住職就任法要 表白

 

 敬って阿弥陀如来と親鸞聖人の尊前に白(モウス)す。

 本日ここに、法伝寺住職就任法要にあたり、ご本尊に真向かい誓いを述べたいと思う。

 戦後52年を経た今日、我々は世界に類を見ない経済発展を遂げた国に生き、豊かさと便利さに満たされた日常を送っている。まさに、幸福という名がふさわしい時代・社会であろう。しかしながらその一方で、一人では抱え込めないほどの様々な問題が惹起(ジャッキ)し続けている。

 そのことは、人間の求める幸福は、他のものを踏みつけることによってしか成り立ちはしないという、悲しい現実を現しているに違いない。
日本の経済成長はアジアの貧困を生み出し、都市の発展は過疎に生きるものを切り捨て、人類の繁栄は他の生物の絶滅をもたらし、そして巨大化したシステム社会は、人間を組織の歯車にし、生きることの意味を奪い続けている。
その中で様々な矛盾を感じながらも、個人の無力さとあきらめと絶望感だけが漂う。

 豊かさを求めながら戦い、幸福を求めながら差別し、切り捨てていく我々の姿は、本来尊ぶべきことを見失い、自分の中にもよおす空しさを、物と金によって埋めることができると錯覚を起こしたまま、流転輪廻(ルテンリンネ)の生は停(トド)まることを知らない。
経済成長の中で発生した水俣をはじめとする公害は、産業廃棄物や原子力発電所の問題に姿を変え、現地住民の歴史と生きざまを差別し、未来に生まれる「いのち」の願いを踏みにじっている。
戦争の問題は沖縄の米軍基地問題やアジアへの経済侵略に姿を変え、共に生きんという願いは大きく歪められている。
そして半世紀たった現在でも、従軍慰安婦の問題が象徴するように、その責任は戦後世代にまで引き継がれている。
また、戦争に駆り立てた教育は、企業戦士の育成の教育に姿を変え、不登校やいじめの問題を引き起こし、私は私として生きたいという微(カス)かな願いにさえ応じられていない。

 「豊かさ」や「平和」という美名に振り回され、そのための「いきにえ」として差別され切り捨てられていく「いのち」の声に耳を傾けることのできない我々現代人の姿は、半世紀もの間、戦争の責任を明確にせず、被害者としての意識でしか歴史をとらえられないことから生まれている。
その意味において、明治以降の天皇制を根幹にした文化は、この国に生きるものすべてを、「差別する者・差別される者」「踏みつける者・踏みつけられる者」「切り捨てる者・切り捨てられる者」という枠組みに押し込め、時代と社会の課題を担いながら三世(サンゼ)の「いのち」に責任を持って今を生きるという、人間としての使命を果たす歩みを妨げ続けている。
まさに、「五濁(ゴジョク)の世、無仏(ムブツ)の時」と竜樹(リュウジュ)菩薩(ボサツ)の示された現実がここにある。

 また一方、我ら真宗教団は、一向一揆(イッコウイッキ)敗退以降、親鸞聖人の精神を忘却(ボウキャク)し、いつの時代も体制に奉仕し続けてきた。
江戸時代は身分差別を肯定し、明治以降は多くのご門徒の方々を戦場に駆(カ)り立てた、その非違(ヒイ)の歴史はあまりにも重い。

 憶(オモ)えば親鸞聖人は、人間が人間であることを奪われていく差別動乱の時代社会の中で、聖徳太子を観音(カンノン)菩薩として一生涯(イッショウガイ)拝(オガ)まれ続けた。観音(カンノン)菩薩とは、その時代の中で音(ネ)を上げている民衆の声に呼び覚(サ)まされ、人間の苦悩の中に時代と社会の罪業(ザイゴウ)を見つめ、その問題を我が身の課題として歩まれた姿勢であろう。

 その親鸞聖人を教団の中に閉じ込め、一宗一派の開祖として権威づけることによって、僧侶自らの権威とし、さらに天皇制に身をすり寄せ世襲制という家制度にしがみつきながら、伽藍(ガラン)と身分秩序を守ることに奔走(ホンソウ)してきた。
そこから生まれてきた者は、「解放の精神を麻痺(マヒ)せしむるが如き教学」であり、身分制度を温存するだけの儀式であり、人々の競争心や差別心を巧(タクミ)みに利用することでしか護持できなくなってしまった、教団組織の現実である。

 水平社(スイヘイシャ)創立当時に出された「部落内の門徒衆(モントシュウ)へ」という檄文(ゲキブン)にある、「色衣(シキエ)や金襴(キンラン)の袈裟(ケサ)を着飾って念仏称名(ネンブツショウミョウ)を売買する人達」という厳しい批判の言葉の前に、改めて我が身をさらさねばならない。

 「この世の悪(ア)しきことを厭(イト)い、この身の悪(ア)しきことを厭(イト)い」続けることであると、際々(サイサイ)にわたって示された親鸞聖人に真向(マム)かえば、「五濁(ゴジョク)の世、無仏(ムブツ)の時」の現実と、世俗(セゾク)の教団の罪業(ザイゴウ)を祓(ハラ)い、清め、忘れ去ることは、もはや出来ない。

 我ら真宗門徒(シンシュウモント)の使命(シメイ)は、あらゆる「いのち」の底に流れる、真実の国を求めて止(ヤ)まない如来(ニョライ)の悲願(ヒガン)のはたらきに照らし出された時代社会の苦悩と教団の罪業(ザイゴウ)を、「人間として生きる」という我が身の課題とし続けることである。
そういう念仏者(ネンブツシャ)として生まれ続けることこそが、念仏の聞法(モンポウ)道場として建立(コンリュウ)された法伝寺(ホウデンジ)建立の願いに、応(コタ)えていくことであろう。
そして、「あらゆる衆生(シュジョウ)と共に生きん」という如来の悲願(ヒガン)を我が願いとして歩まんとするからこそ、天皇制によって色どられた権威の衣を、自らが脱ぎ続けることによって、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という水平社宣言の精神に呼応(コオウ)していかんとすることを、ここに誓う。

 伏(フ)して乞(コ)う、哀愍摂護(アイミンショウゴ)したもうことを。

1997年(仏成道(ブツジョウドウ)2528年)5月25日

法伝寺住職 釈(シャク) 浩昭(コウショウ)

敬(ウヤマ)って白(モウ)す。

 

 

  • 誰一人自分自身のいのちを生きていない
  •  
  • 人々は偶然にすぎません
  • ただ声であり
  • 破片であり
  • 日常であり
  • 多くのささやかな幸福であるにすぎません
  • 子供の時からもうすっぽりと仮装され
  • 仮面として成人となり
  • 顔などは消えているのです
  •  
  • 人は皆、牢獄を逃れる如くに
  • 自分自身から逃れんとするも
  • 世に大いなる奇跡あり
  • 吾は感ず
  • いのち皆生きらるべしと
  •         (リルケ『時祷詩集』)
  •  

     

     

    毎月27日・夜七時半より、親鸞聖人のご命日のお勤めを行っています。
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    真宗大谷派 法伝寺  住職 長田 浩昭

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