アンガジェする

「われわれが、人間はみずからを選択するというとき、われわれが意味するのは、各人がそれぞれ自分自身を選択するということであるが、しかしまた、各人はみずからを選ぶことによって、全人類を選択するということをも意味している。

事実、われわれのなす行為のうち、われわれがあろうと望む人間を創ることによって、同時に、人間はまさにかくあるべきだとわれわれの考えるような、そのような人間像を創らない行為は一つとしてない。

あれかこれか、そのいずれかであることを選ぶのは、われわれが選ぶそのものの価値を同時に肯定することである。

・・・・(中略)・・・・

このように、われわれの責任は、われわれが想像し得るよりも遥かに大きい。
われわれの責任は全人類をアンガジェするからである。」

(『実存主義とは何か』サルトル全集第13巻より)

これは、フランスの実存主義哲学者・サルトルの言葉です。

「アンガジェマン」「アンガジェする」とは、「拘束」「かかわり」という意味のフランス語です。

わたしたちがある状況にあって、みずからの行動・行為を選択する。

たとえば、気がムシャクシャするとき、ある人は気を紛らすために酒を飲むであろう。

彼は自分のために飲酒という行動をとったのであるが、同時にその選択は全人類への呼びかけになっているということです。

つまり気がムシャクシャするときは、酒を飲むとよい……と、彼は人々にすすめていることになるのです。

わたしたちは、そのような覚悟をもって、みずからの行動を選択すべきだ、というわけである。

非常に責任が重いのである。

わたしたちは自分で自分の生き方を選んでいるが、それは同時に他人への働きかけになっているのである。

収入が少なくて自分の物欲を満足させられないとき、その物欲をコントロールするか、それとも強盗をやって金を手に入れるか、わたしたちは選択せねばならない。

そして、強盗をした者は、他の人々にも、強盗をやれ!・・・・と、すすめたことになる。

みずからの物欲をコントロールした者は、そういう解決を他の人々にすすめたことになる。

つまり、わたしたちは自分の行動でもって他人とかかわり、他人を拘束しているのだ。

好むと好まざるとにかかわらず、われわれは他人とかかわっているのです。
 

 

政治家・企業と私たち

  

来春、石川県知事選挙や輪島市長選挙が行なわれるが、選挙ということで、そういうわれわれと全人類とのかかわりがよく分かる。

日本の総理大臣は、国会議員の中から、国会議員の手によって選ばれるので、われわれには無関係のことのように思われるが、その国会議員を生み出しているのはわれわれなのである。

政治家は、自分がいくら政治家になろうとしても、自分の選択だけでは政治家にはなれない。

政治家は、わたしたち一人一人の選択が集約してはじめて政治家となれる。

つまり、わたしたち一人一人の選挙における一票が、実はとても大きな意味をもっているということである。

わたしたちが、政治家を生み、首相を生み出している。

行なわれている政治と政治家に対して、わたしたちは大きな責任があるのである。

企業とわたしたちの関係にも同じことがいえる。

毎日、テレビやラジオで流れているコマーシャル、これもわたしたちが作っている。

コマーシャルはあたかも企業が金を出し製作しているようであるが、実はその製作費もわたしたちが支払う商品の代金としてわたしたちが出しているのである。

つまり、企業が良い商品を作り、コマーシャルをするからわたしたちが買うという一方通行ではなく、わたしたちが買うから企業が成り立ち、コマーシャルができるという一面もある。

わたしたちの日常生活の中の小さな選択が、大企業を生み、コマーシャルを生み出しているのだ。

全人類への呼びかけをしているのである。

企業におけるわれわれの責任も非常に重いのである。

 

  

チェルノブィリ

 
志賀町赤住で能登原発が稼働し、珠洲市でも2ヶ所の原発建設の計画がある。地元に金が落ちるから、地域振興のためにという理由で原発が誘致されているが、はたして、原発は志賀町や珠洲市だけの問題なのだろうか。

1986年4月26日、深夜1時23分、ソ連ウクライナ共和国チェルノブィリにある“レーニン原子力発電所4号炉”が爆発、ただちに火災が発生して、内部にかかえていた莫大な量の死の灰が、高度1万メートルの上空まで上昇していった。

その量は、過去におこなわれた核実験すべての死の灰を合計した分に相当する。

広島原爆500発分の危険なセシウムが放出され、地上に降りつもった。

チェルノブィリ原発事故で大量に放出された放射能によって、スウェーデン・ポーランド・ドィツ・トルコなどといったヨーロッパ一帯が汚染され、今なお汚染が続いていることは、たびたび報道されている。

日本でも静岡茶が汚染により廃棄処分にされた。


とくに食品の汚染は深刻で、毎日食べている野菜・ミルク・肉・そしてパンさえも汚染されている。

それはヨーロッパだけの問題ではなく、スパゲティやチョコレート、チーズなど、わたしたちが口にしている輸入品からも放射能は検出されている。

毒性が半分になるには、セシウムで30年、ストロンチウムで28年、プルトニウムは2万年もかかる。

その放射性物質が土にまじり、川や海や地下水にまじり、そして食糧にはいりこみ、知らず知らずのうちにわたしたちの体に入りこみ蓄積されて、とりかえしのつかないことになる。

放射線は癌や白血病の原因となり、また遺伝子を破壊し障害児出産の原因となる。

つまり、放射能汚染の影響は半永久的であり、他の災害とは比較にならないこわさがある。

 

 

子供や孫のことなど考えてられるか

 

最近よく飛行機事故が続き多くの人達が亡くなっている。

航空会社は事故を起こしてはならないし、亡くなった人々は気の毒だと思う。

しかし、飛行機は事故を覚悟した、危険を選択した者だけが飛行機に乗り、事故に遇う。

飛行機事故災害にはまだわたしたちに選択の余地がある。

だが、原発事故には選択の余地がない。

原発を推進する人たち、賛成する人たちは、自らの意志で危険を覚悟しているのだろうが、反対している人たちも強制的に命を預けさせられてしまう。

事故が起これば、全人類が放射線被曝による死や回復不能な障害をおこす危険にさらされてしまうのである。

反対できる者はまだいい。

まだ生まれてこない子や孫にもその危険や障害を押しつけるのである。

石川県志賀町の原発推進派の集会で、
「子供や孫のことなどおかしくって考えてられるか。北電からもらった金で面白おかしく暮らすんや」
「たとえ50年後100年後に障害者ができようとも、今、金をもらった方がいい」
といった者があるそうだ。

全人類への責任を見失っているどころか自分の子孫への責任まで見失ってしまっている。

エゴのかたまりそのものである。

餓鬼・畜生というが、これでは犬畜生以下である。

犬でも子供のことを気にかけるのではないだろうか。

目先にぶら下げられた金に目がくらんで、人間として大切なものが見えなくなってしまっている。

その姿はにんじんをぶら下げられて崖に向かって猛進する馬のようである。

わたしたちのいのちは、如来さまからたまわった預りものであり、わたしたち個人の所有物ではない。

けっしてわたしたちの欲望で売り払ったりしてはならないものである。

 

 

能登と原発

 

能登は日本海一の好漁場を持ち、環境破壊や水質汚染の最も少ない外海に面している。

豊かな自然環境の中で、カニ・甘エビ・ブリ・アワビなどの海産物や、ワラビ・ゼンマイ・ウド・山イモ・キノコなどの山菜が獲れる。

それらを求めて大勢の観光客が輪島の朝市はじめ能登にやってくる。

豊かな自然環境と原子力発電所は相反するものである。

原発のある海の魚を食べにやってくる人があるだろうか。

原発のある風景を見に来る人があるだろうか。

輪島の主産業は、漆器と観光と農・林・漁業である。

1基の原子炉稼働はおそらく壊滅的な経済的打撃を輪島や能登に与えるのではないだろうか。

そんな原子力発電所が地域振興に結びつくとはとても思えない。

祖先から受け継いだ豊かな自然は次代の子孫にもそのまま受け伝えていくべき義務が、わたしたちにはあると思われる。

 

 

人間が人間らしく

 

贅沢三昧の生活を送り、物質的快楽を追求しつづけるわたしたちは、たいへん恵まれた環境にある。

現在の住宅環境は冷暖房完備の快適なものである。

インドやアフリカの飢餓は日本にはない。

飢餓どころか、日本人は美食に飽きているのだ。

就職したばかりの若者でさえ車を乗りまわす。

日本人の中流意識は、近世までの王侯貴族の賛沢をはるかに上回っている。

それでもまだ、目先に金をぶら下げられれば、自分のいのちばかりか子孫のいのちまで売り払おうとしている。

隣人の生活やいのちを売り払おうとしている。

金もうけよりも、いのちこそが何よりも大切なのだ。

豊かな自然の中で人間らしくのびやかに生きる、こんなに当り前のことが当り前でなくなってしまっている。

それが、現在の日本のあり方ではないだろうか。

わたしたちはもう一度、人間としての原点から出発すべきではないだろうか。

物質文明のうちにあって、欲望を際限なくふくらませる道を選択してはならない。

「欲望を捨てたところに、真実の幸福がある」
そのことを、ボロをまとって釈尊や親鸞は呼びかけておられるのである。

奪われつつあるいのちの尊厳の回復、大自然に包まれて、人間が人間らしく生きる。

それが南無阿弥陀仏の精神である。

 

 

 

 

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