民衆のくらい“いのち”のさまよいに向って、宗教の暁鐘は鳴ってくれないのだろうか。 宗教家白身が、宗教の無力を肯定してしまっているのだろうか。 |
法然出でよ、親鸞出でよ。蓮如、今日に生れよ。なんて、そんな大それたことを、今日の教団に向って、私はねがわない。 到底、失望しているからである。−が、せめて、末法的なら末法なりに、蓮如さんの草鞋の一そく分ぐらいな慈悲をもつ人はあっていいはずと、たれもおもうであろう。 ことし、蓮如上大の四百元十年の大遠忌と聞くにつけても。 |
法然に起り、親鸞を祖とし、蓮如によって中興を見、今日まで庶民に“たのまれ”て来た宗教としては、いまはよほどな考え時-と、私には考えられる。 蓮如上人の大遠忌を修行するというにつけても、その蓮如をいまに偲ぶにつけても、私は考えられてならない。 これでみな、浄土真宗の宗教家として、安んじて居られるのだろうかと、ふしぎにさえおもわれる。 |
なぜことしも、蓮如の大遠忌などをやるのだろう。 仏教の慈雨は、そんなことでは降らないとおもう。 |
今にして心から醒めなければ、ああ勿体ない、本願寺は、地上がらなくなるだろう。
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