濯用の糊の香りがする病院のベッドに再び横になる。
何処からか消毒用アルコールの匂いが漂ってきていた。
「夢じゃなかったんだな……」
三田村は改めて部屋の中を見回した。
自分以外、誰もいない小さな個室だった。二つ有るドアの一つには「手洗い」と書いてある。もう一つが出入り口だろう。
内側に鍵がないドアと、飾り格子が付けられた窓を見て、ここが警察病院であることに気が付いた。
全身に言い様のない疲労感と敗北感が包み込んでいった。麻酔のせいなのか、再び眠くなってくる。瞼が次第に重くなり、再び黄泉の世界に引きずり込まれていった。
ドアがノックされた音で三田村は眼を開けた。反射的に腕を見たが、腕時計はなくなっていた。眠っているあいだに酸素吸入器は消えていた。
「どうぞ」
投げやりに返事をすると、鍵が開けられる金属音がしてドアが開いた。
そこには一人の女性が立っていた。
「驚かないんですね」
「まあな。女房が死んで以来、大抵のことには驚かなくなったのさ」
三田村のベッドの横の椅子に座ったのは、警察官の制服に身を包んだ貴子だった。
「何時から疑っていたんですか」
「最初から、かな」
「えっ!?」
貴子、と三田村が呼んでいた女性警察官は絶句した。
「アンタは落ち着き過ぎだったんだ。幾ら年季の入ったホステスだって眼の前で撃ち合いが起きれば、もう少し慌てるもんさ」
「…………」
自分の迂闊さに腹が立ったのか、女性捜査官は唇を噛みしめている。
「ただ確信はなかったよ。日本じゃ潜入捜査は御法度だと思ってたからな。まさか秘密捜査官がいるとはね」
女性捜査官は表情を引き締めると杓子定規な口調で否定した。
「いえ、潜入捜査は法で禁じられていますので、その様な事が行われた事実は一切ありません」
腹の底から沸々と怒りが込み上げてくる。
「なるほど、尾崎貴子なんていう女は最初から何処にもいなかったって寸法かい。舐められたもんだな」
だが彼女の表情に派の何の変化もなかった。
「貴方がこの一件に関する全てのことに沈黙するなら、警察は全ての罪を問いません」
三田村は予想通りの言葉に呆れ返った。
「ほう、潜入捜査の次は司法取引かい。まったく警察(サツ)も泣かせてくれるねえ」
三田村は頭に来てはいたが、選択の余地など有るわけがなかった。受け入れざるを得なかった。
「条件がある」
女性警察官は以外だという表情を見せた。
「何でしょうか」
「アンタが知っていることを全部喋ってもらおう。そうじゃなきゃ警察と心中するぜ」
彼女は軽いため息を吐いた。
「まあ、それくらいなら仕方ないでしょうね。何といっても貴方は友人を亡くし、その上自らの命を懸けたのですから」
「なら教えてくれ。川本は何故殺されたんだ?」
「彼もまた私と同じように、事件と対峙する任務に就いていたんです」
「冗談はよせよ。奴も警官だったなんて言っても俺は信じないぜ」
「彼は警官ではありません。《南》の潜入工作員(スリーパー)でした」
「何、何だって?」
「いわゆるところのスパイです」
「何でまたスパイなんかに? よっぽど金にでも困っていたのか」
「そうではありません。彼は生まれつき、そうなる運命を背負っていたんです」
「どういう意味だ?」
「彼の《南》の血がそうさせたのですよ」
「俺は奴の免許証もパスポートも見たことあるが、両方とも間違いなく日本のもんだったぜ」
「彼は十六才のとき両親と一緒に帰化したんです」
「……知らなかった。考えたこともなかったな」
「今回の事件は、元を辿れば《北》の経済崩壊にあります。政府機関はただひたすらに拡大させてきた軍閥を完全にコントロール出来ていません。つまり、金に困った一部の軍閥が手元にある中で手近に金になる武器と覚醒剤を横流しを始めたのです」
「じゃあ、相手はロシアン・マフィアじゃなかったのか」
「《北》の人間には物があっても販路がありません。裏世界の人間同士が世界規模のネットワークで繋がっていることは貴方も知っている通りです」
「じゃあ川本は、それを阻止しようとして消されたのか」
「統一を狙っている《南》としては、軍閥が力を持つことを恐れていますからね」
「田坂のオッサンを撃ったのも奴らなのか」
「そうです。貴方が動いたお陰で警察内部の膿を一気に浄化することが出来ました」
「何でオッサンが撃たれたんだ」
「どうやら連中は貴方を中央から派遣された秘密捜査官だと勘違いしたようです」
「俺を? そいつはとんだ勘違い……させたんだろ、アンタらが」
「何のことでしょうか」
「とぼけんなよ! アンタらが偽の情報を流したに決まってる。でなきゃ、ああもタイミング良く事が動くわけはねえだろう!」
叫んだせいで再び腹が痛くなった。
「くそっ! アンタらのやり口が良く解ったよ」
「貴方は勘違いされているようですね」
「何をだ!」
「田坂刑事は殉職なさってはいません」
「生きてんのか!?」
「ええ、この階の三つ隣の部屋に入院していらしゃいますよ」
「そうか、田坂のオッサン生きてたんだ……」
「三田村さん、一週間後には退院できるそうです。後、この中に貴方の持ち物が入っていますのでお返しします」
女性警察官は床に大きめの紙袋を置くと、椅子から立ち上がった。
「では、私はこれで失礼いたします」
三田村に敬礼して回れ右をすると、ドアのノブに手をかけて立ち止まった。
「三田村さん。何時から騙されていてくれていたんですか」
「そんなこと、いちいち覚えちゃいないさ」
「じゃあ何故……」
「俺自身も不思議だったんだがな。アンタの寝顔を見て解ったよ。アンタ、死んだ麻由美に似てたんだ。顔とかじゃなくって雰囲気がさ……そうだ、最後にもう一つだけ聞かせてくれ」
「何でしょうか?」
「アンタの本当の名前を聞かせてくれ」
「……江利花、鈴木江利花です」
「江利花か。良い名前だ」
江利花は黙ったまま肩を震わせた。ドアの向こうに消えていく。再び鍵がかけられた。
三田村はため息を吐くと床の紙袋を開いてみた。
中には警察に拘留されたときに取り上げられた財布や免許証、携帯電話やベルトが入っていた。
紙袋の中に何かの箱が入っていた。どうやら見舞いの品らしかった。箱を開くと、中身は病院では一切禁止されている煙草と酒だった。両方とも三田村が好きな銘柄だ。
「警察も粋なことするねえ」
三田村は早速煙草をくわえると、一緒に入っていたオイルライターで火を点けた。
何日かぶりに吸う煙草のニコチンとタールが全身を駆け回っていく。軽い目眩さえする。
三田村は酒を飲んだ。
たちまちのうちに酔いが全身に回っていく。
立ち上る紫煙を眺めているうちに、何故か常連客達の顔が次々と浮かんできた。
ベッドから降りて窓を開けると、風が入ってきた。
いつの間にか、風は涼やかなものに変わっていた。
思い出して携帯電話の電源を入れてみる。ディスプレイには何件もの留守録が入っている表示が出た。再生してみると殆どが店の常連客からのもので、その中に由美の心配そうな声も入っていた。
「俺は明日からまた向こう側に、しけた飲み屋のマスターに戻るんだな……」
溢れ出した涙が頬を濡らしていく。
風の煽られた紫煙が空中に消えていくように、三田村の脳裏からここ数日間の記憶全てが消えていった。
夏が終わろうとしていた。
完