北陸地方も、だんだんと冬支度が始まっている。公園に行くと、樹木の雪つりや枝落としが始まっている。天気も、ほんとうにおだやかな小春日和があったかと思うと、どんよりした鉛色の空から冷たい雨が降ってくる。それでも、残りわずかな太陽を体に浴びようと、天気のいい朝は、6時半頃起き出して、自宅の周辺の田んぼの周りを散歩する。東の白山に連なる山並みの向こうにオレンジ色の太陽がピンク色に染まった雲を引き連れて上ってくる。
地方都市の弁護士は大変多忙である。
最近は、新民訴とやらで、民事訴訟も準備が大変である。書面は期日の1週間前までに提出しろ、書証を提出するときは証拠説明書を提出しろ、証人や本人の尋問を申請するときは陳述書を提出しろ、等々である。そして、争点が少ない単純な事案は、2,3回の争点整理を経て、2,3人の人証を1回で集中的に尋問して結審するという。電車で言えば、のぞみ号並みの超特急審理である。国民は、このようなスピード審理を求めているという。
しかし、争点が比較的単純な事案というのがくせ者である。そんなものが最初から分かるのか。原告側も被告側も、双方の依頼者が事実を有利不利を問わず全部弁護士に話してくれればともかくとして、最初から、自分に不利なことまで全部弁護士に伝えるはずがない。しかも、いっそう困ったことに、依頼者が重要だと思うことと、法律家の目から見て重要だと思うことはずれているし、わが依頼者が事案の全体を把握しているとは限らないし、当然、認識には自分に有利なようにバイアスがかかっている。弁護士の目に入る事実がこのように限定的なものだということを前提にしたときに、果たして超特急審理が妥当なのか。ここがまず第一の問題点である。
第二の問題点は、電車に鈍行と急行と特急と超特急と、最近では新幹線にもこだまとひかりとのぞみがあるように、事件にも超特急型と特急型と鈍行型と、場合によっては超鈍行型(裁判所には申し訳ないが、時間をかけて当事者が疲れ果てて和解するのを待つ事件。時間をかけて熟成するようなものである)がある。鈍行型の事件に超特急型審理である新民訴を適用したところで、ろくな酒ができあがらない。ところが、新民訴はそのような事件の質というものを全く理解していない。しかも、電車で言えば、どの電車に乗るか当事者が自由に選択できるように、民事訴訟も、超特急型で行くか、鈍行型で行くのか選択する自由があってしかるべきである。ところが、新民訴は、そんな当事者の便宜など考えもせずに、猫も杓子も超特急に乗せてしまう。大都会の事件をベースに、学者や裁判官が中心となって作り上げた机上の空論の弊害である。
というわけで、田舎弁護士は、日曜日も返上して準備にあけくれるが、どうも私は要領がよくないようで、1週間前に出す予定の書面は、早くて1日前、とにかく期日の前に出そうということで、30分前に提出するのが関の山である。まあ、それでも、期日の法定で提出していた旧民訴の時代よりは早くなったと思ってもらうしかあるまい。