震災で知らされたこと

 

「花すみれ」2010年11月号(大谷婦人会本部事務局発行)より

◎能登半島地震

二〇〇七年三月二五日、ゴーッという地響きを聞いた次の瞬間、足元がデタラメな動きをしました。地震の揺れに耐えながら、いつ、どういう災難が降りかかってくるかもしれない、それは単なる知識であり、他人事でしかなかったことを自覚しました。
災難が現実として私の身の上に降りかかりました。建物が潰れる、下敷きになるかもしれない、そう思いました。
住宅などは倒壊せず、私も家族も無事でした。

しかし、鐘楼は倒壊、客殿も全壊、本堂は大規模半壊でした。
ご門徒に負担をかけないようにと心がけ、立派・豪華というには程遠いものの、小奇麗に修繕・改修をして寺を維持してきたつもりです。
いい住職を演じてきたつもりでしたが、そんな私のようなものの努力、思い上がりは何の役にも立たないということを地震は教えてくれました。
こつこつと積み上げてきたもの、それがほんの数十秒で瓦礫になりました。
◎ストレス

 天災である震災は誰かを恨みようもないし、責めようもない、起こってしまったことを素直に受け入れるしかないと自分に言い聞かせました。
しかし、それも身についていない知識、理性でしかありません。冷静に現実を受け入れたつもりでしたが、実際には先行きの不安で胸の内は一杯です。大きな本堂を維持する悩みから解放されたい、この寺から逃げ出したい、そう思いました。

震災後数ヶ月たった頃に義歯が外れて歯科医院へ。
数ヶ月後にまた別の義歯が外れます。
歯科医の先生の診断ではストレスから歯ぎしりをしているとのこと。
結局三ヶ月ごとに歯医医院へ四本の歯の治療に通いました。
また、震災から半年経った頃に痛風になりました。晩酌、寝酒の量が増えていたようです。

 震災直後から、全国からお見舞いや義援金が届きました。本山から共済金もいただきました。門徒総会で本堂の建て替えが決議され、ご門徒の方々からのご寄付も私の予想以上に順調に集まりました。復興に向けて動き出すと、多くの方に支えられ生かされている、そう思い感謝のお念仏をしているつもりでした。しかし、そのお念仏には違和感があり、これは違うと思いました。
◎諦めきる

地震は、地球が誕生した時から、宇宙が誕生した時からの様々な条件が積み重なった結果で止めようがありません。
そして、私は地震の場に住職として生かされていました。
生かされているのだから、震災に遭うことは逃れることのできなかったこと。
生かされているとはそういうこと。
命があるとか、お見舞いや寄付を頂いたという私に都合の良いことだけを取り上げて生かされていると感謝するのは違うと思いました。
震災に遭ったことも生かされているということ。
逃れることができない、出会うしかなかったことと諦めきることにより現実を受け入れることができました。

他力とはそういうことではないかと思います。
自力では覚りをひらくことのできない私たちを浄土へ往生させ、覚りへ導いてくださる、他力はそれだけではないと思います。
私の経験のすべてが他力、そのように思います。
自分で生きているのではない、生かされている、そう気づけば、何事も受け入れるしかない、諦めきるしかありません。
諦めきるといえば、消極的な暗い生き方のようですが、実はそうではないと思います。
自分で生きていると勘違いし、もがき苦しむ。
そうではなく、生かされているんだと諦めきったところに、明るく生き生きと生かされる人生が開かれるのではないかと思います。 


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