惣領(現在の輪島市惣領町)にある七左ェ門家の又右ェ門と、次右ェ門家の器量よしの娘であるリカが恋仲になりました。

しかし、七左ェ門家は在所一番の家柄であったが、又右ェ門はおっさま(弟)だったので、次右ェ門家へリカを嫁にもらいに行くことができないでいました。

そうこうしている間に、リカの腹が徐々に大きくなり、とうとうお産の日がきてしまいました。

産気付いたリカは、夜10時頃から翌朝の4時頃まで産みなやみ、気違いのように泣き叫びました。

又右ェ門は、家の中へ入ることができずに、心配で家の周りをあっちこっちへと行き来していました。

それでも、産まれてくれればよかったのですが、母も子も死んでしまいました。

 

 

それから3年が経って、惣領の若い衆が立山参りに出かけることになり、又右ェ門も誘われて参加しました。

その日は大変よく晴れた日で、弥陀ヶ原・天狗平・みくりが池などを巡り、血の池地獄という所にさしかかりましたが、その時、又右ェ門の足が急に重くなり、皆から取り残されてしまいました。

すると、一天にわかにかき曇り、あたり一面真っ黒な雲で覆われ、その雲の中から一人の女の幽霊があらわれました。

又右ェ門は、恐ろしさの余り目を閉じ、ガチガチぶるいに震えていましたが、ようやくの思いで目を少し開けて伺い見ると、その幽霊はリカにそっくりでした。

又右ェ門はびっくりして、大声をあげんばかりになりました。

幽霊は、すうっと近づいてきました。

そして、
「私はリカです。浄土参りができずに、ここでこうして苦しんでおる。そこで、どうか頼むから、家に帰ったら、法事をもうしてくれ」
と口をききました。

又右ェ門は恐る恐る聞いていたが、恐さまぎれに、
「おまえがリカであるという証拠はあるのか」
と尋ねました。

「しばらく待ってくれ」
と言うと、幽霊は池の中へ沈んでいきました。

しばらくすると、池の中から再び上がってきて、
「これが何よりの証拠、これを持っていって調べてみてくれ」
と言い、鹿の子の着物の小袖の片方を又右ェ門に差し出しました。

又右ェ門がそれを受け取ると、幽霊は池の中へ姿を消してしまいました。

すると、みるみるうちに空が晴れ、元通りのよい天気となり、又右ェ門の足も軽くなって皆に追い付くことができました。

又右ェ門が皆に、リカの幽霊の話をすると、
「さあ、こうしてはいられない。まだ頂上まで登っていないが、ここで戻ろう」、
「その通りだ。まだまだ見たい所があるけど、リカが浄土参りができんで、血の池地獄にいるとはいたわしい。一刻も早く帰って、法事をもうそう」
ということで話がまとまり、皆で急いで家へと帰りました。

 

 

惣領に帰ると、又右ェ門は大急ぎで次右ェ門のお婆の所へ行き、
「実は、リカが浄土参りができんで、血の池地獄におる」
と、立山での経験を話しました。

「そんなダラ(バカ)なことがあるもんか。おまえは、立山へ行って頭が狂ってきたのだろう」
と、お婆は信用しません。

「狂ってなんかおるもんか。これが何よりの証拠だ」
と、持ち帰った小袖の片方をお婆に渡ししました。

お婆はじっと見ていたが、
「ちょっと待ってくれ。これは私がリカに縫ってやった着物と一緒や。不思議なこともあるもんだ。蔵へ行って調べてくる」
と言って、蔵へ入っていきました。

蔵のタンスの中から小袖の着物を出して調べてみると、袖の片方がありません。

「確かにきちんと片付けておいたのに、こりゃあ、大変だ。あの子が、地獄へ落ちて、浄土参りができんとは、なんと可哀想な」
と、お婆の目から涙がとめどもなくあふれ、
「おっさま(又右ェ門)、疑うて悪かった。リカの法事をもうすから安堵してくれ」
と約束してくれました。

早速、山吹のお寺(正覚寺)のご坊さまを呼んで、法事をし、又右ェ門もお参りをしました。

又右ェ門は、
「俺は、おじ(弟)の分際で、何もしてやれないが、幸いに石切り職人だから、せめてリカの墓を建てさせてくれ」
と約束しました。

又右ェ門が、きちんと銘まで刻んで建てたといわれる墓が、今でも惣領の丘に残されていると・・・・。

 

 

リカさん(次右ェ門家)と又右ェ門(七左ェ門家)は、現在も輪島市惣領町にある実在のご家庭です。

次右ェ門家は、正覚寺のご門徒で、何度かこの話を聞かせていただき、お墓に刻まれた年号が文政3年であるという情報を元に調べた結果、過去帳にリカさんの記載を見つけました。
過去帳によれば、リカさんの命日は文政3年9月19日です。

リカさんの法事の後、小袖の片方を寺へ預けたと言い伝えられていますが、正覚寺が大火で焼けたこともあり、残されてはいません。

今後も、いろいろな人から話を聞いて、手直しして話を残していきたいと思います。

 



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