ゴミ問題に思う

中国から針のついた注射器や容器に入った血液、薬剤などが日本海沿岸に流れ着いていて、たいへん危険な状態だということをニュースで知りました。
病気を治す病院から出たゴミが、新たな患者を作りかねない危険な処理のされ方です。
海岸の掃除をすると、ハングル文字の書かれたゴミが目立ちます。

ゴミを捨てた人は、海や川に流すなどして、自分の目の前から無くなれば、きれいに片付けたと思っているのでしょうか。

吉野(奈良県)は桜の名所です。
花見の時期には大勢の観光客が訪れ、あちらこちらにポイ捨てされたゴミの山を作っていくそうです。
地域のボランティアがそのゴミを片付けるそうですが、ゴミ処理には多くの経費がかかり、吉野町という小さな町の財政を圧迫しているので、今年から花見の観光客からゴミ処理の協力金を取ることにしたそうです。
他人のゴミまで持って帰れなくても、自分が食べた弁当の空き殻、ペットボトルくらい持ち帰れないものでしょうか?

輪島の墓地でも、お盆の終りにはゴミの山がたくさん出来ます。
ほとんどの人は文字が読めるはずなのに、「ゴミは持ち帰りましょう」という看板の前にもゴミの山が出来ます。
一人一人がゴミを持ち帰ればゴミの山は出来ません。
ご先祖に手を合わせる心はあっても、そのお墓で出たゴミを持ち帰る気持ちはないようです。

輪島の村外れの交差点に、拾われたのであろうコーヒーやジュースの空き缶がぶら下げられた「私たちのまちをきれいに。ポイ捨ては止めましょう」と書かれた看板が立てられています。
看板のすぐ近くには空き缶やペットボトル用のゴミ箱が置いてあります。
道端にゴミをポイ捨てしてはいけないというのは常識のはずなのに、街中からゴミは無くなりません。

街中にある正覚寺の庭にもたびたび空き缶などがポイ捨てされます。そのゴミを拾ってくるのが私の妻の日課です。
誰かが片付けてくれるだろうと軽い気持ちで捨てるのでしょうが、自分の家の玄関や庭先にゴミを捨てられたらどんな気持ちがするでしょうか。
自分でなければいい、他人ならいい、そういう自分勝手な思いがゴミを作っているいると思います。
ゴミを捨てられたものの痛み、他人のゴミを片付けなければならないものの痛みを思えば、ゴミは捨てられないはずです。
互いに他人の痛みが思いやれる社会、それが念仏が響く社会ではないでしょうか。


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