他力本願

政治家や評論家などの発言の中にこのことばがでてきて、その発言が大きく取り上げられると、まず、必ずといっていいほど、浄土真宗教団から抗議が行われます。

「そんな他力本願みたいなナサケないことでどうすんのかね」というように、自分ではちっとも努力しないで、ものごとをほかの人にまかせてしまう、いささか虫のいい「なまけもので無責任」という意味でよく使われます。

ところが、この「他力本願(本願他力)」というのは、浄土真宗での教えの核心を示す重要なことばですから、たとえ「日常語」として気軽に使われたとしても、それが新聞やテレビで大きく取りざたされては、とうてい黙ってはいられません。

「願」といえば、思われるのは「願かけ」。
満願(願いがかなえられる)の日がくるまで、何かを断ってひたすら願います。
実現力をぐっと強めようとするときには、その人にとっての大好物を断つのがよいとされます。
お茶断ち、酒断ち、甘いもの断ち、潰けもの断ち、塩断ち、というあたりが一般的なところでしようが、バクチ断ち、女断ちなんていうのもあります。

 
 

  

四弘誓願

  

「本願」「誓願」といいますのは、大乗仏教で強調されました。
大乗仏教は、出家(僧)であれ在家であれ、生きとし生けるものを救う(利他、慈悲)ことを、みずからのさとりの達成(自利)と同じく、というよりは、むしろ利他のほうを優先して、その利他行のために専念する決意をした人ならば、みな「菩薩」である、そして、菩薩の行こそが、仏教の最高の行であるとしました。
そこで、およそ菩薩であろうとする者は、「ちかい」を立てることから出発しなければならないとされるようになりました。
まず、菩薩であるならば、だれもが立て、実行しなければならない「ちかい」があるとされます。
 
 

「四弘誓願」というのがそれです。
この四つの広い誓願とは、つぎのとおりです。

1、衆生無辺誓願度。

すべての生きとし生けるもの(衆生無辺)を、煩悩と苦しみのこちらの岸から、涅槃寂静のあちら岸(彼岸)に渡(度)そう、という誓願です。

2、煩悩無量誓願断。

ありとあらゆる煩悩を断とうという誓願です。

3、法門無尽誓願学。

ありとあらゆる(ふつう8万4千あるとされています)教え(法門)を学びとろうという誓願です。

4、仏道無上誓願証、あるいは、仏道無上誓願成。

この上ない仏道、この上ないすばらしい「さとり」を得ようという誓願です。

「四弘誓願」というのは、すべての菩薩に共通した誓願でありますので、これを「総願」ともいいます。
そして、この「総願」とはべつに、それぞれの菩薩が、みずからのオモワクで立てる誓願のことを「別願」といいます。
これらの総願、別願をカンペキに実行し終えたとき、菩薩は、如来、仏になるといいます。

  
 

  

四十八願

阿弥陀如来も、かつて法蔵菩薩であったときに立てた誓願「四十八願」をカンぺキに実行したからこそ、如来となることができたのです。

そこで、如来という結果になるための原因である菩薩のとき(因位)に立てた誓願は、「以前の誓願」「もとの誓願」という意味をこめて、「本願」と訳されることとなりました。

かつて阿弥陀如来が法蔵菩薩という名であったときに、じつに五劫という、トテツもなく長い時間をかけて考えぬいた(五劫思惟)すえに、この四十八願を立て、それをカンぺキに実行したかいあって如来となり、美しい極楽浄土をみずからのものとし、そこの教主になられたのです。

この四十八願は、「大無量寿経」にズラリと説かれています。わかりにくいところも多いのですが、全体といたしましては、「生きとし生けるものすべてを救いとるまでは、あえて自分はさとりを得ないつもりである」という内容になっております。

とくに、第十八願が「念仏往生の願」とよばれているように、心から浄土に往生したいと願って、阿弥陀仏の救済を願い、「南無阿弥陀仏」(南無とは帰依するの意)と自分の名をたとえ10遍でも念ずる者は、すべて阿弥陀仏の国である極楽浄土に救いとってやろう、という誓願であり、さらに、阿弥陀仏は、自分のこの誓いが果たされないときは、自分は絶対に仏にならないと誓願したのです。

 

 

善人
 

と、ここまで説明すると、なあーんだ、やっばり思っていたとおり簡単なんじゃないか、ただ「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」「なまんだぶ、なまんだぶ」と言えばいいんだから、オレもあしたから一日に10遍くらい言ってみようかと思われたのではないでしょうか。

しかし、阿弥陀如来は、四十八願を実現したからこそ如来となり、極楽浄土を建立し、その教主となったのであります。
くどくどしくいいますと、四十八願はすでに達成されているのでありまして、そうしますと、生きとし生きるものは、みな、阿弥陀仏に救われることになっている、いや、もう救われてしまっているということになるのです。

ですから、少しばかり意地悪くいいますと、念仏に専心するという行為は、じつは阿弥陀仏の慈悲の心がわかっていない、信じていないのだということになります。
いっしようけんめい努力し、よい行いを心がけて極楽往生をめざしている人びとのことを、自力作善の人といいます。
こういう人を「善人」というわけでありまして、つまり、阿弥陀仏の願のわかっちゃいない人であるとされます。

 

 

 

報謝(感謝)の念仏

 

まとめていうと、どんな人でも極楽往生は決定されているのだというところから、往生のための修業(自力往生)などは、阿弥陀さまの心ばえがちっともわかっていない人のすることで、本来からすれば、本願の力によってもう救われているのだと信ずることこそ肝要なのだと、親鸞聖人は強調してやみませんでした。
ですから、浄土真宗では「南無阿弥陀仏」ととなえるのは、お願いの念仏ではなく、もう救っていただいているのだということにたいする報謝(感謝)の念仏であるとされます。
 
「行者のはからひなきゆへに、義なきを義とすと他力おば申なり。善とも悪とも、浄とも穢とも、行者のはからひなきみとならせ給て候らへばこそ、義なきを義とすとは申ことにて候へ」(「御消息集」)というのですから、
自我意識をとり去り、分別を超えてこそ、他力本願の道に順ずることができるというのであります。

 

 

信心の仏教

 

「他力本願」の教えでは、戒律を守ったり、座禅をしたりするむずかしい修行はいらないとされています。
ただ、ひたすらに阿弥陀仏の救いを信ずる信仰さえあればよいのです。
その意味で、これは「信心の仏教」ともいわれます。
 
『もろもろの雑行・雑修、自力のこころをふりすてて、一心に「阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生御たすけそうらえ」とたのみもうしてそうろう。たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、御恩報謝とよろこびもうし候う。』(「改悔文」)
ご存知の方が多いと思いますが、これは報恩講のときに皆さんとともに唱和する改悔文の上半分です。
 
「ただ念仏すればいい」という一見簡単そうに思っていた念仏の信心ですが、改めて読んでみると、凡夫であるわたしには容易なことではありません。
自我のすべてを捨て去って、阿弥陀仏の救済だけを信じ、救われているわたしなのだと実感ずることなど、とうてい困難なことです。

 

 

わたしたちは生かされている

 

食べるにも、着るにも、住むにも不満は残しつつも、困窮欠乏の感じることのない現代。
幸せということばが今ほどあふれている時代はないのに、幸せの実感が今ほど薄れてしまった時代もないと思われます。
それは、大勢の他人の力や自然の恵みによって、生かされている自分であるという自覚の欠如だと思います。

病気になれば健康になりたいと願い医者や薬局に通い、腹がすけば食べたいと願い食品店に通い、物が足りないと思えば買い物に走る。
そのどれ一つでも、自分独りでは満足させることはできないのです。

わたしたちは生かされている、そのあたりまえのことを忘れてはいませんか?


 

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