「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
しかし、キリスト教の歴史の中でこの愛敵の思想は必ずしもその理想通りに実践されてきたわけではありませんでした。むしろ、愛敵の教えを持ちながらも、敵を徹底的にやっつけようとするキリスト教は偽善のかたまりではないかとさえ考えられるのです。具体的な例は挙げれば切りがありません。イスラム教徒打倒のためになされた十字軍や、教会同士が戦った様々な宗教戦争、また、キリスト教宣教の名目でなされた過酷な植民地政策などはその一例に過ぎません。敵を愛するなどと言っておきながら、それとはかけ離れたようなことをしてきたわけです。
「敵を愛しなさい」という言葉は実に力強い響きを持っています。しかし、実際それがどれほど難しいかということは他人の例を出さなくても、私たちは自分自身を顧みるだけで十分に理解することができます。この「敵を愛しなさい」という言葉を受けとめるのは、それだけに歴史的には様々な解釈がされてきました。聖書には入れられませんでしたが初期の教会の文書として『クレメンスの第二の手紙』というのがあります。そこでは、敵を愛さない者はキリスト者ではなく、神の裁きに置かれると語られました。また、同じ様な時代の人であるオリゲネスという人は少し解釈を和らげて、敵を憎まないという隣人愛で十分であると考えました。また、キリスト教に対する間接的な批判として、中国の革命家、毛沢東は敵を愛することはできない、社会の悪としての敵は滅ぼさなければならないと語りました。隣人愛は悪との戦いを弱めてしまう危険なものと考えたのでした。心理学者のフロイトという人は、人間は皆攻撃性を持っていると語ります。しかし、敵を愛さなければならないという戒めのために自分の攻撃性を表に出さずに、罪の意識として持ちつづけることによって、その人は結果的に精神的な障害を引き起こすという分析をしました。
以上のような例を少し知るだけで、この「敵を愛する」という言葉を受けとめることは一筋縄にはいかないということがおわかりになったと思います。しかし、それにもかかわらず、「敵を愛しなさい」というイエスの教えは聖書が語る愛の非常に本質的な部分を示しています。それは単純に「人類は皆兄弟」と考えることとは違います。そのことを今日、与えられた聖書を通じて考えていきたいと思います。
ルカによる福音書一〇章二五節以下には有名は「よきサマリア人のたとえ」がありますが、ここでも「わたしの隣人とはだれか」ということを問い直させています。私たちはいつの間にか自分の都合に合わせて「隣人」を考えています。だから、私たちは「隣人とはだれか」と改めて問い直す必要がありますし、同時に「私の敵とはだれか」と考えることもできるでしょう。敵というとすぐに具体的な人の顔が浮かんだ人がいるかもしれませんし、私には敵はないと思った人もいるでしょう。いずれにしても、私たちは隣人や敵、敵を愛すると言う時に個人的な好き嫌いの感情のレベルで考えています。隣人愛を実践することは、できるだけ好きな人を増やしていくこと、隣人の範囲を拡張していくことになります。隣人愛も敵を愛することも個人の倫理的問題として処理しようとしてしまいます。そうなると敵を愛するということも個人の問題ですから、キリスト者としては隣人愛を説きながら敵国と戦争するということも可能になります。もちろん、イエスは個人の内面の問題として敵を愛することを語ったのではなく、それは具体的な行為と結び付いていました。ですから、イエスの愛敵の教えは単純な意味での無抵抗主義ではありませんし、この世の悪に背を向けることでもありません。敵を愛することを教えるイエスが、マタイによる福音書の二三章で律法学者やファリサイ派の人々を痛烈に批判していることは決して矛盾することではありません。
私たちは聖書が語る隣人愛や敵をも愛する愛を、私たちの内なる宗教心の中に押し込めてしまってはいけません。私たちがいくら信仰深く隣人に接しようと心掛けても、私たちの前から一切の敵が消えてしまうことはないでしょう。また、私たちはすぐに恨みや憎しみを抱いてしまう存在です。それにもかかわらず、「敵を愛しなさい」、「天の父のように完全な者になりなさい」と語られるのは、無理な注文の押し付けでしょうか。むしろ、それは私たちとっては大きな慰めの言葉です。私たちの不完全さや破れをまるごと呑み込んでしまうほどに神の愛が激しく、大きなことの証しだからです。だから、「敵を愛しなさい」と語られる時、私たちは自分自身の内側にこもってしまうのではなく、隣人や敵という境界線を打ち壊すような神の愛の大きさに目を向けなければなりません。すべては、そこから始まります。
私たちは隣人を少しずつ獲得して境界線を拡張し、敵をだんだん少なくしていくことにより愛敵の教えを実践するのではありません。それならば、昔の植民地政策と変わるところはありませんし、私たちには決して追い詰めることのできない敵もあります。私たちは老いや病、そして死の前では無力に近い存在です。コリントの信徒への手紙一の一五章二五節では死は「最後の敵」として記されています。しかし、その最後の敵さえもキリストによって滅ぼされたと聖書は語ります。そのキリストにつながっている私たちであるからこそ、この世において神の愛の実践者とならなければなりません。そして、敵を愛するということは、この世の悪に対して鈍感になることではなく、かえって、不正を見抜き、神の正義を訴える勇気を求めているのです。イエスによって語られる神の国の近さ、神の愛の激しさの中に私たちは安らぎを覚えます。「敵を愛する」とはその安らぎを根底に与えられながら、この世へと、自分の外側へと送り出される派遣の言葉なのです。
(一九九三年七月一八日、札幌北光教会、小原克博)