さかさメガネ
アメリカの心理学者に、ストラットンという人がいました。
彼はさかさメガネを考案したので有名です。
“さかさメガネ”、このメガネをかけると、天と地が逆に見えます。
人間が頭を下に、脚を上にして歩いているわけです。
このメガネは天と地を逆に映すだけで、実際に人間が脚を上にして歩いているのではありません。
外国人には奇妙な実験をする人が大勢いますが、このストラットンもさかさメガネを使って1つの実験をしました。
もともと人間の目の網膜には外界が逆に映っているはずなのに、どうしてそれが正常に見えるのだろうか?というのが、彼の疑問でした。
それで、ともかく彼はさかさメガネをつくってかけてみました。
最初はやはり面食らったそうです。
それはそうでしょう。
頭が下に、脚が上に見えるのだから、誰だってまごつきます。
水道をひねると、水が下から上に流れ落ちるわけです。
ストラットンは1週間、このメガネをかけたまま生活しました。
そのうちに、このメガネに慣れてしまったそうです。
そして1週間目、ストラットンはメガネをはずしました。
彼はようやく正常な世界に戻ってきたわけです。
しかし、驚いたことに、彼はその正常な世界にまごついたのです。
頭が上にある世界、雨が天から地に降るあたりまえの世界に、彼は面食らってしまったそうです。
これが実験です。
面白いとは思いませんか?
あべこべの世界に慣れてしまうと、人間は今度は正常な世界が異常に見えるものです。
正常が異常で、異常が正常になるわけです。
この実験は、そんなことを私たちに教えてくれています。
正常と異常といったことばは、あまり適切ではありません。
単に数の多いものが、ただ数が多いだけで、“正常”と呼ばれることがあるからです。
たとえば、左利きと右利きがそうです。
日本人には右利きが多くいます。
だからといって、右利きが正常、左利きは異常とされたのでは左利きの人がかわいそうです。
ストラットンはさかさメガネをつくって、頭が上にある日常的世界を逆にした非日常的世界にいって、1週間生活してきたわけです。
そして、1週間の後、彼は非日常的世界から日常的世界へ帰ってきました。
すると、おかしなことに、その日常的世界にストラットンは、とまどいを感じたのです。
如実知見
仏教の悟りは、『如実知見』−あるがままにものを見ることだといいます。
世界をあるがままに見ることができれば、そのとき私たちは仏教の悟りを得ているわけです。
しかし、それは容易なことではありません。
私たちの目は、欲望に狂っています。
その狂った目で捉えたとき、ものは歪んで見えています。
欲望に燃えた目で女性を眺めると、そこには性欲の対象としてのオンナしかいません。
一人の結婚した女性がいたとします。
姑にとっては、その女性はこにくらしい息子の嫁にしか見えません。
しかし、その女性の親から見れば、かわいくてしようのない娘です。
女性は1人です。
一方から見ればかわいくて、一方から見ればこにくらしい。
どちらが本当の女性でしょう。
どちらもあるがままの女性の姿ではありません。
姑は、家の嫁だという歪んだ目で見ます。
親は、自分の娘だという色メガネでしか見ることができません。
私たちは煩悩を持っています。
煩悩の目でしか対象を見ることができません。
金の奴隷
私たちは、生きるために働いています。
働くのは、食べるためです。
食べて生きるためです。
ところがどうでしょう。
私たちは生きていますか?働いて生きているでしょうか。
いつのまにか、働いて食べるばかりに一生懸命になって、生きることを忘れてしまってはいないでしょうか。
私がお金を稼いで、お金を使って食べて生きるはずなのに、いつのまにか、お金を稼ぐばかりの人生になってはいないでしょうか。
お金を使うはずの自分が、お金に使われてはいないでしょうか。
お金になれば何でもいい、お金のためなら何でもする、という私になってはいないでしょうか。
私たちはいつのまにかお金の奴隷になってしまっているように思えます。
お金と物ばかりの快楽の世の中に、私たちは浮かれ過ぎてはいないでしょうか。
おごり過ぎてはいないでしょうか。
快楽に大きな危険と犠牲がともなっていることに気付いているでしょうか。
快楽をいくら追い求めても、そこに満足は得られないことに気付いているでしょうか。
欲望は、際限なくふくらむことに気付いているでしょうか。
快楽も欲望も捨て去ったところに本当の満足があることを知っているでしょうか。
すべての欲を捨て去ったときに、人間は人間にとって一番大切なものが何であるかということを知るのです。
私たちは、自分のことは自分が一番よく知っているように思っていますが、その自分の姿ですら見えてはいないのです。
あたりまえのこと
エネルギーや電力は必要なものです。
無くなってしまったらたいへん不便になり、困ります。
しかし、もっと無くなってしまったら困るものは生命です。
「生命あってのものだね」といいますが、本当にそのとおりです。
いくら快適な環境があっても、いくら便利であっても、生命が無くなってしまっては何にもなりません。
生命を賭けてまで電力を作り出さなければならないのでしょうか。
私たちは何の考えもなしに、地域活性化だ、地域振興のためだという大義名分とちっぼけな欲に踊らされて人間の生命が脅かされるような環境を作り出そうとしています。
生命を育む自然環境よりも、経済の安定のほうが大切なのでしょうか。
この世で最も大切なものは、人の生命です。
そんなことは誰でも知っているあたりまえのことです。
しかし、そのあたりまえのことを皆忘れてしまっています。
一番大切なものがお金になってしまっています。
お金最優先の世の中です。
生命よりもお金と物です。
それは、あたりまえのことが、あたりまえではない世界です。
これこそ、さかさまの異常な世界ではないでしょうか。
私たちは、その異常な世界に慣れっこになってしまって、それこそが正常であるかのように錯覚しています。
ほとけさまのメガネ
私たちは皆、さかさメガネをかけてみなければならないのではないでしようか。
このさかさメガネは、メガネ屋さんに売っているような実際のメガネではありません。
形のないメガネ、こころのメガネです。
そして、それはほとけさまのメガネです。
私たちがほとけさまの目で世の中を眺めてみます。
そうすると、世界はきっとちがって見えてくるだろうと思います。
欲望と煩悩に燃える目で眺めた世界と、このほとけさまのメガネをかけて見た世界は、まるでさかさになっているはずです。
それを『転識得智』といいます。
識とはこころのことです。
こころをコロッとひっくり返せば、ほとけさまのさとりのこころになり、ほとけさまのさとりの智慧を得ることができるという意味です。
私たちは、広大な宇宙の一点に生きています。
150億年という宇宙の歴史を背負って生きています。
時間的空間的に宇宙というスケールで自分を見つめてみようではありませんか。
この宇宙の中で、人間とは自分とはいったい何なのでしょう。
36億年の生命の歴史の中で、私とはいったい何なのでしょう。
人間はどこから来て、どこへ行くのでしよう。
現代社会の中で、私たちは自己を見失っているのではないでしょうか。
「自己の発見」そのことが『南無阿弥陀仏』の精神です。
「雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来」、今こそ、そのことが私に求められているように思えます。
ほとけさまの教えは、非現実的な別世界のことのようです。
しかし、ほとけさまの世界は、あたりまえの世界です。
ほとけさまのあたりまえの教えが、あたりまえだとうなづけない私たちがさかさまなのです。
だから、私たちはほとけさまのさかさメガネをいただいて、もう1度本来の世界にもどってみましょう。
そのとき、私たちは、ほとけさまと同じあたりまえの世界を見ることができます。
あたりまえの世界からこの世を見たとき、私たちが本当に何をなさねばならないか見えてくるはずです。
参考=「仏教をどう生きるか」:ひろさちや
「放射能はなぜこわい」:柳沢 桂子
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