一、私は、この裁判に係わるまでじん肺という病気をよく知りませんでした。司法修
習性の時、職業病の一種でそういう病気があると聞かされた程度です。
しかし、この裁判に係わるようになってから、色々なじん肺患者とお会いする
機会ができました。そこで、私から見た患者さんの実態についてお話しさせてい
ただきます。
二、この裁判に係わるようになって、私は、原告の一人で静岡県に住んでいる山城巌
さんというじん肺患者に会いに行ったことがあります。
山城さんは、昭和二年九月八日生まれの七〇歳の方です。
山城さんとは二度会っていますが、初めて会ったとき、山城さんは、静岡駅で
「山城」と書いた白いビニールの買い物袋を手に持って、私を待っていました。
私と挨拶を交わした際、すぐにじん肺の患者さんだということがわかりました。
「ヒュー」「ヒュー」という木枯らしが吹くような音をたてながら、山城さんが
自己紹介したからです。息を吐き出すときに、そういう音を立てながらでないと
呼吸ができないのです。
三、山城さんと、最初にあった時は、静岡駅構内の喫茶店でお話をお聞きしたのです
が、喫茶店まで歩いて行くことさえ、大変なことでした。
少し歩きはじめただけで、「ヒュー、ヒュー」という息をする音の間隔が縮ま
り、息が辛くなってきたのが分かります。私は思わず立ち止まり、山城さんに合
わせてゆっくりと歩くことにしました。山城さんの歩き方のテンポは、ゆっくり
と二歩進んで二秒止まるという程度でしょうか。山城さんはそれでも私に気をつ
かっているのでしょう、歩くのに一生懸命でした。
階段は最悪です。三段程登っては止まり、ハアハアと言っては唾を呑み込み、呼
吸を整えます。それの繰り返しです。
皆さんは、話しながら歩くというのは普通のことだと思っているかも知れませ
んが、山城さんにとっては歩くのが精一杯で、話しながら歩くというのはとても
できるような状態ではなく、私は、黙って一緒にあるきました。
喫茶店にはいるなり、山城さんは「クーラーが効いているなー」と気にしていま
した。それが話を聞き始めて一五分程したころでしょうか、突然「ヒュー」と言
うなり、無言になりました。
そして、買い物袋から、何か器具を取り出して、それを口にあてて吸いはじめ
たのでした。
私は慌てました。話しかけることはヤバイと思い、とりあえず、じっと様子を
窺いました。一〇分程して、落ち着いたようでした。
山城さんの呼吸がおさまって聞いたところ、ビニール袋から取り出した器具と
いうのは、アトロベントとサルタノールという携帯型の噴霧器で喘息の発作を抑
える薬でした。
山城さんは、外出するときは、噴霧器を手から離しません。
いつ喘息の発作があるかもしれないのです。発作が始まったとき、その噴霧器
を口にあてないと命にかかわるのです。
「財布を家に忘れることはあっても、この薬は忘れられん。」と山城さんは冗
談めかして言いましたが、私にはとても重い言葉に聞こえました。
四、この山城さんは、もともと大阪に生まれ、その後樺太に移り住み、戦後、一年以
上ロシアに抑留されたそうです。
その後、札幌で父親の仕事を手伝うようになり、葦辺というところで、石炭の
仲買等をしていたようです。石炭が徐々に売れない時代になったことから昭和四
七年からトンネルを掘るようになったのです。
トンネル工をやめたのが昭和五七年三月ですから、トンネル工としての就労は
一〇年程度という比較的に短い期間です。トンネル(立て坑)はお金になると言
われたことから、この仕事に入っていきました。
粉塵がモウモウとしていた中で、トンネルを掘り続けたそうですが、マスクを
つけて仕事をしている人は誰もおらず、それで監督から注意されることは全くあ
りませんでした。そんな仕事を続けて、家には、年に一回帰るか帰らないかとい
う生活でした。
そうこうしているうちに、咳や痰がひどくなり、年々悪くなってきました。
昭和五七年三月以降は、体調が悪くてトンネル工をやめました。その後も他の仕
事をしていましたが、喘息がひどくなって、いよいよ軽作業もできなくなった三
年前から一切の仕事をやめました。
五、二回目にお会いしたときには、山城さんのお宅にまでうかがいました。山城さん
は六畳一間の質素なアパートに独り暮らしをしていました。奥さんとは離婚し、
二人の子供とは行き来はないそうです。
その山城さんのアパートの部屋は一階です。階段は、場合によっては命取りに
なりかねないのです。
私が尋ねていくことは分かっていたはずですが、布団は敷きっぱなしでした。
「もう少しお金があれば、ヘルパーをお願いしたい」と山城さんはすまなさそう
にいっていました。
客が来るのに布団が敷きっぱなしということは失礼だと思うかも知れませんが
、山城さんは、布団の上げ下げをするだけで息が切れ、喘息の発作が起きること
があるのです。
トイレと、洗面場は部屋の外にあり、共同です。じん肺患者にとって、温度差
は大敵です。冬場にトイレに行くときは、発作が起きないように細心の注意を払
い、発作が起きたときには、取りあえずそこにうずくまって、発作が少しでも治
まるのを待つのです。
何気ない普通の生活が、山城さんにとっては戦いの連続なのです。
六、喘息の発作がひどくなると、噴霧器で吸引してもおさまらず、呼吸困難に陥るこ
ともあります。
山城さんが以前、呼吸困難に陥ったとき、一一九番に電話したものの、途中で
息ができなくなり、自分の住所を喋ることができませんでした。
山城さんは、そのとき、昔の仕事仲間で普段から仲良くしてもらっている知り
合いの女性に電話したそうです。山城さんは「おばちゃん」と呼んでいました。
「おばちゃんに電話したら、ヒューヒューという息の音だけ聞いて誰かが分か
り、何も話さなくても、自動車ですっ飛んできて、病院に連れて行ってくれた。
そういうことがあってから、命の恩人だから頭が上がりません。」と山城さんは
言っていました。
二度目に山城さんと会った際には、その女性も同席していたのですが、その方
は、「電話がかかってきた時、山城さんを普段見ている私には、どんな様子か手
に取るようにわかる。喋べれないときは危ないときだから」と言っていました。
山城さんは、じん肺の管理区分の決定では、管理二です。合併症として、続発
性気管支炎があります。
管理二というのは、じん肺の管理区分では比較的軽い方です。では管理三、四
という人の苦しみはいかばかりか、そら恐ろしい気分になりました。
七、山城さんだけでなく、じん肺患者は、いずれもじん肺の症状に悩んでいます。
喘息の発作を抑えるため、毎日の日課のように、点滴を受けに行かなければな
らない人もいます。木戸口豊次さんもその一人です。
木戸口さんは大野市に住んでいましたが、大野にはじん肺を専門に見てくれる
病院がありません。始めは大野から福井の光陽生協病院に通院し、点滴を受けて
いました。
大野に住んでいたときには、喘息の発作が起きると、夜中でも親戚の人に電話
をし、車で病院に連れてもらっていました。
呼吸困難に陥り、病院に運ばれる車の中で死ぬのではないかと、何度も思った
そうです。
それで、木戸口さんは、光陽生協病院の近くに引っ越したのです。その木戸口さ
んも、管理二です。
私は、木戸口さんが引っ越ししたマンションにも行ってみました。
居間には、いかにも値の張りそうな大型の酸素吸入器が部屋に置いてあります。
一台百万円以上するそうで、労働基準局から貸してもらっているものです。
毎晩、寝るときには、その酸素吸入器から出ているビニールパイプの先端を鼻
に着け、一晩中、酸素を吸入しながら眠るのです。そうでないと、息苦しくて、
眠れないのです。
じん肺患者の殆どが、夜、横になって眠るのが辛いと言います。肺機能が低下
している患者に取って、横になると気道が狭くなり、そこに痰が絡んで息苦しさ
が増すのだと思います。
したがって、眠りも浅くなります。また、電気毛布などで体が温まってくると
咳が止まらなくなるという人もいました。
木戸口さんからは、痰をきる器具も見せてもらいました。ガス状になった薬を
口から吸引する器具です。
木戸口さんは、夜中に、痰が絡まって苦しくなり、何度も目が覚めるそうです。
健康な人なら、痰が絡んでも咳をすれば簡単に切れます。しかし、じん肺患者
の場合、なかなか痰が切れないのです。
木戸口さんは、痰が絡んで夜中に目覚めたときは、鼻から酸素を吸入しながら、
震える手で口にその器具をあて、痰が切れるようになるまでじっとしているそう
です。手が震えるのは、トンネル掘削作業の影響で、振動病にかかっているから
です。また、木戸口さんは、他のじん肺患者がそうであるように耳が遠く、難聴
で障害者としても認定も受けています。
八、じん肺で亡くなった患者の遺族や友人にも会いました。
丸山貞宣さんは、昨年九月二三日に、六六歳の若さで亡くなりました。丸山さ
んは管理三で、合併症として肺気腫がありました。
約二五年間トンネルで働き、昭和五七年に、健康診断の結果じん肺であること
が分かり、職場転換を命ぜられ、トンネル外での土木作業をするようになりまし
た。トンネル坑夫は、トンネルの外での仕事を、明かり仕事と呼んでいます。
丸山さんは、その明かり仕事をするようになったころから、咳がひどくなり、
段々と体が痩せていったそうです。じん肺患者は皆そうですが、常時痰が絡んで
、咳をしてそれを吐き出そうとするのです。食事中でも、痰を吐き出すことから
、回りの家族は嫌がります。丸山さんの奥さんも始めはとても嫌だったけれど、
それも慣れて当たり前になってしまったと言っておりました。
平成四年には、肺気腫の発作で初めて入院しました。肺気腫の発作がでると、肺が
萎んで、息を吸えなくなってしまいます。
口を開けて息を吸おうとしても、吸い込めず、ほんの少し吸って、後は吐くだ
けで、人が溺れたときのようになってしまいます。
人から触られるのは勿論、声をかけられるのさえ辛いらしく、奥さんが発作を
起こしてうずくまる丸山さんに「大丈夫か」と声をかけただけで、「黙ってぇ」
と怒られたそうです。
そんな丸山さんでも、肺気腫での合併症の認定を受けたのは、平成六年に入っ
てからです。
昨年の六月に入って、四〇度の熱が、ずっと引かず、光陽生協病院で見てもら
ったときには、即、入院を言い渡されました。七月六日に福井赤十字病院に転院
し、隔離病棟に移されました。肺結核でした。肺に水が溜まり、物も食べられず
、点滴で栄養を取っていました。それからたった二カ月後の九月二三日帰らぬ人
となりました。
入院中本人は、何とか家に帰りたかったのでしょう、家に帰る訓練だと言って
、病院の中を歩き始め、途中で動けなくなっているところを看護婦さんに発見さ
れて叱られたそうです。
亡くなられたとき、七〇kgはあった丸山さんの体重が、四〇kg以下になってい
ました。
九、先ほどの山城さんの場合も、入院する時は瀕死の状態です。呼吸困難状態が数日
続きます。
病院で点滴を受けていると「今度は死ぬかもしれない」との思いが、頭に浮か
ぶそうです。そして、退院するときは、命が延びたということをしみじみ思い知
らされる。年に二〜三回はそんな状態になるそうです。
「今年は、まだ入院するような、発作はないです。」と山城さんが自慢そうに
言うと、友人のおばちゃんから「入院はないけれども、体調は去年よりも確実に
悪くなっている。」と厳しい一言があり、現実に引き戻されて、その場がシュン
となってしまいました。
山城さんは、自分の症状を語るときでも冗談を交えて、できるだけ明るく話し
ます。元々の人柄なのか、それとも、人に弱みを見せたくないのか、始め、私に
はよく分かりませんでした。
私が会ったじん肺の患者さんは、山城さんのように、皆、そうです。他人の前
では元気なそぶりをみせます。
でも、色々なじん肺患者に接するようになって、私はようやく分かってきまし
た。
じん肺患者のほとんどは、自分がトンネルで働いていた頃の同僚が、じん肺で死
んでいくのを何人も見ています。
そういう仲間の死を見てきたじん肺患者が、自分の症状の進行を死んでいった
仲間を比べてみたとき、自分がどうなっていくのかは自分でもよくよく分かって
いるのです。
皆、「じん肺は治らない。不治の病だ。」ということを認めたくないのです。
内心は、「つらい、くやしい。何とかならんのか。」と思いながら、「単純な
同情はしてほしくない。でも、自分のことをわかって欲しい」という気持ちが、
複雑に絡み合っているのだと思います。
じん肺患者は、進行度合いに違いはあっても、みな口では言えない苦痛に耐え
ながら、生活していることは確かです。
裁判所には、これらの多数のじん肺患者の被害の実態をよく知って頂きたいの
です。私たちは、患者さんの症状を写したビデオも作成しました。それも証拠と
して提出する予定です。
じん肺は、悲惨な職業病です。しかも、患者本人だけが被害に苦しんでいるだ
けでなく、その家族をも巻き込んで被害を生みだしています。じん肺患者の精神
的苦しみの最大のものは、自分の病気が不治の病、および進行性の病だというこ
とです。じん肺患者は、自分の病気が進行していることを知り、また仲間がじん
肺で苦しみぬいて死んでいく姿を目の当たりにし、いい知れぬ絶望惑、恐怖惑に
襲われています。
「あと何カ月、何日生きられるのか」、患者さん達は口に出しませんが、命の灯
を数えながら、毎日を必死で生きています。本当に時間がないのです。一日でも
早い解決を望みます。
平成一〇年一月21日
原告等代理人弁護士
川 上 賢 正
福井地方裁判所 御中