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デイビッド・リビングストン 旅行家にして、地理学者であり博物学者、そして伝道医師であった。 1813年3月19日、スコットランドに生まれ、1873年5月4日、中部アフリカ、イララ地方チタンポ村で赤痢に罹って亡くなるまでの後半生の24年間、彼は中央アフリカにおいて、原住民の教化と、未発見の秘境の踏査と、いまわしい奴隷売買の廃止の為、その時のほとんどを費やした。」 彼は、己の信ずるものにいっさいを捧げた。 その信じた第一のものとはキリスト教であり、彼を動かす力となった。 もう一つは探検と動植物の研究である。 一心不乱に働き、ほぼ余すところなくありとあらゆることを記録するこの男に、こうした機会を与えたのも布教の情熱であった。 彼は他人をとがめることのない謙虚な人物であり、他人の欠点を、自らの決意と、何をしようとするときにも神の加護があるという揺るぎない信仰とによって補っていた。 40年以上もの旅で、彼が目指していたのは、アフリカに福音を伝え、ヨーロッパに奴隷貿易の悪を指摘し、大きな発見として祖国で称賛された、未知世界アフリカの地理の知識を増すことだった。 存命中に本当に成功したと言えるのは、この内の最後のものだけだったが、彼の死によって引き起こされた感情は、アフリカ大陸に広範な布教活動を巻き起こし、奴隷貿易を実質上中止させることに直接繋がったのである。 「人間の悪はその死後に生き残る、善は往々にして骨と共に葬られる」という言葉はリビングストンに於いては逆であった。 彼の善は生き続け、成長し、勝利を収めた。 悪名高い奴隷売買のアラブのスルタンは奴隷の輸出禁止協定に署名し、ザンジバルの首都に於ける奴隷大市場は閉鎖された。 「この世の悪弊」を根絶させる処置をイギリス政府にとらせるよう世論に強く働きかけたのは、リビングストンの影響力---その著作の威力、人格の力、そしてその悲劇的な死---であった。 シーレ河のほとりでひどく悲劇的な失敗をみた伝道所は、その後再建されて、ニアサランドとして知られ、彼の死後一世紀足らずのうちに、彼が初めて入った、森や沼地や砂漠の広大な地域のあちこちらに、教会や大聖堂や、アフリカ人の牧師とその信徒たちが広まっていった。 目的への執念、逆境における勇気、精神の謙虚さ、そして同僚への変わらぬ愛情は、どんなに残酷で貪欲で、醜悪な現実を前にしようとも、決してシニシズムや絶望に変わることはなかった。 リビングストンの伝記は、40数年前には、小学校の教科書で採用されていたという。 きっと少年少女にこのような文章を読ませて、冒険、探検心を養いたかったのであろうと思われる。 イギリスのアフリカ探検家バートンとスピークスを描いた映画「野望のナイル」に、このリビングストン博士も登場し、ライオンに押し倒されて意識が薄らいでいきながら、骨をバリバリと咬まれた話をしていたので、興味のある人はビデオ又はテレビで放映されたときに御覧戴きたい。 この祈りと文章は、中村正三氏から提供していただいたものをアレンジしたものです。 氏の活動に主の祝福がありますように。(会田夏彦) |