目次に戻る 前のページに戻る 次のページに進む


「重油」


不純を知らぬ純粋さは
人を傷つける凶器でしかない
しかし不純を知ってなお純粋ならば
世界を救うことさえできるのかもしれない

虚空に放たれた
油まみれの海鳥の群
ギラギラと輝きを放って
波に崩れ落ち、動かなくなる

次々と点々になるカラスのようなカモメ
動かないものを見て心は激動している
あれは確かに不純なものだけれども
それを見つめて人々は純粋になる

波消しのテトラポット
歴史を刻むようにどす黒く悪臭を放ち続け
何百年もこのまま残されればいいと思う
人の愚かさと希望の澪標となるように

この美しい国を愛さずして
世界を愛することなどできるはずもない
今、汚されているものが何であるのか
驚愕の目を見開く時に来ている

その夜、夢を見た
ドロドロとした人の形の重油
瞼とおぼしき位置にひとつだけ穴を開いて
真っ直ぐ僕の方に向けてたたずんでいた
その穴から覗いている美しい黒水晶は
なんの感情も呼び起こさないままに
静かに澄み切って僕に向いていた
そして、なんのきっかけもなく
重心の辺りからヒトデ型にめくれ返り
真っ赤な、真実に真っ赤な粘膜を曝しながら
艶やかに光る滑らかな触手が十方に伸びて
向こう側にある全てを包み込んでいった
何も思わないままそれを見つめた僕は
触手達がグルリと回り込んで
僕の背後からグングンと迫ってきて
最後に僕という一点に収束して終わるのを
漠然と感覚して、納得していた
あの黒水晶はめくれ返った向こう側を見つめている
その遙か彼方の終着点に僕の背中を見つめている
あれは世界中を、僕に突き付けようとしている

生まれてくるもの達は
過去の惨事を後悔することはできない
漂う油を、荒涼たる焼け野原に重ねて見つめる
あの空襲は、僕らの知性にも加えられたのだ

情熱的な時の流れの中で
汚れるものは汚れ、壊れるものは壊れる
しかし純粋さに対して冷徹である知性の愚鈍さは
歴史よりも大規模に破壊的なのだ

ひしゃくを手に汗を流す人々
悲しみでもなく、何とも言えない表情をしている
愛すべきもの、守るべきものを知っている
泣き出しそうな必死の顔をしている

純粋さを源泉とする行動の中に
そしてそれを見守るたくさんの心の中に
大地に根を張る、大樹のような安心感を見ている
知性は疑うのではなく、これを信じ続けなければならない

目次に戻る 前のページに戻る 次のページに進む