アメリカで仏教を学ぶ


 仏教は、まず生きているものの苦しさの自覚から始まる。
そこから世界、宇宙と自分、自分たちを知るうとするのだが、そのときの方法は座ること、メディテーションである。
 そして世界がどういうように、お互い同士関係をもち、作られているかを理解し、何ものも、関係ということなしに、それ自体では存在しかいことを理解する。
また、すべては時間とともに変わっていき、その瞬間瞬間以外のことにないことを理解する。
 そのことは、苦しみをもち、世界を知るうとしている自分自身に当てはまり、この自分自身も、存在の関係の中だけでしか存在しないし、それも瞬間瞬間に変わるので、自分自身というのも本当は存在しない。
 
 彼は分厚いニューヨーク・タイムス紙を手にしながら、私たちのまえでこう語った。
 この新聞には、さまざまな事件が書かれています。それではこの新聞の一ページを見ましょう。
文字を読むのではなくて、紙自体をみると、そう、もしあなたが詩人なら新聞が印刷されている紙に、木を見ることができる。
なぜなら、紙はパルプから作られて、パルプは木から作られるから。
そしてまた、その木が生えていた、うっそうとした森を見ることもできます。
 いや木々のみではない。
太陽がなくては、雨がなくては、風がなくては、木は育だなかったのです。
だからこのニューヨーク・タイムスの一ページの紙の向こうに、それらが、木が森が、太陽と雨と風が見えてくるはずです。
 もう少し考えましょう。
木はパルプになるために、切り倒されなければならなかったのです。
あなたが詩人なら、この新聞の紙の中に、キコリさえ見ることができるはずです。
それらの要素がこの紙を作っているのです。
 そう考えていけば、この紙は多くの「紙でない要素」によって作られていることが分かりますね。
太陽も雨も風もそれに木もキコリも、それは紙を作っている「紙でない要素」です。
つまり「紙という要素」は「紙でない要素」によって作られているといってよいのです。
 
 それでは次に、その「紙でない要素」を、紙から、もとの場所にもどしてやろうではないか。
パルプは木にもどり、それを育てた太陽の光は太陽にもどり、雨は空に、風も雲も、そのもとあったところに、キコリはその父親にもどしてあげよう。
つまり紙を形作っていた「紙でない要素」を、そのそれぞれの場所に戻してやったとすると、あとには「紙そのもの」というものが、残るのであろうか? どう思うかな、とティク・ナット・ハンは私たちに聞いた。
 何も残らない。
 紙そのものは、紙でない要素によって成り立っている。
その紙を作る紙でない要素を、もとのところに戻したとしたら、紙はからっぽ(空)になる。
ということで、それ自体が他と関係なく、独立して成り立っている存在などはない、と空と縁起を説明した。
 
 他から独立した自分自身ということはない。
 自分自身は、自分自身以外の要素によって形作られている。
 だから独立した存在と感じられ思われている自分自身(自我)は、本当は完全な空なのです。
 
 彼は空であると言うことは同時に、そこに全世界と全宇宙の要素があることです、と言った。
ニューヨーク・タイムスの一枚の紙にも、また私自身の中にも、空だからこそ全世界と全宇宙があります。


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