マザー・テレサ語録 Part2

 
(since 1997.10.30)



 死は、かなしいことではありません。
 私たちが悲しむべき唯一のことは、自分が聖なる者になっていないという事実だけです。
  


 祈りは、心を広くしてくれます。
 神様ご自身を、賜物として心の中にお入れできるほどに、広くしてくれます。
 


 祈りは信仰を生み、信仰は愛を生み、愛は貧しい人々のためへの奉仕を生みます。
 


 生活の中にいろいろのことが入り込むので祈れない、という言い訳をする人たちがいます。
 そんなことはあり得ません。
 祈るために、仕事を中断する必要はないのです。
 仕事を祈りであるかのようにし続ければよいのです。
 黙想をいつもしている必要もなければ、神と語っていることを意識することも必要ではありません。
 どれほどそれがすばらしい体験であるにせよ、大切なのは、神と共にあり、神と共に生き、神のみこころを自分のものとして行うことなのです。
 清い心で人々を愛し、すべての人、特に貧しい人々を愛することが、間断ない祈りになるのです。
 


 祈るためにまず必要なのは、沈黙です。
 祈る人とは、沈黙の人といってよいでしょう。
 


 神さま、何卒私を、世界中に散らばっている兄弟姉妹、貧しく生き、誰にも看取られることなく死んでいく人々に奉仕するにふさわしい者にしてください。
 私たちの手を使って、こういう人たちに、今日必要な糧をお与えください。
 そして私たちの愛を使って、平和と幸福を彼らにもたたらしてやってください。
 


 祈りは願いごとではありません。
 祈りとは自分自身を神のみ手の中に置き、そのなさるままにお任せし、私たちの心の深みに語りかけられる神のみ声を聴くことなのです。
 


 救われるためにはどうしたらよいでしょうと尋ねる人があったら、私の答えは「神さまを愛することです。
 そして、何よりもまず祈ること」


 私がお願いすること。
 飽くことなく与え続けてください。
 しかし残り物を与えないでください。
 痛みを感じるまでに、自分が傷つくほどに与えつくしてください。
 


 注がれる神の愛に心を開いて下さい。
 神はあなた方を優しく愛していてくださいます。
 そして神から頂いたものは、錠をかけてしまい込んでおくものではなく、人々と分かち合うためのものなのです。
 貯めれば貯めるほど、与える機会を失ってしまいます。
 持ち物が少ないほど、人々と分かち合うことも易しくなります。
 何かをくださいと神にお願いするとき、同時に寛大な心にして下さいというお願いもしましょう。
 


 与えることを学ばなければなりません。
 でも、与えることを義務と考えるのではなく、与えたいという願いとすることが大切です。
 一緒に働いている人たちにいつも言っていること。
 「余った物、残り物はいりません。
 私たちが仕えている貧しい人たちは、あなた方からの憐れみも、見下すような態度も必要としていないのです。
 彼らが必要としているのは、あなた方の愛と親切なのです。」


 私たちは忙しすぎます。
 だからお互いを見つめ合う時間も、互いにほほえみ合う時間も持ち合わせていないのではないでしょうか。
 


 この地上で神と共にある幸せを享受するためには、次のようなことが必要となります。
 神が愛されるように人を愛すること。
 神がなさるように人の手助けをすること。
 神が与えるように人に与えること。
 神が手を伸べてくださるように人に手をさしのべること。
 二十四時間、つまり一日中神のみ前に生きること。
 そして貧しい人々、苦しんでいる人々の中におられる神に触れていること。
 


 イエスは私たちに会いにいらっしゃいます。
 イエスを歓迎するために、私たちの方から進んでお出迎えに行きましょう。
 イエスは私たちのもとに飢えた人の姿、裸の姿、寂しい人の姿、アルコール依存者、麻薬中毒者、売春婦、路上の物乞いの姿でおいでになります。
 誰からも構われない寂しい父親、母親、男の人、女の人の姿でいらっしゃることがあるかも知れません。
 もしも私たちが、その人たちを見殺しにするなら、手を差しのべないなら、それはイエスその方を見殺しにしたことになるのです。
 


 神にとって重要なのは私たちの愛なのです。
 私たちの一人としてこの世になくてはならない者ではありません。
 神はご自分でしようと思し召せば何でもおできになるし、最も有能な人間の業でさえ無価値なものとすることがおできになるのです。
倒れるまで一生懸命働くことも、力以上に働くことも、してできないことではありません。
 でも、そんなに働いても、それが愛に基づいてなされていないなら、神の目には無益なことでしかないのです。
 


 キリストの復活の喜びを忘れてしまうほどに、あなたの心が悲しみに奪われるようなことがあってはなりません。
 私たちは皆、神の楽園を憧れています。
 でも実は私たちは、今、置かれたところで楽園を味わうことが出来るのです。
 今日ただ今、キリストとともにいる幸せが見出せたら、その時、それは可能になるのです。
 


 愛はどこから始まるのでしょうか?
 私たちの家庭からです。
 いつ始まるのでしょうか?
 ともに祈る時に始まります。
 ともに祈っている家族は崩壊することがありません。
 


 愛は身近の人―――家族―――を気づかうところに始まります。
 私たちの夫、妻、子どもたち、または親たちが、いっしょに住んでいながら、十分に愛されていないと感じ、孤独な生活をしているのではないかと反省してみましょう。
 そのことに気づいているでしょうか?
 年老いた人々は今日、どこにいるのでしょう?
 介護施設(あればの話ですが)の中です。
 なぜ?
 それは彼らが邪魔だから、厄介者だから、そして……


 傲慢さは、すべてを壊してしまいます。
 イエスのように生きる秘訣は、心の柔和で謙遜な人になることです。
 


 喜びは祈り喜びは力喜びは愛喜びは、私たちが人々の心を捕える網


 私は、親切にしすぎて間違いを犯すことの方が、親切と無関係に奇跡を行うことより、好きです。
 


 生命は神からの賜物です。
 胎児の中に、すでに生命が宿っています。
 人間の手で、生命を奪うことは許されません。
 出生以前に生命を断たれた子どもたちの叫びは、神の耳に届いています。
 


 苦しみが私たちの生活に訪れてくる時、ほほえみをもって受け入れましょう。
 神が送り給うすべて、求め給うすべてをほほえみながら受け入れる勇気は、神からの最も偉大な賜物といえましょう。
 


 一緒に住んでいたり、または血のつながった親族といった人たちにほほえみかけることは、あまり親しくない人々に対してほほえみかけるよりもむずかしい時があるものです。
 「愛は近きより」ということを忘れないようにしましょう。
 


 お金を恵むだけで満足しないようにしましょう。
 お金がすべてではありません。
 お金は手に入れようと思えば手に入れられるものです。
 


 苦しみそのものには価値はありません。
 キリストと、その受難を分かち合えるものとなった時、私たちの苦しみは、この世で最も貴い賜物になるのです。
 


 あなたのごく近くに、愛情と優しさに飢えている人々が、きっといます。
 どうぞその人たちを見捨てないで下さい。
 彼らに人間としての尊厳を認め、あなたにとって大切な人たちなのだと、真心こめて認めてやって下さい。
 あなたからの愛と優しさに飢えている人とは誰なのでしょう。
 イエスご自身に他ならないのです。
 苦しんでいる人の姿のもとにまします、イエスご自身なのです。


 ここでご紹介したマザー・テレサのことばは、1982年にマザー・テレサが来日の折り通訳を務められたシスター渡辺和子(※1)さんが訳された「マザー・テレサ愛と祈りのことば」から引用させていただきました。
 名誉、権力、金銭の欲に溺れ、互いに争っている地上に、無条件に人々を愛し、その悲惨さを和らげるために献身したマザー・テレサの存在、そして彼女を慕い今も献身し続けている人々の存在が、私にとって大きな救いであり、慰めでもあります。
 この本を読んだ感動を皆様にも味わっていただきたくご紹介させて戴きました。現在書店で販売されていますので是非読まれることをお奨めします。(会田夏彦)

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※1 渡辺和子

 ノートルダム清心大学教授から学長となり、現在ノートルダム清心学園理事長、日本カトリック学校連合理事長。
 著作に「美しい人に」「愛を込めて生きる」「愛することは許されること」(PHP研究所)
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