多 賀 基 良

 

終戦以来50年の長い間、思い続けてきたことは、召集兵として僅か3ヶ月の砲兵の基本教育(1期の検閲)を終えたばかりの2等兵のままで、サイパン島に送られ、九死に一生を得て生還した事実を子孫に書き残したいと、何度かぺンを執ってみましたが、文書が纏まらず途中で放置していました。

しかし、終戦50年を機に何とか仕上げようと決心、あの玉砕〔ギョクサイ〕の悲劇、いまだにジャングルの山中に遺骨も収拾もされず、眠っている多くの戦友の霊〔ミタマ〕に思いを至し、涙に咽びながら綴ることにしました。

50年前の事でもあり、70歳代の老境に入り、年月日の日付けはほとんど忘れたことと、私の子や孫に言い残すつもりで書きますので、文書の拙いところも多々ありますが、どうぞご容赦下さい。

 

 

召集令状を受く

 

昭和18年12月に召集令状を受け、昭和19年1月5日の入隊に間に合うよう、1月4日早朝、在郷軍人や近所の人達の見送りを受け、柳田村字当目の実家を出発しました。

3〜4年前までは笛・太鼓に軍歌を歌って幟〔ノボリ〕や国旗を持って、歓呼の声に送られたものですが、防諜〔ボウチョウ〕いうことで「なるベく密か〔ヒソカ〕に送るように」とのお達しがあり、静かな征途〔セイト〕につくことになりました。

まず、氏神の日吉神社に参拝すベく向かいましたが、前夜からの降雪が60a程も積もり、小高い山の上にあるお宮に上ると時間がなくなるので、坂の登口で遥拝し、“のと三井駅”までの約12qの雪道を、青年団や在郷軍人の人達15〜6人が、カンジキをはき、先導を交代しながら半日かかって三井駅に着き、ここで皆さんと最後のお別れをして列車に乗りました。

金沢市内の旅館に1泊し、翌日、東部第52部隊第1中隊に人隊。

軍隊のことは何1つ知らない私は、うろうろ、どきどき、緊張の日が経過していきました。

部隊の兵科は野砲兵で、私は砲手の教育を受けました。

4月初旬に1期の検閲が終わり、下士官室へ呼ばれ、第1中隊から初年兵3名が柏第4656部隊へ転属するその中に入れられた事を伝達されました。

この部隊はトラック島へ行くことに決っていました。

軍隊の習わしで、進級・転属・勤務移動等があると、必ず直属の上官に“申告〔シンコク〕”(挨拶)をすることになっていたので、他の2名(長野県の小幡乃太郎、富山県の本郷一次)と共に将校室へ行き、
「多賀2等兵ほか2名は、この度、柏第4656部隊に転属を命ぜられました。ここに謹んで申告致します」
と申告すると、教官の竹村少尉(私の入隊時は見習士官)は、
「そうか、ご苦労だな、俺もすぐ後から行くぞ」
と言われ、帰えろうとすると、
「多賀、ちょっと待て」
と呼び止められ、何事かと思っていたら、
「これをやるから持って行け」
と千人針の腹巻きを下さいました。

温厚な人柄の竹村少尉殿。

あれからお会したことも、音信もないが、今でも尊敬しております。

それから2日間出発せずにいましたが、家庭には便りを出すことは禁じられていたので、知らせることも出来ずに出発の日を待ちました。

 

 

サイパン島に避難上陸

日付けは忘れましたが、3日目に、東部第52部隊から約200名の柏部隊要員が隊列を組んで、金沢駅の貨物専用の引込み線から客車に乗せられました。

窓は全部“鎧戸〔ヨロイド〕”を降ろして外部から見られないようにして、翌日、横浜港に着き、近くのお寺で一泊、翌日、携帯燃料(固形アルコール)と非常食(乾パン)2袋を受領し、仁山丸(6500トン、イギリスの戦利品)に乗船。

他に輸送船3隻、護衛艦3〜4隻の船団を組んで南下しました。

途中何回も敵の潜水艦に遭遇し蛇行航海したため、1週間程で到着できる距離を2週間かかって、4月23日サイパン島に避難しました。

目的のトラック島には危険で行けないらしい。

船に積んである武器・弾薬は携帯できるものだけ持ってサイパン島に上陸しました。

2週間程生活してみた時、気候と景色の良さに、こんな素晴しい所なら一生住みたいと思いました。

豊かな農地が広々とあり、安楽浄土〔アンラクジョウド〕のように見えましたが、後で地獄さながらになろうとは思ってもいませんでした。

先に上陸して守備についていた岐阜、愛知、静岡の師団の中へ逃げ込んだ厄介者の私達は、サイパン島で1等地のガラパン町で、民家に5〜6人ずつ分宿しました。

翌日から、朝食後は山へ連れて行かれ、先に陸揚げされていた武器、弾薬、糧秣〔リョウマツ〕の集積や整理をさせられた日が続きました。

5月2日、軍隊に入って初めて小銃を持たされ、歩哨〔ホショウ〕に立ちました。

まだ小銃の正しい持ち方も、弾の射ち方も知らないので戸迷いながら歩哨に立っていたら、夜中に沖縄出身の島民が近づいて、
「兵隊さんご苦労様です。私達島民の間で、近いうちにアメリ力の軍艦が攻めて来ると噂をしていますが、本当に来るのかね」
と聞くので、
「へェー、そんな話は初めて聞いたが、そんな事あるのかね」
としか返事出来ませんでした。

我々兵隊よりも島民の方が以前から住んでいるので、情報の人るのも早かったのでしょう。

一晩寝ずの番の歩哨勤務が終わって、仮眠しようと思っていたら、急に使役〔シエキ〕(軍隊語で雑役などの仕事)に出よと言われ、眠い目をこすりながら出て行くと、いつもの山へ連れていかれ、弾薬の集積をさせられました。

午前中はなんとか頑張りましたが、午後3時頃休憩になり、木陰で休んでいるうちに眠ってしまいました。

午後5時に皆が帰えることになり、点呼したら1名足りないことが分かりました。

部隊全員がトラック10数台に分乗して出発の号令を待っていましたが、1名足りないため出発できず、中隊の者が捜し始めました。

近くで眠っていたのですぐ見つかり、
「多賀!、何やっとる。起きろ、お前1人足りないため皆帰れず、お前を捜しているんだ」
と怒鳴〔ドナ〕られました。

びっくりしてとび起き、見るとズラリ並んだトラックが出発の号令を待っていました。

走って行くと皆から一斉に注目され、
「サァーしまった、どんな刑罰を受けるか」
と罰を受けることが脳裏をかすめましたが、言い訳は出来ません。

謝りながらトラックに乗り、帰えりました。


夕食後、船木中隊長の所に呼び出され、
「多賀、何の気になっとるんだ」と
叱られましたがビンタはありませんでした。

「軍刀でぶった切ってやろうか」と言われたので、
「ハイ」と返事するしかありませんでした。

「本当の戦場だったらどうするんだ」と言われ、うなだれていると、
「もうよい、帰って休め」と優しく言われホッとしました。

きっと班長が中隊長に
「多賀は衛兵下番で寝ていません。そのため休憩の時、睡魔〔スイマ〕におそわれ眠ったらしい」
と言ってあったのだろうと思います。

中隊長はそれを知りながら、軍律の厳しさの見せしめと、多賀という兵隊はどんな人間か、試されたのだと思いました。

軍隊の内務では、衛兵(歩哨)勤務についた翌日は、半日の仮眠が公然と認められているのですが、班長が失念したか、弾薬の集積、整理が急を要したためか、試練の1日でした。

それにしても、聞き分けのない中隊長だったら重罰にしたかも知れません。

「もうよい、帰って休め」と言われ、班内に帰った時、涙が出ました。

この一件で中隊長に、顔と名前を覚えられる機会を与えられ、よかったと後で思いました。

入隊して5ヶ月そこそこの、軍隊の事はまだよく分からない初年兵の演じた失敗談は、忘れられない1コマでした。

 

 

デング熱で入院

 

使役の毎日をくり返していた6月上旬、蚊の媒介による“デング熱”に罹り〔カカリ〕、40度以上の熱が2〜3日続いたので、6月7日、班長が入院の手配をしてくれたので入院しました。

入院して4日目の6月11日、敵の艦載機による空襲が朝から晩まで、波状攻撃をくり返し、島が変形するのではないかと思われる程、激しいものでした。

歩哨に立っていた際に聞いた島民の言葉は本当だったのだと思いました。

幸い病院には赤十字の旗が掲げられていたので攻撃はしませんでした。

敵の良心を信用して心配しなかったのですが、2日目も朝から激しい空襲を受けました。

飛行場もやられたらしく、友軍機の応戦も反撃もない様子でした。

午前11時頃から艦砲射撃が始まり、大きな砲弾が地響きをたてて落下する度に、地震のように建物が揺れ、どこに落ちるか分からない艦砲には、病院も危険だということになり、病院長の命令で「歩行できる患者は集結せよ」との伝達がありました。

衛生上等兵が来て集った26〜7名の患者に、
「これから山のジャングルに避難するから、衛生兵に従って山へ行く」と指示があり、
一人の衛生兵が5〜6人の患者を引率して行進を始めました。

間もなくサイパン神社の近くで、艦砲弾が“ブゥー”と風を切るような音をたてて頭上をかすめて飛んで来た時、皆が、びっくりしてサイバン神社の床下ヘ逃げ込みました。

その飛んでくる音が腹の底を揺さぶるような空気の震動と、覆いかぶさるような風圧が、皆を恐怖に震えあがらせました。

 

 

ジャングル内逃避の始まり

 

兵隊も患者も島民も、ジャングルを目指して急ぐ長い行列ができました。

今度はそれを目がけて艦載機の機上掃射です。

米兵の裸の操縦兵に裸の射手、顔がはっきり見える位の低空から、機関銃を射ってきます。

一刻も早くジャングルに入りたいが、40度以上のデング熱で入院中の躰がフラフラで、気力で走っているのだが足が思うように前に出てくれません。

「腰が抜けた」という表現がありますが、正しくそれです。

途中に大きな石があり、その下が大人2人が入れる程の窪みになっていて、既に1人入っています。

私もその人と背中合せに入ると、その人はガチガチ大きく震えているのが背中から伝わってきました。

よく見ると、同じ病室の召集兵で、日頃、
「俺は何回も大陸で弾の下をくぐった猛者だ、お前達のような新米の弱虫とは違うぞ」
と、大言豪語していた上等兵でした。

病室では上等兵と2等兵だから「ハイ、ハイ」と敬意を表していましたが、口程でもない臆病者なのにあきれ、「日頃の自慢はどうしたの」と言ってやりたいと思いました。

敵機が去り、ジャングルまで約30b位の所から一目散に逃げ込んだ姿を見た時、これが、ついさっきまで病院にいた患者か、と思わせる程速い逃げ足でした。

ジャングルに辿りついて皆がホッとしていると衛生兵が来て、
「何人も固っていると危険だから3〜4bの距離をとれ、又、勝手に行動せず俺の指示に従ってくれ」
と注意され、ジーッとしていたが、間断なく射ってくる艦砲弾は10b位の所に炸裂することもあります。

その炸裂破片は数百個から数千個となって飛び散り、その破片に当たって死んだ兵隊や島民がどれだけいたか知れません。

私から5b程離れた所に伏せていた兵隊が、山の上からコロコロ転がってきた小石のような物が肩に当った瞬間、ウーンと言って気絶しました。

近づいて見ると肩の肉が裂けて10a程たれ下っています。

側にある小石のような物は高熱の破片でした。

暗い所だったら赤い熱をもった破片と分かるのですが、明るい所では黒い小石のように見えたため、気がっかなかったのです。

後で砲弾の破片は100b程の円周に飛び散ることが分かりました。

このジャングル内に1週間程潜んでいました。

その間に1回だけ米の飯が与えられましたが、殆んど飲まず食わずで頑張りました。

1週間後に衛生兵から
「患者をドンニ野戦病院のある山の麓の水源地まで移動する」
との命令伝達がきて、衛生兵1人に患者4人を1組として、50b間隔で移動を始めました。

水源地の近くに500人程入れる大きな洞窟があるので、そこへ避難させるという命令のようでした。

この移動中にも艦載機による偵察と機銃掃射がくり返され、艦砲射撃も熾烈〔シレツ〕となり、更に迫撃砲も加わり、被害は続出しました。

日本の戦法は、小人数の敵なら小銃か機関銑で攻撃するが、アメリカは大砲を惜気もなく射ってきます。

物量を誇示し、虫けら1匹も生かしておかない撤底的戦法だから、よほど運の良い者でなければ助かる術はありません。

こちらが1発射てば2千発のお返えしが来ると恐れられました。

 

 

初めて手榴弾を持つ

 

私達を引率していた衛生上等兵は、左足に2発の機銃弾を受け、歩行不能の重傷を受けました。

「俺にかまわずドンニまで行ってくれ」と、ご自分の2発の手榴弾を取り出し、
「これを持って行け」と私に渡して下さいました。

初めて手榴弾を持ったので「使い方を知りません」と言うと、
「安全栓を歯にくわえて強く引き抜き、堅い物に突起部を叩きつけるように打ち、シューと音がするから、1.2.3と数えてから投げるんだ」と教えてくれました。

生まれて初めて手榴弾を手にしましたが、この手榴弾のお陰で後日命拾いした時は、衛生上等兵に心から感謝しました。

歩いているうちに又、1人の患者が重傷を受け、3人になりました。

そこで、これからどうするかと3人で相談しましたが、地形も地名も分からない3人なので、とにかくそれらしい方向へ歩こうと、ジャングル内を歩いているうちに、近くへ砲弾が落ちるたびに、3人がバラバラになり1人で歩いていると、どこを向いて歩いたのか、又、3人が一緒になったりして、舵の効かない舟のように、さまよい歩くより方法がありません。

時々細い道を見つけて歩いていると、必ず迫撃砲が飛んできます。

敵は何処から見ているのか、私達があわてて走るとその速度に合わせて、正確に迫撃砲弾が追ってきます。

暫く立ち止っていると迫撃砲弾が前進し、助かったことも何回かありました。

喉が渇き水を捜していたら、島民の女の人に出会いました。

「この山の上に行けば1軒家があります。今は空家ですが天水(雨水)が溜っているかもしれないから見ていらっしゃい」と教えられたので、
「それでは行って見てくる」と言うと、
側にいた兵隊が「俺も行く」とついて来ました。

登って行くと教えられた通り、家もあり天水もありました。

腹一杯飲んで、水筒にも入れて帰えろうとした時、敵の艦載機に見つかりました。

例の裸の操縦兵に裸の射手。

山頂だから超低空にパリパリ射ってきました。

「しまった」と思いましたが、側に直径1bもある大きなパンの木がありましたので、そこに身を隠すと、その木を目標にバリバリ射ってきます。

2〜3秒で通過して行き、ヤレヤレと思っていると反転して又やってきます。

木の反対側に回って身を隠すと、又、反転して射ってきます。

執拗にもこんなことを3回もくり返し、往復6回も射たれたので、さすがの大木も蜂の巣のように穴だらけになりました。

ふと見ると、一緒に来た兵隊は倒れて死んでいます。

可哀想に、俺と一緒について来たばっかりに、大切な命を無くしてしまいました。

運命とはこんなことを言うのでしょうか。

前にも書きましたが、たった私達2人に1000発以上は射ったでしょう。

あきれると同時に恐ろしい相手だということを痛感しました。

元の場所に戻ってみると、残っていたもう1人は見当たりません。

周囲を捜すがどこにもいません。

仕方がない、これから患者としての行動を諦め、幸いいつの間にかデング熱も治り、歩くことも苦にならなくなったので、1人で船木中隊長のいる中隊を捜して、合流しようと決心しました。

これからが1人ボッチの迷子の旅の第1回の始まりだったのです。

食べ物は勿論なく、運の良い日には、出会った島民から砂糖黍〔サトウキビ〕を貰って食べたり、タコの木の根を掘って食べたり、トカゲを殺して生の肉を食べたりして命をつなぎました。

あの時の私の精神状態は、仏教で教えられる餓鬼そのものでした。

来る日も来る日も、飢えと渇きに苦しみ、他人様のことなど考える余裕などさらさらなく、骨と皮ばかりで目だけ大きく、他人が見たらミイラが歩いているように見えただろうと思います。

自分で胸や手足を見たとき、干鱈〔ヒダラ〕のようだと思ったくらいですから……。

死んだ人の側で寝ても、淋しいとも可哀想だとも思わず、良い隠れ場所がある、今日はこの死体の間に寝させてもらおうと寝ていて、命拾いをしたことも何度かありました。

兵隊が何人死んでいても、兵隊は死ぬのが当り前と、同情する気もおこらず、次は俺の番だという気持ちだったが、女や子供の死体を見ると、
「可哀想に、この人達はなぜ死なねばならなかったんだ」
と同情の気持ちになりました。

ただ気持ちの悪いのは、あの熱帯地ですから、死んで半日もたつと死臭が発散し、目・鼻、口、耳には蛆〔ウジ〕がはびこり、3時間位で1a程の早さで成長し、群をなして這うのを見ると、耐えられない嫌悪を感じました。

ただ1人、うす暗いジャングルの中をさまよい歩いていると、木の枝がすれ合う小さな音にもおびえたり、飛行機の爆音がすると、こちらに来るのじゃないか、爆弾を落すんじゃないか、機銃掃射をされるんじゃないかと、神経を使います。

1人だと360度の周囲を警戒しなければなりません。

俺は何のために、誰のためにこんな惨めな苦労をしなければならないのか、何か目に見えない偉大な力の持ち主が、俺をロボットのようにあやつり、歩かせているんじゃないかと、妄想が次々とうかんできます。

でも、敵に見つからない限りは歩くより仕方がありません。

ジーッとしていては中隊は見つかりません。

遠くの方で艦砲射撃の音がします。

友軍はどうしているんだろう。

相当やられたのではないだろうか。

いろいろなことを考えながら、足の向くままに歩きました。

所々に洞窟があり、恐る恐るのぞいて、中隊の者はいないか、知っている者がいないかと捜すが見つかりません。

ときたま島民が子供をかばいながら、恐怖の眼差しで見つめるのに出会います。

泣く子をあやしているが、なかなか泣き止まないと、周囲の者から
「子供を泣かすな、敵に見付かるぞ」と怒鳴られ、
「子供を殺して私も死にます」と言っていた父親を見ました。

しかし、父親は子供を我が手で殺すことが出来ず、
「兵隊さん、この子を殺して下さい」
と頼まれたが、とても私にはそんな勇気はありません。

何の恨みもない幼い子供をどうして殺されましょう。

居た堪まれずその洞窟から抜け出したこともありました。

一人になって幾日経ったでしょう。

半月か、或は1ヶ月か、夜と昼との感覚も無くなった今、日数などどうでもよく、食べ物と水と中隊を求める以外は頭にありません。

洞窟に入って眠っているうちに、昼から夜になったのか、夜から昼になったのか、分からなくなったこともありました。

 

 

感謝の水と砂糖黍

 

夜毎、夜毎、少しずつ移動し、昼間は潜む生活を続けていたある日、友軍の兵隊4人と島民3人で歩いているのに出会いました。

先頭の30歳位の女の人が
「兵隊さん、あんた何も持っていないらしいね」と言ったので、
「もう3日間何も飲まず食わずです」と答えると、
「そうですか、これを上げます」と言って、
サイダー瓶2本に水を入れて持っていた中の1本と、砂糖黍を1本分けて下さった時は、
「こんな命の次に大切な貴重品を恵んで頂いて有難うございます」と言おうとしたが、
嬉し涙がこみあげて声にならず、ただおし戴くだけでした。

命の糧としての水と砂糖黍は、戦友同士でも分け与えることも、分けて下さいとも言えない貴重品だったのです。

あの時の感謝の気持ちは一生忘れることの出来ません。

もし今、お会いすることが出来たら、あの時の嬉しかったことを申し上げ、丁重なお礼をしたいと思っています。

相変らずジャングル内を歩いていたら、2人の日本兵に出会いました。

私と同じ2等兵です。

「お前達はどこへ行くんだ」と聞くと、
「どこへ行くか分かりません、道に迷って困っています」という。

「どこから来た、何部隊だ」と聞くと、
「静岡県から来た百姓部隊です」との答えです。

サイパン島で自給自足を目的とした食糧増産部隊だったのです。

サイパン島に向って航行中、敵の潜水艦に沈められ、裸同然で5月上旬にサイパン島に上陸したとのこと。

とにかくこれから3人で行動を共にしようということになりました。

彼等は35〜6歳位で、言葉使いもやさしく人の良さそうな兵隊で、サイパン島では私が先輩だから「俺についてこい」と歩きだしました。

暫く行くと細い道に出ました。

すぐ側に幅2b位の洞窟を発見し、「今晩ここで寝よう」と中に入りました。

3人並んで寝るのに丁度よい広さで、私は久し振りに帯剣を外し、地下足袋を脱ぎ、手榴弾も側に置いて身軽になって横になり、彼等にもう一度部隊やサイパン島に上陸するまでのことを聞き、私も今日までの概略を語りました。

お互いの話が終わると無気味な静けさです。

砲撃も銃声もなく、ただ相変らず照明弾が昼のような明るさで照らしています。

そのうち3人共安らかな鼾〔イビキ〕をかいて眠りました。

翌日分かったことですが、敵の陣地内だったのです。

 

 

手榴弾で命拾い

 

朝になって目がさめ、たばこを吸おうとしましたが火がありません。

3人とも2〜3本のたばこを持っていましたが、マッチはなかったのでした。

たばこは、吸われないとなると、よけいに吸いたくなります。

仕方がない、我慢しようと諦めたその時、人声がしました。

きっと島民だろう、マッチを借りようと素足で洞窟を跳び出すと、アメリカ兵5〜6人が近づいて来ます。

距離は僅か15b程。

“しまった”驚きと恐怖が電光のように脳裏をかすめました。

暫く立ち止っていると、アメリカ兵も驚いたらしく、何か叫びながら来た方ヘ戻っていきました。

すぐ洞窟に向って「敵だ起きろ」と2人を起こし、私はとっさに洞窟入口にあった高さ約1b、幅60a程の石の後に身を隠すと同時に、敵は自動小銃で射ってきました。

その弾数の多いこと、石が壊れて無くなるかと思う程射ってきます。

私は身動きが出来ません。

2人を見ると伏せて震えています。

反撃するにも手榴弾2発と帯剣しかありません。

それも昨夜、体から外して手の届く所にありません。

しかし、何かしなければ私は死ぬしかありません。

2人に「俺の手榴弾を取ってくれ」と言いましたが、2人は震えながら、
「静かにしていて下さい」と言って手榴弾をよこそうとしません。

私は「馬鹿やろう!、手榴弾をよこすんだ」と怒鳴ったら、恐る恐る1発渡してくれました。

すぐに安全栓を抜き、立て膝の姿勢で力一杯投げました。

力一杯といっても立て膝の姿勢では、そんなに遠くヘは投げられません。

せいぜい15b位投げたでしょうか。

幸い敵の近くに破烈したらしく、敵はあわてて逃げだしました。

その逃げ足の速いこと。

とにかく又、弾のこないうちに逃げなければと、素足のまま残りの手榴弾も持たずに、一目散にジャングルの中に跳び込んで下の方に向って100b程逃げたでしょうか。

敵はめちゃくちゃに射ってきましたが、木の葉がパラパラ落ちるのを見て、弾道は相当高いことが分かりました。

もう大丈夫だと思い、暫く休みました。

生まれて初めて手榴弾を投げ、助かったのはあの衛生上等兵のお陰だと感謝しました。

後で捕虜になってから分かったのですが、あの2人の百姓兵は洞窟の中で戦死したらしい。

2度と会うことはありませんでした。

おそらく2人には妻も子供もいたろうにと思うと、2日間のご縁だったが気の毒なことになったと、ご冥福をお祈りしました。

また、1人になって中隊捜しを続行しましたが、どうも様子が怪しく、静かすぎます。

ジャングルの透間から注意して見ると、ここは敵の陣地内で、狭い谷の向うの山に友軍がいることが分かりました。

何とかして向いの山に行きたいが、平担な畑を通らなければ行けません。

畑には何も植えられておらず、体を隠す地物もありません。

いろいろ考えましたが、名案が浮かびません。

夜になれば昼間のように明るい照明弾が打ち上げられます。

思案は堂々巡りするばかりです。

その時、小さな物音がするのでヒョイと振り向くと、大男が立っているではありませんか。

ドキッと緊張しましたが日本兵でした。

初めて会った者同士でしたが、お互いに安堵の顔色となり、行動を共にすることにしました。

あの時の嬉しかったことは今でも忘れられません。

 

 

素足に千人針を巻く

 

2人になると勇気が出ました。

とにかく150b程の畑を強行突破しようと、先ず私が走り出ました。

私の後5b程離れて続いたらしいが、後を確める余裕はありません。

案の定ピュン、ピュンと弾が飛んできました。

敵の狙撃の上手なこと、弾数の多いことは承知していましたから、当たることを覚悟して
「何クソ!、当たるなら当たってみろ」と、全身全霊走り続け、無事に山の麓に辿り着き、ジャングルの中へ跳び込んだ時は、よくも当たらずここまで来られたものだと不思議なくらいでした。

彼はどうだろうと後を見ると、100b程の所でうつ伏に倒れています。

オーイ、オーイと呼んでも返事がありませんでした。

それにしても又、私は助かりました。

きっと、神仏のご加護があったものと感謝しました。

すぐ近くに友軍部隊がいました。

「あァー助かた」と安心すると同時に緊張が解けたら、足の裏が痛いのに気付き、見ると熟した柘櫛〔ザクロ〕のように切傷が裂け、血がにじみ出ています。

一昨日の夜、3人で洞窟に入った時、地下足袋を脱いだままの素足で逃げ回ったのが、無我無中だったので今まで気付かなかったのです。

傷だらけの足の裏を見たら急に痛さが増して、歩くことが出来ません。

仕方なく家を出る時持って来た千人針の腹巻きと、転属の命令を受けて申告に行った時、竹村少尉殿から頂いた千人針の腹巻きを両足に巻き、勿体ないと思ったが、地下足袋の代りにして歩くことにしました。

この一緒になった友軍は、部隊名も兵科も聞かなかったので、分かりませんでしたが、歩行の際に手や肩を借してくれたりして、私をかばいながら共に歩いてくれた時は、友軍の親切さに涙の出る程有難く感謝しました。

この部隊は今夜、電信山の方へ移動するというので一緒に歩いたのですが、
「銃は射つな、1発射ったら2000発のお返しがくるぞ」と厳命されました。

私は武器は何もなかったのでその心配はなかったのですが、皆はこの事について神経質になっていました。

細い道に出て歩いていると迫撃砲弾が飛んできました。

2b間隔位に正確に射ってきます。

道を歩くのは危険なのでジャングルに入って歩きましたが、迫撃砲弾は執拗に飛んできます。

暫く休んでいたらザァーという音がして、無意識に伏せたら約15b程離れた所に落ちましたが、迫撃砲の不発弾でした。

不発弾ながら直径20b程の穴ができ、土ぼこりが私の背中に5a位積りました。

一緒にいた兵隊は逃げ出したため、返って被害に遇う羽目となり、あの親切にしてくれた兵隊も皆戦死しました。

私はその場に伏せていたので助かりました。

直撃を受けた兵隊の肉が飛んできて、私の頬にべッタリ当たったので手で払い落すと、どこかの肉らしいが血の固まりのような、軟らかく生ぬるい感じがしてゾーッとしました。

ここで悪いと思いましたが、戦死した兵隊の地下足袋を拝借し、履いてみると丁度合いました。

死体に深く一礼して又歩き出しました。

 

 

奇々怪々の戦死

 

この電信山から下った所に地獄谷があり、数日前に激戦があったらしい跡がありました。

その地獄谷の中に高さ80b位の小高い丘があり、その頂上に10b×12b程の小屋が建っていたので上ってみました。

近付いて見ると、捜し求めていた中隊の、しかも私の分隊だったのです。

嬉しくて皆に抱きついて互いの無事を喜び合いました。

聞けば中隊も私と同じく逃げ歩くだけで、お国の為には何もしていないとのこと。

同年兵で一緒に転属した小幡も本郷も戦死したことも知りました。

分隊長が苦労をねぎらって優しく迎え入れてくれただけで、今までの苦労が一瞬に忘れられました。

この小屋は床下が1b程の高さで、その床下に皆が足をつき合わせるように2列に並んで寝ていました。

約1時間程して私が
「喉が渇いて水が飲みたいから、下の谷へ行って水を飲んで来る」と言うと、
「あんな所ヘ行っても水は飲めんぞ、昨夜あそこヘ水を飲みに行った兵隊は皆殺されて、死体でいっぱいだからだめだ」と教えてくれたが我慢できず、
「それでも行って見て来る」と言って約50b程下った所で、グァーンというか、ゴゴッーというか、今までに聞いたこともない大きな音がしました。

幸いすぐ側に新しい横穴式の壕〔ゴウ〕があったので跳び込むと、友軍が4〜5人います。

「暫く入れて下さい」とお願いして入れてもらい、
「あなた方はどこの部隊ですか」と聞くと、「雷部隊だ」という聞いたこともない部隊名です。

5分程して音が止んだので、お礼を言って壕から出て水を捜すが、分隊の者が言った通り、死体、死体、重なり合った死体の山です。

鉄帽が一つ離れて落ちていたので拝借しようと拾ったところ、首から上が付いたままだったので、元の位置に置きました。

水を捜していると、死体と死体の間に僅かな水を発見し、正常な時ならとても飲める水ではなかったが、片手ですくって何回か飲み、満足して分隊のいる丘の上に来てびっくり、信じられないような光景が目に入りました。

全員が死んでいるではありませんか。

小屋は元のまま建っているのに、その床下に寝ていた12人は、並んで寝ていた姿勢のままで、中に二人だけ腸の露出した者もいたが、全員焦茶色になり、殆んど負傷した様子もないのに死んでいます。

“虚をつかれた”とはこんなことを言うのでしょか。

暫し呆然として眺めるだけでした。

さっき聞いたこともない爆音にやられたのか、どんな弾なんだろうか、今まで見てきた艦砲弾とも、迫撃砲とも違う新しい兵器で、破片が水平に飛び散るようなものだろうかと、いろいろ想像してみましたが、戦場での経験もなく、兵器の知識もない私には分かりません。

ようやく我に返り、サイパン島に来てから何回も死線を越えましたが、今度のこの光景を見て、
「俺は死なないぞ、何か偉大な力の持ち主が私を守護して下さっているに違いない」と、自信が湧いてきました。

何時までもここにはおられず、遺体となった皆さんに最後の敬礼をして丘を下りました。

 

 

中隊長に再会できたが

又、又、1人ボッチのジャングル生活が始まりました。2〜3日歩いているうちに友軍の“はぐれ兵”に出会い、一緒に歩いたこともありましたが、ジャングルの中なので何時の間にか見失しない、1人で海岸近くへ出ました。

暫く立ち止って耳を澄ましていると日本語が聞こえてきました。

“友軍だ”と近づいて見ると、7〜8人の兵隊の中に中隊長がいました。

迷い子が親を見付けた時の喜びとはこんなものでしょう。

敬礼をすると、「多賀!、生きていたか、心配していたぞ、苦労したんだろうナ」と言われた時は、「ハイ」と返事はしましたが、後の言葉は続かず涙が出るばかりでした。

サイパン島に上陸して間もなく歩哨に立った翌日、使役に出て休憩中に眠って叱られた一件で、私の名前を覚えていて下さったのだと思うと嬉しくなりました。

暫くして今日までの概略を報告し、戦友達とも語り合ったが、その時、召集兵の田中古参上等兵は、
「多賀、もう勝つ見込みはないぞ、死んだら靖国神社に祀ってもらえる、それだけの楽しみだ、なるようにしかならん、くよくよせずやろうよ」と言ってくれました。

中隊長の指揮下に入ったことで心機一転、
“今までお国の為に何も出来なかったが、何かお役にたちたい、今までの分も頑張るぞ!!”と誓いを新たにしました。

海岸近くのジャングルに入り、久し振りに再会した喜びで、中隊長を囲んで団欒の一夜を明かしたが、他の師団の部隊と共に追い詰められて、相当な数の集団となっていたことは敵の思う壷、翌朝早くから艦砲射撃が始まり、息つく暇もない猛射の連続、適当に距離をおいて散開していたのですが、凄まじい巨砲に付近一帯は見る影もない地獄図となりました。

約30分程で砲撃が止んだので、誰か生きている者がいないだろうかと、捜したが1人も見当たりません。

約1ヶ月振りに再会出来た喜びも、たった一夜で又も私1人になってしまいました。

1人でジャングル内を歩いていたら1人の日本兵に出会いました。

話し方で憲兵のように思いました。

部隊名・階級・氏名を聞かれたので自己紹介すると、「明日中にマタンシャに集結せよ」と命令され、教えられた海岸に行くと約100人程集っていました。

その中に将校(階級不明)1名、曹長1名、他は兵でした。

暫くすると私達の集っている所ヘ、敵が手榴弾を投げてきました。

友軍の勇敢な兵が、それを爆発前に拾って投げ返し、敵に損害を与えたことも数回ありました。

そんなことをくり返すうちに、敵は爆発のタイミングを考えて投げるようになり、友軍にも負傷者が出ました。

私もこの手榴弾の破片が左腕の上部に当たり、大豆程の軽傷を受けたのが最初で最後でした。

この様子を見ていた曹長が、「皆ジャングルの中に入れ」と指示しましたので避難すると、
ここで皆に曹長が「敵が接近して来たら“突撃”の号令をかけるから、一斉に大声で“ウワー”と鬨〔トキ〕の声を出せ、突撃の行動をするのではないぞ、声を出すだけだぞ」と指示され、
今か今かと時のくるのを待っていると、敵は三々五々に接近して来ました。

時はよし“突撃!!”の号令がかかりました。

「ウワー」と鬨の声に敵はびっくりして、一目散に逃げます。

その逃げ足の速いのには又々感心しました。

 

 

海水で清めの行水

 

夜になってジャングル内で一夜を過すことになり、2〜3人ずつ適当な場所を選んで休んでいると、将校が来て
「明朝4時にガラパンを奪還する、最後になるから海水で躰を清めてこい」と命令されました。

敵は相変らず照明弾を打ち上げて、昼のように明るく照らしています。

私達が海へ入って躰を洗っていても攻撃をしてきません。

敵艦が1000b程の沖でこちらを脱んでいるが、無気味なくらい静かで星がきれいに輝いています。

皆、これが最後になると覚悟したのでしょう。

中には「かあちゃん、これで最後だ」とか、妻の名か子供の名を呼んで「俺は今夜で最後だ、後を頼むぞ」と涙声で別れの言葉を言っている者もいました。

いよいよ突撃の時刻が近づきました。

敵の陣地は山際から500b程の畑を挟んだ山の中腹から下の方にあります。

陣地まで約700b程の距離だろうか、照明弾が照らし続けています。

「突撃〃」の命令が出ました。

200人余りの兵隊が肉弾となって一斉に走り出ました。

畑に入ると敵は激しく射ってきました。

全員ある限りの鬨の声をあげて無我無中の突進です。

友軍の武器は帯剣と手榴弾だけで、敵を倒すのが目的ではなく、潔く戦死するのが目的です。

私は「この鬨の声が日本まで届けよ」と叫びました。

50b程進んだ所でガーンと頭をバットで殴られたような大きな衝撃を受けて倒れました。

暫く気を失っていたらしく、気が付いて鉄帽を脱いでみたら穴はあいていましたが、弾は鉄帽の中をグルリと一回りして出たらしく、頭は無傷で助かりました。

なんと幸運なんだろう、やはり私は不死身なのだと確信しました。

しかし、この時から一歩も進む気力は無くなりました。

私を跳び越えて後から後からと続くがバタバタ倒れます。

更にそれを跳び越えて鬨の声をふりしぼり突撃を続けます。

戦死するのが目的の決死隊だから勇敢そのものです。

数分間に死屍累々、地獄図そのものです。

私がサイパン島に上陸して初めて見る悲惨な光景でした。

突撃開始から時間にして15分余り、距離にして300b程の間に約200名余りが、私の外は全員戦死しました。

その戦死者の間に体を寄せ、死んだ真似をして逃げ出す機会を伺っていました。

もう夜が明けてくる、動けば射たれるから、このまま夜になるのを待つことに決心しました。

長い長い1日でした。

先にも書きましたが、5時間もすると死体の目・鼻・耳・口から蛆〔ウジ〕がわいて、3時間程で1a位の割合いで成長します。

死臭と暑さでこの世とは思われず、早く夜になってくれと待ちに待ちました。

いよいよ夜になったので、敵に気付かれないように匍匐〔ホフク〕で少しずつ後退して海岸に近いジャングル内に入ることが出来ました。

そこで1人の若い軍属に出会い、2人で行動を共にすることにしました。

その軍属に「お前は昨夜の総攻撃に参加したのか」と聞くと、
「知らなかったので、この辺を歩き回っていました」と言います。

2人になると心強いことは今までに何回も経験しているので、大事な戦友です。

精神的にもお互いに助け合って行動するから、頼もしい兄弟のような親しみをもつのも不思議です。

 

 

白装束女の夢告

「2人でなるべく離れず一緒に歩こう」と、隠れ場所を捜してジャングルを歩いていると、1人ずつ入れる恰好の洞窟が2つ見つかり、この中で眠ることにしました。

どれくらい眠ったでしょうか。

その時、不思議な夢を見ました。

白装束の女が現われ、「ここにいたら危いからすぐ逃げなさい」と告げられ、目が覚めました。

すぐ隣の軍属を起こして洞窟を出て見ると、200b程前方に、敵兵7〜8人が火炎放射機を持って、洞窟もジャングルも片っ端から焼き払っているのが見えました。

2人で敵に気付かれないように海岸沿いのジャングル内に逃げました。

ここのジャングルは幅約100b程で、海岸に沿って長く続き、天然の防風林のように畑を塩害から守る役目のような地形でした。

しかし、海岸近くだと敵に発見されやすいから、一つ向こうの山に逃げようと奥の方に進み、向こうの山が見える所まで来ましたが、300b程の畑を渡らねば山に入れません。

数日前にも同じようなことがありました。

ここで夜まで待つことにしようと、その日はジャングル内に潜み休息しました。

それにしても、さっきの白装束の女は何方だろう。

亡き母の霊か、故郷の氏神様か、お告げ下さって有難うございましたと心の中で合掌しました。

夜になって行動開始、相変らず照明弾で明るいが、昼よりも視界が狭いから有利です。

「俺からあまり離れるなよ」と注意して歩いていると、畑の手前10b程の所に直径80a位の輪になった鉄条網が、螺旋状〔ラセンジョウ〕に長く張られています。

ひょっとして電流が通っていないか、ちょっと触れてみたが電流は通っていません。

私が静かに螺旋状の1ヶ所を広げて軍属を通し、次に私が通り終わろうとした時、服が鉄条網に引きかかり大きく揺れたが、運よくすぐ外れたので畑へ出ると同時に猛射を受けました。

夜だから弾道は赤い線になってよく見えます。

弾は相当高い所を飛んでくるので、あわてずに隠れ場所を捜していると、2b×3b程の縦穴の小さな壕を発見し、入ってみるとアメリカ兵が掘って間がないらしく、新しい土が崩れてチョコレートや缶詰が出てきました。

これは有難い、帯剣で缶詰を開けるとコンビーフでした。

こんなうまい肉を食べたのは初めて、それにチョコレートのおやつまで頂き、アメリカの物量の豊富なことをつくづく思い知らされました。

軍属も初めて食べたらしく大変喜こんでいました。

これが彼の最後の食事になろうとは知る由もなく、運命の悪戯〔イタズラ〕が待っていました。

この壕も敵のものだから安心できません。

とにかく一刻も早く向こうの山へ逃げようと、壕を出て10b位の所で又敵に発見され猛射を受けました。

山の麓までは約300b程の畑を何とか渡らねばなりません。

「俺とあまり離れるな、高い姿勢で絶対走るなよ」と注意して、高さ30a程の畝〔ウネ〕の間に伏せていると、ピュン、ピュン弾が飛んできました。

今度も弾道は高い所を飛んでいるので心配いらないと匍匐〔ホフク〕前進していると間もなく、目の前1b程の所ヘブスッ、ブスッと5〜6発飛んできました。

今度こそ終わりかと伏せて動かずにいると、射撃は止んだので後を振り向くと彼の姿がありません。

アレッと思って30b程後方を見ると倒れています。

オーイ、オーイと低い声で呼んでも返事がありません、やられたのです。

畝〔ウネ〕と畝との間に伏せておれば当たる筈がないのに、恐くなって後退したのでしょう。

可哀想なことをした。

俺にも何分の1かの責任がある。

許してくれと心の中で合掌しました。

向こうの山は遥か遠くのように見えます。

敵に気付かれないように足の爪先と手の指で、文字どうり一寸ずりで、敵に動いていることが感付かれないように慎重に前進しました。

10b程進んだ頃、戦車が近付いて来ました。

もう俺もこれで最後かと覚悟して、畝の間に死んだ真似をしていると15b程離れた所で止まり、暫く見ていたらしいが、本当に死んでいると思ったのでしょう、方向転換して戻って行きました。

やれやれ又助かった。

子供の頃、熊に出遇ったら死んだ真似をしておれば助かると、教えられたことを思い出し、アメリカの戦車にも効果があって有難いと思いました。

又、又、又、これで何回目でしょう。

1人になってしまいました。

夜のうちに向こうの山に辿り着かねばと心はあせるが、更に慎重に前進を続けました。

約300b程の畑を1晩かかってどうにか山の麓に辿り着き、ジャングル内に入ることができました。

30b程行った所で40歳位の女と5〜6歳位の子供が死んでいます。

可哀想にと同情の念がこみあげました。

それから10b程行くと、立木につかまって立っている兵隊がいます。

声をかけたが返事がありません。

「おい、どうした」と肩を叩くとパッタリ倒れました。

木につかまったまま死んでいたのです。

もう明るくなったので、ここで1日潜んで夜を待つことにしました。

その間の午前9時頃、人声がするのでジャングルの透間から見ていると、50b程上の方に道があるようで、そこをアメリカ兵4〜5人が、日本の女・子供50人程連れて通って行くのが見えました。

「アー可哀想に、あの女・子供を、どこかに連れて行って殺すのだろうナー」と想像しました。

 

 

親子3人の悲哀

それから1時間程たった頃、大きな声で話をしながらアメリカ兵が通って行きます。

どうもここは敵の陣地内らしいと気付きましたが、夜になるまでジーッと潜んでいました。

夜になって何気なく海を眺めていると、2日前に私達が通った海岸だったことが分かりました。

相変らず照明弾が照らしています。

その浜辺を父親が大きな荷物を背負い、母親は小さな荷物を背負い、5歳位の子供の手を引いて、3人連れがキョロ、キョロ周囲を警戒しながら歩いて来るのが見えました。

「危い!、あんな所を歩いて」と思った瞬間、パンパンと銃声がして両親が倒れました。

子供は「おとうさん、おかあさん」と泣き叫んで母親にすがりついています。

可哀想に、民間人であることが分かっているのに、なんてことをするんだと、憤り〔イキドオリ〕がムラムラとおこりましたが、今の私にはどうすることも出釆ません。

同情の涙が流れました。

すぐアメリカ兵3人が口笛を吹きながら来て子供を抱いて連れて行きました。

その抱かれて行く道中、子供が両親を呼び続け泣き叫ぶ声を聞いた時、戦争の悲惨さ・非情さを痛感すると同時に敵愾心〔テキガイシン〕がこみあげてきました。

土地感もないジャングルの中を、しかも夜だけ歩くのだから、今、私はどこにいるのか、どちらへ向かって行けばよいのか、見当がつきません。

夢遊病者のように当もなく、そのうち運が良ければ友軍に会えるかも知れない、運が悪ければ敵に殺されるかも知れない。

運を天に任せて毎晩歩きました。

ジャングルの中も慣れると恐怖心がなくなり、隠れ蓑の中にいる安全地帯のような気楽さを感じるようになりました。

艦砲も迫撃砲も飛んでこない時は特に感じました。

 

 

残念無念!捕虜となる

 

そうした1人でのジャングル生活が20日程経ったある日、友軍の陸軍伍長と海軍兵曹(階級不明)の2人に出会いました。

久し振りに友軍の下士官に会ったのだから、頼りになる人だと本当に嬉しく思いました。

それから3人で行動を共にして3日目(9月上旬)に、ジャングル内を歩いていると30歳位の女が、3〜4歳位の女の子を連れて潜んでいるのに出会いました。

この山は300b程の高さでしたが、下の方に戦車の走る音がします。

止まってはマイクで
「山や谷にいる人は出て来て下さい、出てこなければ掃蕩〔ソウトウ〕します」
と流暢〔リュウチョウ〕な日本語で呼びかけました。

また、「5分待ちますから出て来なさい、5分過ぎると射ちます」と、
その通り5分後にドドーンと射ち始めました。

私達は戦車で射ってもここまでは届かないと思って寝ていました。

ところが、敵はいつの間に山の後から登って来たのか、2bもあるような大男が20人程、10b位の近くにいるではありませんか。

サーしまった、今度こそやられると覚悟していると、「出てこい」「出てこい」と言っています。

こちらの下士官2人は「出ていく」、「いかない」と議論を始めました。

海軍は「1人でも殺してやる」と言い、
陸軍は「武器の無い我々がどうして殺すことが出来る、それよりも自決しよう」と言ています。

3分間程して敵は何か言いながら、湯呑茶碗程の円筒を投げました。

白い煙が出て催涙弾らしく、目が痛くて開けられず困っていると、駆け寄って来て、私達1人に3人ずつの敵が体当りで捕まえ、すぐ武器を持っていないか身体検査を始めました。

私達3人は武器は何も持っておらず、何か英語で話していますが、全然分かりませんので、身振り手振りを見ていると「歩け」と言っているらしいのですが、私は末期の水を腹一杯飲んで死のうと思っていたので、座ったまま1つだけ知っていた英語で「ウォーター、ウォーター」と水を飲む手振りをすると、「山の下に水があるから歩け」と身振りで言うが、私は頑として座ったまま動きませんでした。

彼等は何か言って2人の兵が急いで山を下って行きました。

別の兵隊が私達に紙に書いたものを見せました。

「あなたの他に誰かいませんか」と書いてあります。

さっき一緒になった女の親子が、すぐ近くのジャングルに隠れていますが、捕らえれたら必ず殺されると信じ込んでいたので、教えてやれませんでした。

後日アメリカ兵は殺さず、親切にしてくれるのが分かった時、教えて一緒に山を下ればよかった、今頃どうしているだろうと思いましたが、時既に遅しでした。

どうぞご無事でありますようにとお祈りしました。

15分程して2人のアメリカ兵が担架を持って来ました。

彼等は私が足に怪我でもして歩行できないのだと思ったのでしょう。

「担架に乗れ」と合図するが私は動きません。

「横に寝るように」と指示するがそれも無視すると、2人で私を寝かせ担架に乗せてくれました。

2人の下士官はジーッと見ていたが、よっぽど強情な奴だと思ったことでしょう。

私は捕えられた時から
「こんな奴等の言うことなんか素直に聞くものか、後から嬲り殺しされるよりも、殺すなら早く殺せ」
と思っていたので、さんざん手古摺らせて〔テコズラセテ〕内心微笑んで〔ホホエンデ〕いました。

強そうな兵隊2人が私を担いで山を下りました。

1ヶ月以上も飲まず食わずの骨と皮ばかりの私だったから、さぞ軽かったでしょう。

2人の下士官を先に歩かせ敵の陣地に着きました。

私は仮の収容所らしい幕舎に入れられ、2人の下士官は下士官用の幕舎に連れて行かれました。

すぐ、水とたばこを持って来てくれました。

腹一杯飲み、数ヶ月振りに吸ったたばこの美味かった味は今でも忘れられません。

これで何時死んでもよいと覚悟を新たにしましたが、どうも優しく親切が気になります。

暫くして氏名・階級・部隊名を聞かれましたが、捕虜になったのだから本名は名乗れないと考え、「大野定男」と口から出まかせに名乗りました。

この名前で内地上陸まで通してきました。

1時間程してジープが来て、それに乗せられ、約10分程走った所の幕舎に入れられました。

薬の臭いがしたので野戦病院だということがすぐ分かりました。

包帯を巻いた者、病気らしい者が10数人いました。

私を空いていたべッドに連れてゆき、「ここに寝よ」と言って寝かされました。

「あァー、俺はこれで本当に助かった」という実感が湧いてきました。

なんて親切にしてくれるんだろう。

もし日本軍が反対の立場だったら、果してこんな親切にするだろうかと、疑問に思いました。

人道的と非人道的、紳士と野蛮人の差のように思いました。

この野戦病院に入って夜になり、注射をうたれ、体が軽くなったような壮快な気分になりました。

その晩は食事は与えられず、翌朝薄いお粥が与えられました。

こうした手厚い看護を受け、5日目にはほぼ元の体に近い快復をしましたので、車に乗せられ連れていかれた所は、アメリカ軍が初めに上陸したチャラカン近くの捕虜収容所でした。

入ってみてビックリ、なんと日本兵が500人程もいるではありませんか。

ここでは朝鮮人、島民、将校、下士官、兵と別々の幕舎があり、勿論私は兵の幕舎に入れられました。

この幕舎で兵の監視・統制役の姫野曹長がいました。

他にも同じ役目の下士官が数名いましたが、この姫野曹長だけが、我々兵に倣慢〔ゴウマン〕で威張りちらし、私達を私兵のように酷使〔コクシ〕し、アメリカ兵には米つきバッタのようにぺコぺコおべっかを使い、自分一人いい子になっている卑屈な人間でした。

だから、兵達から蛇のように嫌われていましたが、その後どうしただろうと、憎まれ曹長を時々思い出します。

 

 

ハワイ島へ移送

 

3日間この収容所にいて、4日目の朝、立派な客船に乗せられ、ハワイ島に送られました。

船の大きさによって一定ではないが、2〜300人か、4〜500人の捕虜がたまると、次々とハワイ島に送っていたようでした。

乗船の時、乗船番号の認識票を渡されました。

私は1372番だったので、私達の先に2〜3船が出ているらしいと想像しました。

サイパン島を出てハワイ島まで5〜6日かかったと思いますが、いろいろなデマがとんだり、デマに惑わされて取り越し苦労をする者など、正確な情報が無いため、精神的にやられた者も沢山いました。

ハワイの山の中か、アメリカ本国に連れて行って殺されるのだとか、鼻環〔ハナカン〕をはめられ、鞭〔ムチ〕で追い回わされるのだとか、そんな流言飛語〔リュウゲンヒゴ〕に惑わされ、ハワイまでの航海中に、監視兵の隙をみて海に跳び込んで、自ら命を断った者が3名もいました。

私はジャングル内で捕まってから、アメリカ兵の紳士的で、捕虜を人道的に大事に扱ってくれたのに感謝し、疑いはだんだん晴れ、信用する気持ちに傾いていたので、デマを信じませんでした。

ハワイ島に着いて、赤土の平地に設置されていた7〜8人用の幕舎に入れられ、再度、部隊名・部隊長名・兵科・出身地・親兄弟・年齢・階級・本名等を聞かれましたが、偽名の「大野定男」だけは変えずに名乗りました。

ハワイ島で15日程いるうちに、2人も首吊り自殺者が出ました。

故郷には親兄弟もいただろうにと思うと、やり切れない気持ちがしました。

 

 

ハワイ島からアメリ力本国へ

 

約15日後、再度船に乗せられハワイを出帆、数日後サンフランシスコに着き、近くのエンジル島の捕虜収容所に入れられました。

ここでは既に先着部隊(捕虜)が入っていました。

その中にイタリア兵の捕虜5名もいましたが、ひょうきん者で言葉は分からないが、身振り手振り(ジェスチャー)で面白く、皆を笑わせたり、アメリカ兵の歩哨をからかったりして楽しませてくれました。

1週間後、シアトルに移動、シアトルから列車で北アメリカのウェスコンス州の捕虜収容所に入れられ、ここで約1年間防毒マスクの改造作業に従事しました。

ここの収容所に入って驚いたことは、日本兵の捕虜が何千人もいたことです。

正確な数は分かりませんが、あちこちの戦闘で玉砕したと伝えられた島々から、送られて来た者ばかりでした。

ここでの責任者は坂上海軍中尉で、真珠湾攻撃で負傷して捕らえられた捕虜第1号だそうです。

作業は防毒マスクの旧式の物を解体し、新しい部品を取付ける軽労働でした。

1日8時間労働で、85セントの賃金が支給され、休日もあり、野球やテニスを楽しんだり、当時の日本では口にすることもできなかった、栄養豊冨な食事が与えられ、これが捕虜生活かと思われる贅沢な優遇を受けました。

私は捕らえられた時は干鱈〔ヒダラ〕のような骨と皮ばかりの体でしたが、元の体格以上に回復したのもアメリカのお陰と感謝し、このご恩は一生忘れることは出来ません。

約1年後、カリフォルニアに移動させられ、農場で綿摘みをさせられました。

ここで驚いたことは、今の日本では珍しくありませんが、広大な農場で飛行機を使い、消毒剤の散布や種子蒔〔タネマキ〕を、又、大きなトラクターで耕運・除草・収穫・貯蔵まで、総べて機械力で能率よく片付けることでした。

能登の小さな田や畑を鍬〔クワ〕や鎌〔カマ〕でコツコツとやる事しか見たこともない者が、あの機械力で広大な農場の農作物の処理法を見た時、こんな進んだ技術と豊富な物量の国と戦争しても、勝てる筈がないとつくづく思いました。

ここで約1ヶ月労働させられ、カリフォルニアから列車で再びシアトルに着き、シアトルから船で再度ハワイ島に送られ、シャカム飛行場で飛行機内の掃除をやらされました。

仕事が終わって集まった時の話題は内地のことで、昼間、飛行機内で聞かされた日本の歌“リンゴかわいや”が懐かしく、そんな話から
「お前は内地へ帰えりたいか」と聞かれると、
「帰えりたい気持ちはある一方、捕虜になって敵国まで連れていかれたことを思うと、恥かしくて村の皆さんに合わせる顔がない」というと、皆も同じ気持ちでした。

 

 

懐かしの我が家に生還

 

それから数日後、仲良くしていた大関上等兵が先発で内地へ帰えることになりました。

そこで私が
「大関さん、私はこういう所の者だ、出来たら私の家へ便りを出して下さい。もし、日本が本当に負けたのだったら近いうちに帰えると、反対に負けていなかったら戦死したと知らせて下さい」
と、住所・氏名を書いた紙を渡して頼んでみました。

帰国した彼は約束を守り、私の家へ手紙を出してくれました。

手紙を受け取った父はビックリ。

それもその筈、戦死の公報が来て、村葬を済ませていたのです。

手紙を読んだだけでは納得できず、岐阜県の大関さん宅まで出向いて詳しく話を聞いたのです。

私は大関さんの次の帰還船で横浜港に着き、列車で家に生還しました。

日付けは忘れましたが、昭和22年の秋でした。

村の人達が挨拶に来てくれましたが、先にも書いた通り、捕虜となり敵国まで連れていかれた引け目が頭から離れず、長い間恥しい思いをしました。

当時の軍隊では、捕虜となって敵国まで連れていかれた者は、スパイと同罪で銃殺刑にされると教えられていたのです。

振り返ってみると、「お国の為にお役に立とう」と勇んで村を発ったのですが、何かお役に立ったことがあったでしょうか。

怯えながらジャングルの山中をさまよい、側に戦死した友の遺体をそのまま放置して、逃げ惑うことが殆どで、何とお詫びの言葉もありません。

私自身が死と直面した毎日でした。

人生の基礎を築く大事な年代に、4年間も死と対峙〔タイジ〕し、恐怖の逃避生活を余儀なくされ、九死に一生を得て生還しても人目を憚って〔ハバカッテ〕、外出も控え目な生活をしなければなりませんでした。

捕虜となったことで、こんな引け目を感じたり、罪悪感に悩まされることを、戦後の教育を受けた人には理解できないでしょうが、戦前の教育では最大の不名誉で、家門の恥、男子の恥ということをたたき込まれていたのです。

アメリカでは「名誉の捕虜」という言葉があって、凱旋〔ガイセン〕勇士と同等の扱いをするそうですが、国民性と教育による考え方が違うことを痛感しました。

ある夜、夢を見ました。

「お前はなぜ生きて帰って来た。恥しいだろう、俺が殺してくれるからここへ入れ」と棺桶に入れられ、火葬場に着いたところで目が覚めたことがありました。

又、今ここにいる私は本当の自分だろうか?
柔らかく温い蒲団の中に寝ているここは、本当に自分の家だろうか?
信じられないような疑問と幻想に悶々と日を過したことも長く続きました。

私が何を悪いことをしたと言うのでしょう。

あの当時の国の指導者は何を考えていたのでしょうか。

国益の為になると思っていたのでしょうか。

大和魂で勝てるとか、日本は神の国だから負けることがないとか、そのうち神風が吹いて敵の艦艇は全部沈没するとでも思っていたのでしょうか。

武器らしい武器も無く、精々が帯剣と手榴弾だけの肉弾となって、最後の声を振り絞った鬨〔トキ〕の声をあげながら、敵弾雨霰〔アラレ〕と飛び散る中ヘ突撃して散った若い兵士達に、何とお詫びしようと、美辞麗句〔ビジレイク〕を並べて称讃しようと、散った命は蘇り〔ヨミガエリ〕ません。

鳴呼!、怒号の涙が止まりません。

『子よ、孫よ、こんな愚な戦争に参加してはならない!!、平和こそ人類の最高の仕合わせだ。』

今、振り返ってみて、私の手で人を1人も殺さなかったことは、最高の幸運であり、最高の誇りだと思っています。

最後に、平成7年8月7日に来日された、ワイツゼッカー前ドイツ大統領の講演の中に、
「過去を否定するものは、その過去を繰り返す。心のこもった謝罪でなければ、謝罪にならない。」
また、「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる。」と言われました。

なんと素晴しい言葉でしょう。

現在の日本の政治家達が以って銘すべき名言だと思います。

いや、政治家ばかりでなく、我われ1人ひとりの日常生活の中にも座右の銘として、肝に銘じていきたいものだと思います。

(平成7年9月24日脱稿)

 

 


 

住職より

 

正覚寺の御門徒にも多くの戦争体験者がいらっしゃいます。

真珠湾攻撃やミッドウェー海戦、サイパン島の玉砕など、映画や本で知識としては知っていましたが、まさか自分の身の回りである輪島に、本や映画になるような戦争体験者が大勢いらっしゃるとは思わずに、戦争を知らない世代である私は、戦争はなんとなく他人事の、遠いところの出来事のように感じていました。

また、戦争を実体験された方々の、生の声を聞く機会を求めたこともないくせに、普通の戦争体験者の人たちは、軍歌を高らかに歌い、「戦争を知らない今時の若い者は・・・・」と、ほとんどの方が戦争を美化し、懐かしんでいるのだという偏見や思い込みすら持っていました。

しかし、寺の住職としてご門徒の方々と親しくお話しさせていただくようになるにつれて、生々しい戦争体験を聞かせていただく機会も増え、また、戦没者の50回忌法要にお参りさせていただくと、50回忌だからと飲めや歌えのお祭り騒ぎではなく、お参りしては涙、思い出話しをしては涙という場面に何度も出会うにつれ、戦争を体験された方たちは決して戦争を美化したり、懐かしんでいるのではなく、未だに戦争の悲惨さを悲しみ、戦争を恨んでさえいらっしゃることを思い知りました。

そして、その多くの方たちが、孫や子孫に戦争をさせたくないという願いから、自分の体験した事実を遺言として書き残しておきたいと考えていらっしゃることも知りました。

多賀さんもそういう方のお一人です。

多賀さんは、自慢話だと思われないか、逃げ回った卑怯なやつだと誤解されるのではないかと、ご自分の体験が正しく伝わらないのではないかと心配され、なかなか文章にしてはいただけませんでした。

しかし、何度もお願いをし、子や孫に戦争の悲惨さを伝えたいという多賀さんの強い願いと、小又さんという正覚寺の御門徒の方の御協力により、ようやく書いていただくことができました。

多賀さんの体験文をお読みいただいた皆さんに戦争の悲惨さが伝わり、平和を愛する心をさらに強めていただければ住職として幸いです。

 


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