ローマ人への手紙12章3−8節

「異なる賜物に応じて」



 ローマ人への手紙は、前半、すなわち1−11章までが教理的な部分であ
り、12章から倫理的な部分である、と言いました。
パウロは、この倫理的な部分のまず最初に、

  神のあわれみによってあなたがたに勧める。

と言って、勧めをなしていますが、注意したいのは、これは戒律といったも
のではなく、大切なのは、「神のあわれみ」がまず私達に与えられている、
ということです。
その神の憐れみに応えて、私達の行為が自然に出て来るのです。
今日の3節からは、具体的な勧めがなされますが、その場合も、まず、

  自分に与えられた恵みによって、

と言っています。
 私達がキリスト者としてどう生きていったらいいかということ、キリスト
教倫理とか、キリスト者の実践と言われることは、もちろん重要なことです
が、これが神の憐れみや神の恵みから切り離されて論じられるなら、それは
律法主義に陥ってしまいます。
いくら立派な行いをしたとしても、それが神の憐れみや神の恵みから切り離
されているなら、それはひいては自分の力を誇示するものとなるのです。
そこでパウロは、この勧めの部分でまず最初に言っているのは、「思い上
がってはならない」ということです。
3節。

  わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに
  言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に
  分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。

この「思い上がりの罪」については、聖書は一番最初から問題にしているこ
とです。
ということは、人間は、いかに思い上がることが多いか、ということではな
いでしょうか。
聖書の記者が人間の創造の所で、人間が土の塵から造られたと述べるのは、
人間とはいかにちっぱけではかないものであるか、ということを言っていま
す。
しかしその人間は、禁断の木の実を食べることによって神のようになりた
い、という誘惑に陥ったというのです。
それがエデンの園の物語りです。
そして神に「食べるな」と命じられていた木の実を食べてしまったのです。
そしてこれが、人間の最初の罪となった訳です。
人間の罪の根源はここにある、と言ってもいいと思います。
土の塵で造られたちっぽけな人間が、神のようになりたい、否神を凌ぎた
い、という思い上がりです。
このことをバベルの塔の物語でも問題にされています。
 パウロは、先程の所で「思うべき限度を越えて」と言っています。
この「思うべき限度」というのは、一体何でしょうか。
それはまず第一に、私達人間が神の被造物である、ということです。
そして、私達は、創造者なる神から実に多くの恵みが与えられている、とい
うことです。
私達には、色々優秀なこと、誇るべきものが与えられていますが、これは神
からの賜物であって、自分自身の力によるものではない、ということです。
これが「思うべき限度」ということです。
4−5節。

  なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみ
  な同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリスト
  にあって一つのからだであり、また各自は互いに肢体だからである。

これは、教会というものを言っています。
パウロは、「教会はキリストの体である」と言っています。
教会を表すのに「体」という言葉が最もふさわしいとして、キリスト教の歴
史においてもこの言葉が非常にしばしば使われてきました。
私達の日本基督教団の信仰告白においても、「教会はキリストの体にして、
恵みにより召されたる者の集いなり」と言われています。
体は、実にさまざまな部分から成っていますが、それは統一のとれた有機体
です。
ここでは「肢体」と言われていますが、それは手や足だけではなく、体を構
成しているすべての部分が意味されています。
そしてそれぞれの部分は、ばらばらではなく、整然とした秩序があります。
それは中心部分(中枢)としっかり結びついているからです。
それと同じように、教会も実にさまざまな信徒から成っていますが、中枢で
あるキリストにしっかりと結びついていることにおいて、統一があります。
教会において重要なことは、キリストにしっかりと結びついている、という
ことです。
 先日の起工式の時にも、私達は聖書を埋めましたが、それは私達の教会の
真の土台はキリストの御言だ、ということを言い表す象徴的な行為なので
す。
マタイによる福音書16章18節の所で、イエスは、

  そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。

と言いました。
この岩とはカトリック教会では、ペテロのことである、と解釈され、そのす
ぐ後の「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう」とあるのを、ペテロ個
人に天国の鍵が授けられたとして、代々のローマ法王がそれを継承している
とされています。
しかし、プロテスタント教会では、その「岩」とは、ペテロ個人ではなく、
すぐ前の所でペテロのなした信仰告白、すなわち、「あなたこそ、生ける神
の子キリストです」という告白だ、と理解されています。
そしてこの信仰告白の土台の上に教会が建てられるのです。
私達の教会の真の土台は、ペテロの後継者である法王ではなく、キリストで
あり、キリストの御言です。
したがって、私達の堅固な土台は、聖書です。
教会は、このキリストに常にしっかりと結びついていなければ、真の教会と
は言えません。
6節。

  このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった
  賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じ
  て預言をし、

さてパウロはここで、私達にはそれぞれ異なった賜物が与えられている、と
いうことを言っています。
この「賜物」は、カリスマという言葉です。
カリスマというと、特に能力のある特別な人のような思いがありますが、実
はこれはすべての人に与えられているものです。
ただし、そのカリスマは、皆同じではなく、それぞれに違ったものが与えら
れているのです。
そしてそれには、優劣の差はないのです。
ここに挙げられている預言だとか奉仕だとか教え、勧め、寄付、指導、慈善
といったものは、当時の教会での働きでした。
そしてそれらは、それぞれに与えられた賜物に応じてなされていたもので、
優劣はありませんでした。
初期の教会は、使徒行伝の2章などにも記されていますが、一種の信仰共同
体を形成していました。
そこで、ここにあるような寄付する者とか、慈善をする者といった人達がい
たのです。
大切なのは、その賜物は、神の恵みによって与えられたものであるから、神
の為に用いるということです。
せっかくもらったものでも、隠しておいて使わなければ何にもなりません。
 ここで思い出すのは、イエスのされた「タラントの譬」です。
これはマタイによる福音書25章14−30節に記されています。
ある人が旅に出る時に、その僕どもを呼んで、それぞれに5タラント、2タ
ラント、1タラントを預けた、というのです。
そして、5タラントを預かった者は、それを活用してほかに5タラントをも
うけました。
また、2タラント預かった者も、ほかに2タラントをもうけました。
しかし、1タラントを預かった人は、それを土の中に隠しておいた、という
のです。
なぜ、1タラントの人は、せっかく預けられたタラントを土の中に隠してお
いたのでしょうか。
このタラントというのは、英語のtalentの語源にもなっていますが、神から
与えられた能力を意味します。
この1タラント預けられた人は、5タラントの人や2タラントの人と比較し
て、自分に与えられた能力を十分に評価できなかったのではないか、と思わ
れます。
そして働く意欲も失ってしまったのでした。
しかし、この1タラントというのは、何もできないほどの低い額かという
と、決してそうではありません。
これはギリシアの貨幣の単位で、相当高額なものです。
1日の賃金を表したのがデナリですが、タラントはこのデナリの6千倍に相
当した、と言います。
従って、1タラントというのは、6千日分(16年分)の賃金の値だという
ことになりますから、相当な高額です。
この人は、神から与えられた大きな賜物に目をとめずに、他の人と比較し
て、自分に与えられた賜物の値打を見失ってしまったのです。
他と比較する時に、神から与えられた賜物の値打を正しく評価できなくなる
のです。
そもそも、この譬で、5タラント、2タラント、1タラントというのは、能
力の差ではなく、賜物の違いなのです。
それぞれには、違った賜物が与えられている、ということなのです。
ですから、それぞれには、それぞれに与えられた賜物の用い方があるのであ
って、それを隠して使わない、というのは、むしろ傲慢なのです。
何も賜物は与えられていない、すなわち土の中に隠しておくしかない、とい
う人はいないのです。
もう天に召された人ですが、難病にかかって、家で療養されていました。
私がお見舞いに行った時、その婦人は、「私は病気で教会にも行けず、教会
のためには何もできませんが、家でいつも教会のために祈っています」とお
っしゃいました。
とても勇気づけられました。
その時、私は、この人は、神様から素晴らしい賜物が与えられている、と思
いました。
賜物というのは、決して量ではありません。
表面的なものではありません。
まして、他の人の賜物と比較することからは、何ら積極的意味は出てきませ
ん。
他と比較することからは、一方では優越感や思い上がりになったり、また逆
に劣等感や無気力になってしまいます。
そうではなく、私達はすべて、神様からそれぞれ違った、素晴らしい賜物が
与えられている、ということに目を留め、それを神のために喜びをもって用
いていく者でありたいと思います。

(1993年2月28日)