お葬式を考えよう



写真は“お葬式”ではありません。

 

    

お葬式は誰のため?

 

まず、葬式は、死者のために必要なのか、遺族のために必要なのか・・・・・・?

理屈で考えると、死者には一切の儀式が不要です。
死んだ人は、自分が死んだ後で遺族や友達が何をしてくれようと、それを感知することはできません。
だから、葬儀は生きている者にとってのもの、と言うことができます。

しかし、多くの人々が、ちゃんと葬式をやらないと、死者は浮ばれない(成仏できない)と考えています。
そうすると、死んだ人のためにも葬式は必要です。

だけど、そこをもう少し深く考えてみると、死者のためというのは結局は生者のためなのです。
なぜなら、ちゃんと葬式をしてやらないと、死者は浮ばれない、成仏できない、と考えているのは、生きている私です。
死者はそんなことを思ってはいません。
というより、何も考えられないのが死者です。
だから、死者には葬式は必要でなく、生きている人間のために葬式は必要だ、ということになります。

そこで考えておかなければならないことは、葬式をするときの生者の死者に対する感情です。
生き残った遺族は、ほとんど例外なく、死者に対して愛情を持っています。
その愛情は、死んだ子供と別れたくないといった気持ちを呼び起こします。

しかし、同時に、死者に対する恐怖心もあります。
死者が突然、「一人では寂しいから、誰か一緒にあの世へ行ってくれ・・・・」(友引)と言い始めたら困ってしまいます。
あるいは死者が迷って化けて出てくると困ります。
そこで葬式は、冥土の幸福(ご冥福)を祈り、どうか迷わんと成仏してくれよと、死者を平穏無事にあの世へ送り込むための儀式となるのです。

葬式には、私たちの死者に対する哀惜追慕と、恐怖の感情という、相反する二面の感情が入り乱れているのです。

 

 

お葬式はお坊さんの仕事?

 お釈迦さまは、入滅(死)に先立って、侍者の阿難(アーナンダ)から、「世尊の葬儀をどのようにすればよいでしょうか?」と問われたとき、
「私の葬儀は在家信者にまかせなさい。あなたがた出家者は、怠らずに修行に励むように・・・・・・」と指示されました。

現代日本のお坊さんが葬儀をしているのを見られたら、お釈迦さまは腰を抜かして驚かれるに違いありません。

一般的にいえば、お葬式に聖職者はいりません。
人類の長い歴史の中で、日本のお坊さんのように聖職者が葬儀に従事するのはむしろ特殊です。
世界一般には、俗人が葬儀を営みます。
そしてその場合、そのグルーブの長老が葬儀の責任者になります。
イスラム教やインドのヒンドゥー教、また江戸時代までの日本の神道も専門の聖職者のいない宗教でした。
それらの宗教では、村の長老が輪番制で一定期間、神官・聖職者の役目を勤めるのです。
もちろん、大きな神社には専門の神官がいますが、そちらが例外でヘ村や町の神社は長老が葬儀やお祭や結婚式等を執り行ないました。
したがって、葬儀も一般的には俗人によって行なわれていたのです。

だから、お釈迦さまの時代も、葬儀をするのは長老(在家信者)でした。
そしてそれ以後の時代も、南方仏教においては僧侶は基本的には葬儀にタッチせず、葬儀は在家の人々が中心になって執行されることになっています。

日本仏教には「葬式仏教」の異名があり、日本では、葬式はお坊さんがするものという慣行ができ上がっていますが、お坊さんと葬式との結び付きは、一般に思われているほど必然性はないのです。
日本において仏教僧が葬儀にたずさわるようになったのは、江戸時代に檀家制度が出来上がって以後です。
だから、仏教の側からの内発的要求にもとづいて葬儀の執行を引き受けたわけではありません。
外から強要されて、好むと好まざるとにかかわらず葬式をしなければならなくなったのです。

それが現在では、仏教の各宗派が並び、全国各地にお寺がひしめき、坊さんたちも葬式・法事に忙しい毎日を送っています。
世の人々は何の疑いもなく、人が亡くなれば葬儀をお寺で営み、年忌法要も坊さんを招いて勤めるのが、昔からのしきたりで、当たり前のことだと思っているようです。

そして、仏事は死者供養のおまじないだと見なされており、仏教は祖先崇拝の儀式の道具である、と深く思い込まれているようです。
だから、亡くなった人が善い所へ行けますようにとか、自分の願い事をかなえるためのおまじないとして、南無阿弥陀仏と称えているようです。

   

 
 

真宗のお葬式

 

高度成長の波に乗って、日本人はより便利に、より楽な暮しを求めて突進してきましたが、みんな4、50代になると、ふと立ち止まって、私の人生は一体何だったのだろうと、このままただ生きて行くことに不安を感じるようになります。

お金や財産や地位や役職があっても、それだけでは何となく心細いものです。
心の拠り所がはっきりしていないのです。
それは言い換えれば、生活が豊かでも人生に一貫した方向性がないのです。
みんな知らず知らずのうちに迷い道に紛れ込んでしまったようです。
方向を持たない人生は、何年生きても、何をやっても無意味です。
だから死んで行くときに、お前はここへ行けと引導を渡されなければ、心配で死んでも行けないのでしょう。

浄上真宗は、現生不退(生きている今、迷いの世界に汚染されない、明るい阿弥陀如来の浄土に向かうことが決まる)が貫かれています。
南無阿弥陀仏の教えに導かれて、人生の方向が決まります。
そうなればもう二度と迷いの世界に汚染されないのだから、毎日安心して生活することができます。

だから、命終った時も、暗い迷いの世界をさまよったり、恐ろしい悪霊にとりつかれるなどという心配は少しもありません。
したがって、魔除けの刀や、三途の川を渡る旅装束もいらないし、友引の日にお葬式を営むと死人が友を引き招くなどという恐れもありません。

ましてや亡くなった方は、残った者に対して、人生とは何であるかを身をもって教えて下さる、大事な仏さま(諸仏)であり、亡くなった途端に汚れた存在にしてしまって、生きている者がそれを忌み嫌う清めの塩を用いるなどということは、絶対にあってはなりません。

枕勤めから始まる真宗のお葬式は、すべて阿弥陀如来の世界に生き、阿弥陀如来の国に帰り、阿弥陀如来の世界から私たちを導かれる故人に対し、別れる悲しみの中にも、有難うございました、とその徳を讃え、阿弥陀如来の世界に生きる喜びを噛みしめるように貫かれています。

真宗のお葬式はその人生の総決算ですから、先祖代々、親しみ、育てられてきた、なつかしい『正信偈』の教えをいただき、報恩感謝の集いを持つのです。
その儀式は、決して、世間で「ご冥福をお祈り致します」と言うような、見えない死後の世界の幸せを祈るおまじないではないのです。

世間の人々は、「真宗のお葬式は、みんなで阿弥陀さまの世界のすばらしさを讃える儀式なのだ」などと説明すると、びっくりするに違いありません。
みんな死者の追善供養のためにお葬式を営むと思っているからです。

しかし、本当に教えを聞き抜いた真宗門徒にとっては、迷っているのは死者ではなくて、問題にしなければならない駄目人間は、他ならぬ私自身だ、ということをよく知っているはずです。
生きている者が、死者を何とかしてあげよう、などというのはとんでもない思い上がりです。
私たちにはそんな超能力などはありません。

真実の世界に旅立った人に学ばなければならないのは、後に残った私自身なのです。
浄土真宗の教えをいただいてきた者にとっては、娑婆の縁尽きたとき浄土(阿弥陀如来の世界)の人になることは決まっています。
したがって、亡き人の行き先を心配する必要はありません。

仏事は決して亡くなった人の追善供養のためにおまじないをしているのではありません。
したがって、手を合せて南無阿弥陀仏と称える心は、このすばらしい教えに導いて下さった諸仏である亡き人々に対し、有難う、とお礼を申し上げるだけでしょう(仏恩報謝の念仏)。

お葬式などの仏事は、真宗門徒にとっては、南無阿弥陀仏の教えを聞く人生を目的にしているのであり、そのために亡き人たちは、大事な聞法の場を私たちに与えて下さっているのです。
だから、手を合わせる心は、有難うなのです。


 
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