敵を愛しなさい


マタイによる福音書 5:43―48

 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」


愛敵の思想

 教会では愛するということの大切さが繰り返し語られます。キリスト教は愛の宗教だという言い方もされてきました。しかし、愛と一口に言うだけでは、世間で使われるような男女の愛や兄弟愛などとどのように違うのかはっきりしません。そこで、キリスト教の愛を代表するものとして語られてきたのが「敵を愛する」愛ということでした。この世においても、愛の大切さを強調します。しかし、それはただ自分の利害関係の中で愛しているだけであって、キリスト教の愛はそれを越えて、敵をも愛する愛なのだという用いられ方がされてきました。キリスト教を他の宗教や思想と区別するものは、まさにこの「敵をも愛する」愛であったわけです。そういうわけで、教会の歴史の中でもこれは「愛敵」の思想として中心的な役割を果たしてきました。愛敵の教えは今日の聖書箇所以外では、特にルカによる福音書六章二七節以下ではそれが具体的に述べられています。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」と語られます。

 しかし、キリスト教の歴史の中でこの愛敵の思想は必ずしもその理想通りに実践されてきたわけではありませんでした。むしろ、愛敵の教えを持ちながらも、敵を徹底的にやっつけようとするキリスト教は偽善のかたまりではないかとさえ考えられるのです。具体的な例は挙げれば切りがありません。イスラム教徒打倒のためになされた十字軍や、教会同士が戦った様々な宗教戦争、また、キリスト教宣教の名目でなされた過酷な植民地政策などはその一例に過ぎません。敵を愛するなどと言っておきながら、それとはかけ離れたようなことをしてきたわけです。

 「敵を愛しなさい」という言葉は実に力強い響きを持っています。しかし、実際それがどれほど難しいかということは他人の例を出さなくても、私たちは自分自身を顧みるだけで十分に理解することができます。この「敵を愛しなさい」という言葉を受けとめるのは、それだけに歴史的には様々な解釈がされてきました。聖書には入れられませんでしたが初期の教会の文書として『クレメンスの第二の手紙』というのがあります。そこでは、敵を愛さない者はキリスト者ではなく、神の裁きに置かれると語られました。また、同じ様な時代の人であるオリゲネスという人は少し解釈を和らげて、敵を憎まないという隣人愛で十分であると考えました。また、キリスト教に対する間接的な批判として、中国の革命家、毛沢東は敵を愛することはできない、社会の悪としての敵は滅ぼさなければならないと語りました。隣人愛は悪との戦いを弱めてしまう危険なものと考えたのでした。心理学者のフロイトという人は、人間は皆攻撃性を持っていると語ります。しかし、敵を愛さなければならないという戒めのために自分の攻撃性を表に出さずに、罪の意識として持ちつづけることによって、その人は結果的に精神的な障害を引き起こすという分析をしました。

 以上のような例を少し知るだけで、この「敵を愛する」という言葉を受けとめることは一筋縄にはいかないということがおわかりになったと思います。しかし、それにもかかわらず、「敵を愛しなさい」というイエスの教えは聖書が語る愛の非常に本質的な部分を示しています。それは単純に「人類は皆兄弟」と考えることとは違います。そのことを今日、与えられた聖書を通じて考えていきたいと思います。

私の隣人と私の敵

 まず最初に、今日の聖書箇所は五章から七章までの山上の説教の一部であることに注意して下さい。そして、五章の二一節から今日の箇所までは、非常に構造の似た文章が続いています。「あなたがたも聞いているとおり」と言って、今まで当然のこととして守られてきたことを語り、「しかし、わたしは言っておく」と言って、それを否定あるいは徹底するような言葉を語っています。一言で言うと、命題を出しておいてそれに対する反対命題または徹底命題を打ち出しているということになります。今日の箇所では四三節が命題になり、四四節が反対命題になります。四三節にある「隣人を愛し、敵を憎め」というのは聖書からの引用のようになっています。前半の「隣人を愛しなさい」というのはレビ記一九章一八節にあるのですが、後半の「敵を憎め」というのは聖書にはありません。ここでイエスはユダヤ人に対して語っていますが、ユダヤ人にとって「隣人」とは自分たちの仲間のことであり、「敵」とはユダヤ人以外の異邦人のことを意味していました。つまり、隣人という言葉を自分たちの民族だけに限定して考えることによって、隣人を愛すれば愛するほど自然にそれ以外の者を敵として憎むということになるのです。ですから、隣人愛を厳格に守ろうとすることと、敵を憎むということは実際にはほとんど同じような意味を持つことになります。イエスはまさに、このように隣人という言葉を都合の良いように解釈することに対して批判をしているのです。

 ルカによる福音書一〇章二五節以下には有名は「よきサマリア人のたとえ」がありますが、ここでも「わたしの隣人とはだれか」ということを問い直させています。私たちはいつの間にか自分の都合に合わせて「隣人」を考えています。だから、私たちは「隣人とはだれか」と改めて問い直す必要がありますし、同時に「私の敵とはだれか」と考えることもできるでしょう。敵というとすぐに具体的な人の顔が浮かんだ人がいるかもしれませんし、私には敵はないと思った人もいるでしょう。いずれにしても、私たちは隣人や敵、敵を愛すると言う時に個人的な好き嫌いの感情のレベルで考えています。隣人愛を実践することは、できるだけ好きな人を増やしていくこと、隣人の範囲を拡張していくことになります。隣人愛も敵を愛することも個人の倫理的問題として処理しようとしてしまいます。そうなると敵を愛するということも個人の問題ですから、キリスト者としては隣人愛を説きながら敵国と戦争するということも可能になります。もちろん、イエスは個人の内面の問題として敵を愛することを語ったのではなく、それは具体的な行為と結び付いていました。ですから、イエスの愛敵の教えは単純な意味での無抵抗主義ではありませんし、この世の悪に背を向けることでもありません。敵を愛することを教えるイエスが、マタイによる福音書の二三章で律法学者やファリサイ派の人々を痛烈に批判していることは決して矛盾することではありません。

キリストの愛の過激さ

 そもそも、敵・味方関係なく愛することの大切さを説くのは何もキリスト教の専売特許ではありません。仏教の法話の中にもそのような話はあります。イエスの時代においてはギリシア思想が非常に影響力を持っていましたが、そこにおいても人類を普遍的な愛で愛することの必要性は説かれていました。すべての人間は等しく宇宙、コスモスの一部であるから、そこでは敵も味方もないと考えられたのでした。こういう考え方はわかりやすい感じがします。しかし、イエスの愛敵の教えは「人類皆兄弟」的な世界の秩序に基づいて出てきたのでしょうか。そうではありません。イエスが「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というその過激な要求、愛の過激さは神の愛の過激さに対応しています。今、圧倒的な力を持って神の国が近づいていることが五章から七章の山上の説教全体を貫いています。それは今日の聖書箇所では四五節においてはっきりとしています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。神の国が近づき、神の圧倒的な愛の前では善人だとか悪人だとかいう区別はほとんど意味をなさなくなります。善悪だとか敵・味方にこだわるのではなく、大切なのは神の国の到来に応えることです。四八節で「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と語られているのことも、そのような文脈の中で理解されなければなりません。天の父のように完全な者となることは、宗教的なエリートにのみ求められているのではなく、それは神を信じる者すべてへの呼び掛けです。

 私たちは聖書が語る隣人愛や敵をも愛する愛を、私たちの内なる宗教心の中に押し込めてしまってはいけません。私たちがいくら信仰深く隣人に接しようと心掛けても、私たちの前から一切の敵が消えてしまうことはないでしょう。また、私たちはすぐに恨みや憎しみを抱いてしまう存在です。それにもかかわらず、「敵を愛しなさい」、「天の父のように完全な者になりなさい」と語られるのは、無理な注文の押し付けでしょうか。むしろ、それは私たちとっては大きな慰めの言葉です。私たちの不完全さや破れをまるごと呑み込んでしまうほどに神の愛が激しく、大きなことの証しだからです。だから、「敵を愛しなさい」と語られる時、私たちは自分自身の内側にこもってしまうのではなく、隣人や敵という境界線を打ち壊すような神の愛の大きさに目を向けなければなりません。すべては、そこから始まります。

 私たちは隣人を少しずつ獲得して境界線を拡張し、敵をだんだん少なくしていくことにより愛敵の教えを実践するのではありません。それならば、昔の植民地政策と変わるところはありませんし、私たちには決して追い詰めることのできない敵もあります。私たちは老いや病、そして死の前では無力に近い存在です。コリントの信徒への手紙一の一五章二五節では死は「最後の敵」として記されています。しかし、その最後の敵さえもキリストによって滅ぼされたと聖書は語ります。そのキリストにつながっている私たちであるからこそ、この世において神の愛の実践者とならなければなりません。そして、敵を愛するということは、この世の悪に対して鈍感になることではなく、かえって、不正を見抜き、神の正義を訴える勇気を求めているのです。イエスによって語られる神の国の近さ、神の愛の激しさの中に私たちは安らぎを覚えます。「敵を愛する」とはその安らぎを根底に与えられながら、この世へと、自分の外側へと送り出される派遣の言葉なのです。

(一九九三年七月一八日、札幌北光教会、小原克博)