お葬式は誰のため?まず、葬式は、死者のために必要なのか、遺族のために必要なのか・・・・・・? 理屈で考えると、死者には一切の儀式が不要です。 しかし、多くの人々が、ちゃんと葬式をやらないと、死者は浮ばれない(成仏できない)と考えています。 だけど、そこをもう少し深く考えてみると、死者のためというのは結局は生者のためなのです。 そこで考えておかなければならないことは、葬式をするときの生者の死者に対する感情です。 しかし、同時に、死者に対する恐怖心もあります。 葬式には、私たちの死者に対する哀惜追慕と、恐怖の感情という、相反する二面の感情が入り乱れているのです。 |
お葬式はお坊さんの仕事? お釈迦さまは、入滅(死)に先立って、侍者の阿難(アーナンダ)から、「世尊の葬儀をどのようにすればよいでしょうか?」と問われたとき、 現代日本のお坊さんが葬儀をしているのを見られたら、お釈迦さまは腰を抜かして驚かれるに違いありません。 一般的にいえば、お葬式に聖職者はいりません。 だから、お釈迦さまの時代も、葬儀をするのは長老(在家信者)でした。 日本仏教には「葬式仏教」の異名があり、日本では、葬式はお坊さんがするものという慣行ができ上がっていますが、お坊さんと葬式との結び付きは、一般に思われているほど必然性はないのです。 それが現在では、仏教の各宗派が並び、全国各地にお寺がひしめき、坊さんたちも葬式・法事に忙しい毎日を送っています。 そして、仏事は死者供養のおまじないだと見なされており、仏教は祖先崇拝の儀式の道具である、と深く思い込まれているようです。 |
真宗のお葬式高度成長の波に乗って、日本人はより便利に、より楽な暮しを求めて突進してきましたが、みんな4、50代になると、ふと立ち止まって、私の人生は一体何だったのだろうと、このままただ生きて行くことに不安を感じるようになります。 お金や財産や地位や役職があっても、それだけでは何となく心細いものです。 浄上真宗は、現生不退(生きている今、迷いの世界に汚染されない、明るい阿弥陀如来の浄土に向かうことが決まる)が貫かれています。 だから、命終った時も、暗い迷いの世界をさまよったり、恐ろしい悪霊にとりつかれるなどという心配は少しもありません。 ましてや亡くなった方は、残った者に対して、人生とは何であるかを身をもって教えて下さる、大事な仏さま(諸仏)であり、亡くなった途端に汚れた存在にしてしまって、生きている者がそれを忌み嫌う清めの塩を用いるなどということは、絶対にあってはなりません。 枕勤めから始まる真宗のお葬式は、すべて阿弥陀如来の世界に生き、阿弥陀如来の国に帰り、阿弥陀如来の世界から私たちを導かれる故人に対し、別れる悲しみの中にも、有難うございました、とその徳を讃え、阿弥陀如来の世界に生きる喜びを噛みしめるように貫かれています。 真宗のお葬式はその人生の総決算ですから、先祖代々、親しみ、育てられてきた、なつかしい『正信偈』の教えをいただき、報恩感謝の集いを持つのです。 世間の人々は、「真宗のお葬式は、みんなで阿弥陀さまの世界のすばらしさを讃える儀式なのだ」などと説明すると、びっくりするに違いありません。 しかし、本当に教えを聞き抜いた真宗門徒にとっては、迷っているのは死者ではなくて、問題にしなければならない駄目人間は、他ならぬ私自身だ、ということをよく知っているはずです。 真実の世界に旅立った人に学ばなければならないのは、後に残った私自身なのです。 仏事は決して亡くなった人の追善供養のためにおまじないをしているのではありません。 お葬式などの仏事は、真宗門徒にとっては、南無阿弥陀仏の教えを聞く人生を目的にしているのであり、そのために亡き人たちは、大事な聞法の場を私たちに与えて下さっているのです。 |