35、ルカによる福音書11章1−4節

  「主の祈」



 1節。

  また、イエスはあるところで祈っておられたが、それが終わったとき、
  弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように
  、私達にも祈ることを教えてください」。

イエスはここで、いわゆる「主の祈」を教えられたのです。
「主の祈」は、聖書のみ言葉の中でも最も重要なものです。
私達の教会でも、礼拝毎にこれが唱えられています。
聖書のみ言葉の中でも、礼拝毎に言われているのは、「主の祈」だけです。
 さて、「主の祈」は、このルカによる福音書のテキストの他に、マタイに
よる福音書6章9−13節にも伝えられています。
マタイのテキストとルカのテキストを比べると、ルカの方が少し短く簡単に
なっています。
そこで、学者によっては、ルカのテキストの方が古く、従って、イエスが弟
子たちに教えたのは、元々ルカのテキストの方であろう、と言う人もいます
が、それは実際には分かりません。
しかし、教会の礼拝で用いられているのは、マタイのテキストの方に、「国
と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」を加えたものです。
 この「主の祈」が、いつ頃から教会の礼拝で用いられるようになったか、
正確な事は分かりませんが、紀元2世紀の中頃に出来たと言われている「十
二使徒の教え」(最初の語を取ってδιδαχηと言われている)には、これ
を唱えなければならない、と言われていますので、相当古くから、2世紀の初め
の頃から言われていたのではないか、と思われます。
 さて、今日の所で、まず「イエスが祈っておられた」とあります。
イエスは、実によく祈られました。
そして祈りというものを非常に大切にされました。
弟子たちは、イエスがしばしば熱心に祈っておられるのを見て、祈ることの
大切さを感じたと思います。
そこで、自分たちにも「祈ることを教えてください」と頼んだのです。
ただここで、「ヨハネがその弟子たちに教えたように」と言っています。
ヨハネというのは、イエスにバプテスマを授けたヨハネです。
ヨハネにも大勢の弟子たちがいて、イエスと同じような集団を形成していた
ようです。
ただ、ヨハネが弟子たちにどのような祈りを教えていたかは分かりません。
あるいは、イエスの教えたこの「主の祈」と似ていたかも知れません。
イエスの「主の祈」も、イエスに独自のもの、というよりは、当時のユダヤ
教の祈りにもこれと似たものがあったようです。
 2節。

  そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御
  名があがめられますように。御国がきますように。

まず、「父よ」という呼びかけがあります。
マタイの方のテキストでは、「天にまします我らの父よ」と少し長くなって
います。
祈りというのは、独り言ではありません。
それは、神さまとの対話です。
ですから、対話の相手である神様にまず呼びかけるのです。
そして「父よ」というのは、非常に親しい、親密な間柄の呼びかけです。
神は、どこか遠くにあって、非常にいかめしい存在というのでなく、すぐ近
くで父として存在するお方なのです。
そしてこれは、非常に信頼する方への呼びかけです。
この私を受け入れ、この私の願いを聞き入れて下さる、そういった信頼をも
って呼びかけるのです。
私達も、祈りをする場合、そういう信頼をもってなすべきであります。
 さて、次に願いが来ます。
これは前半が神についての祈り、後半が自分についての祈りになっていま
す。
前半の神についての祈りは、ここには二つしかありませんが、マタイのテキ
ストには三つあります。
み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ、という祈りが、ルカには欠け
ていますが、マタイのテキスト(すなわち私達の唱えている「主の祈」)に
はあります。
そして、このまず神について祈る、ということは、主の祈の特徴ではないで
しょうか。
特に私達日本人にとって、神に祈るという場合、大体は自分の願い事を祈る
のではないでしょうか。
神社やお寺に言って手を合わせて祈る人も多いと思いますが、その祈りは大
体商売が繁盛するようにとか、仕事に成功するようにとか、受験に合格する
ようにとか、家族の者が病気にならず、家内安全であるようにとか、交通事
故にならないようにとか、色々な災難に遭わないように、といったすべて自
分の願い事を祈るのです。
そこの神社の神の栄光をたたえるというようなことはしません。
そういう意味では、日本人の祈りは、はなはだ自己中心的です。
聖書の神は、生ける人格の神であり、私達の真の支配者であるので、まずそ
の神がたたえられることを祈るのです。
 まず、「御名があがめられますように」という祈りです。
私達も、名は体を表す、と言いますが、古代イスラエルの人にとって、名
は、そのものの本質を表しました。
モーセは、シナイ山で神に出会ったとき、まず神の名を尋ねました。
モーセにとって、自分をエジプトに遣わす神が、ただ一般名詞で「神様」と
呼べればそれでいい、というのでなく、その神はどういうお方か、その神の
本質は何かを知りたかったのです。
そこで、名を尋ねたのです。
すると神は、「私は有って有る者」と答えられました。
これは非常に謎めいた名前で、古来これは一体何を意味するのだろうか、と
色々言われてきました。
これは単に存在するというのでなく、私達人間に働きかけ、導き給う神とい
うことのようです。
そういう生きて私達に働きかけるという本質をもった神をほめたたえるとい
うことから始めなければならない、ということをイエスはまず私達に教えて
おられるのです。
私達の行動の最初にこのような神をほめたたえることから始めるのが、本当
の有りからなのです。
ですから、私達は一週間を始めるとき、まず神礼拝から始めるのです。
まず神礼拝から始めるということが、私達の祈りです。
 次の祈りは、「御国が来ますように」というものです。
これは、神の支配ということです。
イエスは、公生涯を始めるに当たって、「時は満ちた。神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信ぜよ」と言いました。
イエスは、神の国の到来を告げるためにやって来たのです。
そして告げるだけでなく、ご自分の言葉と行動において、真の神の支配を実
現されました。
しかしそれは、この世的権力による支配ではありません。
神の国は、神の支配に全く服従する所から実現します。
イエスは、神の国が近づいたので、悔い改めるように言っています。
すなわち、神の国の実現には、悔い改めが必要なのです。
悔い改めとは、「神に立ち帰る」ということです。
今まで、神の支配に服することなく、神の意志に逆らって生きて来た者が、
真の支配者である神に立ち帰り、神の意志に従って歩もうとすることです。
もし私達が、イエス・キリストの救いの業を信じて、神に従うなら、そこに
神の国は実現されるのです。
ルカによる福音書17章20−21節。(P.119)

  神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言
  われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ
  、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあ
  なたがたのただ中にあるのだ」。

ここで、「神の国は、私達のただ中にある」と言われています。
これは私達がイエス・キリストの救いの業を心より信じ、神に従うなら、神
の国は私達のただ中に実現する、ということです。
必ずしも遠い将来にやって来る、神の国を待っている、というのではありま
せん。
 さて、主の祈の後半は、私達の願いです。
3−4節。

  わたしたちの日ごとの食物を、日々お与え下さい。わたしたちに負債の
  ある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わ
  たしたちを試みに会わせないでください。

イエスは、私達の生活に必要なものを神に求めることを許されるのです。
また、私達が悩み事をもった場合、それを神に訴えることも許されます。
 まず第一は、「日ごとの食物を与えたまえ」ということです。
そしてこれは、食物だけでなく、私達の生活に必要な物も含まれている、と
解することが出来ると思います。
イエスは、荒野での誘惑の時に、サタンに対して、「人はパンだけで生きる
のではない」と言いましたが、しかし決してパンは必要がない、パンなどを
求めるのは、下世話なことだ、と言っているのではありません。
信仰さえあれば、生活上のことはどうでもいいのだ、というのではありませ
ん。
例え、カスミを食ってでも、信仰を堅くするのが大切だ、とは言っていませ
ん。
否、このようなものを私達が必要なことは、神の方が知っておられ、その時
々に必要なものを与えてくださる、と言っています。
従って、そのようなものを求めることは、決して不信仰なことではありませ
ん。
現にイエスも、イエスの話を聞くために集まった群衆のために、5つのパン
と2匹の魚でもって、皆の者が満腹するまで食べさせたのです。
イエスは、決して、霊の糧だけを求めるように、とは言いませんでした。
 ただ、ここで注意したいのは、「私の食物」でなく、「私達の食物」とあ
ります。
あとの二つの願いも「わたしたちの」とあります。
すなわち、「わたしたちの罪をおゆるし下さい」、「私達を試みに会わせな
いでください」です。
願いというと、ややもすると自分の願いごとしか考えない傾向にあります。
そこで祈りは、しばしば利己的なものになってしまいます。
私達の日本は、本当に物の豊かな国です。
「食物をお与えください」と真剣に祈らねばならない人は余りいないと思い
ます。
しかし、今日食べる物にも困っている国は、沢山あります。
「わたしたち」という場合、果たしてそのような人々のことを思っているで
しょうか。
特にアフリカのエチオピアやソマリヤなどは、旱魃や政情不安のため、極度
の食糧危機で、毎日何百人もの人が餓死している、ということです。
日本なんかでは、餓死ということは考えられないことです。
しかしそういう国もある、ということを思わなければなりません。
むしろ私達は、そういう人のことを祈らねばならないのではないでしょう
か。
 最後の祈りは、「試みに会わせないでください」というものです。
「主の祈」は、強い信仰の持主の祈りではなく、弱い者の祈りです。
強い者なら、あるいは祈る必要がないかも知れません。
弱いからこそ祈るのです。
ここでイエスが「試みに会わせないでください」という祈りを私達に教えら
れたことは、大いなる慰めです。
このような祈りを私達は、主から受けていることを感謝したいと思います。

(1992年9月27日)