聖 餐 ――礼拝に招かれている者たちは招かれている


日本基督教団 札幌北光教会牧師 岸本和世


1)主題を考えるにあたって、前提として述べておきたいこと

 私は、1988年第25回教団総会に次のような議案を提出した。「日本基督教団第25回総会は、宣教研究所が三年半に亘って研究し、その成果を編集して出版した『聖餐』(教団出版局)の内容を、今日の教会の宣教にとって最も重要な問題提起の一つとして真摯に受け止め、これを手掛かりとして、教団の諸機関・教区・各個教会等において、福音にふさわしい聖餐のあり方の検討を進めることを提案する。」

 この議案の提案理由として大要次のように述べている。上記文書において「聖餐」についていかに多様な受け止め方があるかが示されている。その一つ一つは、神学的・歴史的・教会論的にそれぞれ根拠と理由を持っており、どれが正しい聖餐のあり方かを断定することはむずかしい。にも拘わらず、ある一つのあり方だけが教団としての正式のものであって、他のあり方は誤りである、とするのが常識となっているようだ。この際、いろいろな立場があることを認め、多様な「聖餐」理解を聖書を通して検討し、福音にふさわしい「聖餐」の守り方を明確にすることを目指すべきだ、と。

 この議案は、常議員会付託となり、第26回総会期第1回常議員会は「各教区に検討を依頼することを承認」(この文言は、教団事務局からファクスで送られて来たものだが、少々意味が明確でないように感じられる)した。

 このように「承認」された上記議案に基づくならば、「聖餐」のあり方について教団内に活発な議論が展開されても良いし、ある一つのあり方だけを絶対化するような言辞は避けるべきではないのだろうか。

2)にも拘わらず、多くの人が恐れていること

 にも拘わらず、多くの人が「教団には教憲・教規というものがある。それに基づくならば、現在教団に属する教会が採る聖餐のあり方についての立場は明らかだ。聖餐に陪し得る者は教規第135条、第136条、第138条に明確に規定されている。それを冒す者や教会は教規違反をしている」という指摘を、そのとおりであると考えるか、そのように指弾されることを恐れているか、そうであっても自らの信仰的立場や福音理解からあえて“教規違反”と言われるのを承知の上での聖餐式を公然とあるいは密かにと思われる仕方で執行している、というのが現状ではないだろうか。

 そうであっては、今日の教会が直面している問題点が少しも解決しないし、展開がなされ得ない、と思ったから、1)のような提案をしたのだし、そのことに立たなければ、これから論じようとすることは、またもやあの“指弾”を受ける対象になるだけの不毛な営みとなってしまうだろうことを懸念する。

もし、幸いにもそういう事態が起こらないとしたら、私たちにはすでに聖餐のあり方について多くのしっかりした書物や論文(1)が提供されているので、それをきっちりと学んでもらえば良いわけで、私があえてそれにさらに一つを加える必要はないとすら思っている。ただそれでは、与えられた論議と対話のチャンスを生かすことにならないので、対話の手掛かりの一つとして述べてみよう。どうか拒否反応を起こさないで、一緒に考えてくださるように。

3) 何から始めるかは問題ではない。ただ徹底的に考え、聞き、変えるべきことには誠実でありたい(R.ニーバー異読)

 私たちに与えられている課題と取り組むためのキーワードあるいは“論”には、“教会”“福音”“説教”“想起”“救い”“信仰”“洗礼”“知恵遅れの人(知的「障害者」)”“礼拝”“信徒、求道者”“陪餐、未陪餐”“幼児洗礼、堅信礼”などが挙げられる。私は実際的な状況から始めてみようと思う。それは“礼拝”である。

 異教社会と言われる日本における教会は、いつも“開かれた教会”であり続ける。つまり、礼拝がバプテスマを領している信徒だけにではなく、いわゆる“求道者”といわれる人々にも開かれ、後者を同じ席に着かせて礼拝を守っているのが現実である。このような状況は日本だけの特異な現象ではないが、この現実をどのように教会として位置づけるかが、結局のところ日本の教会、ひいては「宣教の委託を受けている」全世界の教会にとって、計り知れない貢献をすると思う。

 これは、いわゆる“キリスト教世界”といわれる地域の教会では、あまり意識的な問題とはならないであろう。しかし、原始教会において既にこのような状況があったことに注目したい。第1コリント14章23節以下がまず指摘される。そこには「信者でない人」「教会に来て間もない人」が出て来る。新約聖書釈義辞典(英語版)では、前者はノンクリスチャンを、後者は同じ意味かある種の改宗者または十分な意味では会員でない(礼拝への)参加者を意味するという。そういう人たちが礼拝に出席していたのである。この個所は重要なことを示唆するので、後でまた触れることにする。

 さて問題は、このような人たちを教会はどのように考えて来たのだろうか、ということである。言い換えると、この“求道者”と私たちが呼んできている人たちは、“礼拝”という出来事と場─時と場所を含む意味での場─において、一体何者なのだろうか。彼/彼女らは信徒候補者なのか、礼拝の傍観(聴)者、あるいは、お客さんなのか。それとも信徒である出席者と同じく「礼拝する者」なのか。礼拝者とは神の御霊によって共なる礼拝の場に招かれ集められている者のことではないのか。彼/彼女らはそれとは違う何者かなのだろうか。(『宣教はこの人たちの理解を基準にはかられなければならない。それゆえ、「世」には理解できない秘密の言葉をつくり出した教会は、教会であることを止める』(2) )。それなら私たちは、彼/彼女らは何に基づいて礼拝の場にいると、考えているのか。単なる傍観(聴)者なら、その人たちを路傍の石ころのように無視して礼拝を守ればよい。私は、教会は決してそのような態度を取ることはしてこなかったと信じたい。

 でも、どんなに善意に取ろうと努力してみても、あの『聖なるものを犬に与えるな』(ディダケー9)の言葉で指し示されているのは、未信者以外ではありえない。私はここで、この言葉が差別であるとかないとかいうことを問題にしているのではない。未信者を礼拝の場でそのような位置づけでしか考えられないとしたら、あるいは、そのような位置づけで考えているとしたら、当然の帰結として、彼/彼女らは聖餐に与る資格はないと言い切って、それ以上論議をする必要はもはやないのである。もっと極端な言い方をしてみよう。それなら、なぜ石ころのような彼/彼女らを“聖なる”礼拝の場に置くのか。そうまで言わないとすると、どのような理由で彼/彼女らに、信仰者しかできないはずの讃美を歌わせ、神への感謝と献身のしるしとしての献金に与らせるのか。讃美も献金も“ご遠慮”いただくべきではないだろうか。そのような人が信仰の行為である礼拝の場に入って来ることを、教会の入り口で“ご遠慮”いただくほうがすっきりしているのではないか。まさかそんなことをする教会はないと信じたい。それならなぜ、礼拝の不可欠な出来事としての聖餐(3) にだけは与ることを“ご遠慮ください”と言うのか、言わなければならないのか。そう言うのなら、ある教会がしているように、礼拝が終わった後に聖餐式だけを切り離して行えばよい、という考えもあろう。しかしそれでは、聖餐が礼拝とは別のある種の密儀になってしまうだけである。(ここで幼児受洗者や知的「障害者」といわれる人々のことにも触れなければならないが、それは別項で扱うことにする。)

4) でも、“信仰”の告白がなされていないなら、聖餐に与ることは無意味であるだけでなく、それは主の教会の秩序を乱す(教会の生命線を崩す)結果になるのではないか

(A)神の招きが、礼拝/聖餐を意味あるものとする

 「でも」と言われる方に問いたい。それは、3)で考えようとしたことを、本当に考えた上での「でも」なのかということである。そうであるなら先に進める。

 「受洗者(のみ)の陪餐」を主張される方々は、“信仰”を問題にする。“信仰”がなければ、と繰り返し語られる。文脈によって多小ニュアンスが違うので、引用を使いたくないのだが、あえていくつかを拾ってみよう。『信仰をもって教会の教えを言い表した者が、教会の成員になり、また聖餐にも与るのです。つまり、差別の論理によってではなく、救いの論理によって、信仰を持った者が教会共同体の信仰を告白したがゆえに聖餐に与るのです』(4)『聖餐と説教とが、「しるし」と「事柄そのもの」という仕方で結び合って礼拝の中心をなしているということは、そこで目指されているのは、礼拝に集い、み言葉の説教を聞く会衆一人一人が、イエス・キリストの十字架による救いを深くわきまえて、自覚的な信仰を持って聖餐に与る、ということです』(5)『聖餐は確かに招きとしての性格を持つが、それはまさに主と共に生きる信仰への招きである。信仰の理解を伴わない食事は文字どおり、ただの食事(しかも形式的な飲み食い)への招きにすぎない』(6)

 「信仰を持つ」「自覚的な信仰」「信仰の理解」が聖餐に与るための決定的な条件である、と言っていると理解して誤りではないようだ。そこで考えたいのは、“信仰”とは何を意味しているのか、ということである。信仰とは救いに与るための条件なのか。『“信じる”“信仰”は、パウロによれば、キリストにおける神の救済行動の告知の受容である。したがって、信仰は常にみ言葉そのものから来る』『ガラテヤ3:23,25の「ピスティスの到来」は、事実上キリストにおいて来た信仰のあがないの道を指示する』 『救済の告知への人間の適切な応答として、信仰はキリスト者の実存を形成し、キリスト者の新しい生活の基礎である』『(ヘブライ書では)キリストが信仰の創始者、完成者である』(新約聖書釈義辞典「ピスティス」の項から。強調は筆者)。

 “私が信じる”は、福音との関わりにおいては不可欠な出来事であるのだが、福音それ自体は“信仰”に依存しない。福音の出来事はすべてに優先する。福音は、神のキリストにおける救いのよき知らせの受容とそれに対する信仰の応答(告白)へと、人々を招く。招かれた者がその招きに応えるか否かによって福音が福音そのものであったりなかったりするのではない。受容・応答としての信仰(告白)は、そのように応答する者に、聖霊の導きの中で、福音に基づく生活を形成させるのである。

 そうであるから、礼拝に招かれた者は当然聖餐にも招かれる。聖餐に招かれないのであれば、その人は礼拝にも招かれていないことになる。招くのは本来人でも教会でもない。神が、恵みの中で、聖霊によって招き給うのである。教会は、この恵み深い招きに信頼しつつ、礼拝に集う一人一人に、聖餐に与るよう招き、それと同時に信仰の告白へと招くのである。(信徒も、“求道者”と同じように、礼拝に招かれているのであって、その意味で、信徒も権利としてではなく、招きに応える者として礼拝に集い、招きに応える者として聖餐に与るのである。)

 ここで、第1コリント14章23節以下を取り上げてみよう。『教会全体が一緒に集まり』(23節)とは、“礼拝”にほかならない。そこに『教会に来て間もない人か信者でない人』もいるのである(23・4節)。『預言』とは“説教”である(7)。(『パウロの語る預言の実とは、..以前はなんの思いわずらいもなく健全な教えを軽蔑していた者が、神に栄光を帰せざるをえないようにされることである』(8)。『明るみに出され』(25節)。『この「明るみに出す」ことは、内なる部分を見、「人の心を見抜き」(ロマ8章27節)給う神の賜物である。回心は、厳密に言って、聖霊の働きである。』(9)。『教会の外の人は、いつでも信仰と、教会に与ることへと召されることが可能である』『まさにそれゆえに、パウロにとっては、外から教会に来る者、教会の周辺にしか席を持たない者、あるいは異教徒が、宣教全体をはかる唯一の尺度である』(10)。バレット(11)は、26節に基づいてこの集会を変則の「言葉の礼拝」と言われることがあるが、そのような見解を指示する証拠はないと言い、さらに、“洗礼を受けていない部外者さえ預言に導かれて神の現臨を告白するなら、この定式(第1コリント16章22節)によって晩餐への参加を妨げられることはなかった”と示唆している(12)

(B)聖餐が“意味を持つ”とはどういうことなのか

『サクラメントの理解にとって不可欠なことは、教会の洗礼と主の晩餐と種々のミニストリーにおける神の業は、信仰−聖霊によって育てられた賜物である信仰−の応答を求めるという事実である。…諸教会は、神のサクラメンタルな賜物と信仰者の信仰が互いにどう関連しているかについて、異なって理解し言い表している。しかしながら、すべての教会が、神の賜物はそのような応答を起こす方へと方向づけられていることに同意している』(13)

 “信仰”の持つ応答的位置づけについて、我々は同意できたのではないか。「だがしかし、そのような意味での信仰がなければ、聖餐に込められている出来事は意味あるもの(効力?)にならないはずだ」、という主張が、「招かれている」としても“ご遠慮”いただかなければならない(最後の?)一線として引かれるだろう。いわゆる「ふさわしさ」の問題である。ここで第1コリント11章27節以下を持ち出すのは“ふさわし”くない(14)。この個所が26節と密接な関係にあることは確かであるが、それはここでパウロが指し示している『食事』(22節、34節)が『ただの会食でなくて聖餐という特別な食事の意味』に関わるから(15)という問題なのではなく、端的に“愛による一致の欠如”、すなわち『その兄弟のためにもキリストが死んでくださった』(8章11節)ことが忘れられた食事であったからである(16)。(ここで残念なのは、カルヴァンがこの個所の注解を『この聖礼典に与ることによって、主は私たちに幸いを与えたもう。その幸いを忘れることがないように、と主は私たちに求めておられる。また、私たちが感謝し・口でそれを言い表すように、と望まれる』と始めながら、彼一流の興奮?をし始めて、文脈から外れてしまっている点である。その点で、綱要IV−17−42で「ふさわしさ」について述べていることに、私は深い意義を認めたい。)

 ここから、「ふさわしさ」−共にある者たちの愛による一致−が聖餐という場を「意味」あるものとするのであって、そこにある者たちの“資格”によるのではないことを確認したい。

 「でも、聖餐が何を意味するかを“わきまえないで飲み食いする”なら、それはキリストの十字架を空しいものにする」ことでしかない、と言われる。しかし、“を”(空しくする)と“が”(空しくなる)では意味がまったく違う。十字架は、誰かが空しくすることのできる出来事ではない。「わきまえない」ことによって、空しい出来事になるわけでもない。『聖餐は、豊かな、またさまざまな意味を持っている。各個人においても、またさまざまな教会の伝統においても、大きな幅を持った異なる見解がある。どのような記録文書も、聖餐についての考え方のあらゆる側面を完全に説明することはできなかった』(17)が、「神の救済の歴史」がまず第一にそこで指し示されるのである。受ける者の条件によって、このように指し示される出来事が生起したり消滅したりすることはない。

 パンと杯(ブドーの汁)という聖餐要素は、聖霊を呼び求める祈り(エピクレーシス)において、キリストの現臨を指し示すものとなる。そのようにして、聖餐はそれに与る者たちにキリストにおける神の和解の行為全体を想起させるのである。聖霊がそれを可能にする。

 「それならなおさらのこと、それをわきまえない者にとっては、聖餐に与らせても意味がないではないか」。そのとおりである。だが、「指し示し、想起させる」のは、聖霊であって、(もう一度言うが)招かれた者の“資格”ではない。ただ、招きを委託された教会が、この「指し示し、想起させる」務めに忠実であるか否かが問題となる。この務めは、「排除」することによってではなく、招き給う方の“言葉”を真実に語ることにおいてなされる。つまり、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」ことにおいてなされるのである。教会はその忠実な務めにおいて、『「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表す』ことが起こることを祈り求めるのである。聖餐に意味を見出すかどうかは、意味を見出さない者をあらかじめ教会が判別することによって起こるのではない。そうすることによっては、結局は(礼拝にも)招かれている者はなくなり、第1コリント14章25節の出来事もなく、ただ洗礼を受けている(告白をしている)者だけが、あの“石ころ”を気にしながら、自己満足的に密儀を行っていることになるのではないか。それはもはや宣教する教会の礼拝ではないであろう。

(C)“教会の秩序”とは、何を意味しているのか

 ここで、「そうだとしても、洗礼を受けているかどうかしか、意味を見出しているかどうかの基準とすべきものはないではないか」ということが、ある混同した考え方となって現れて来る。洗礼式が単にある団体への入会式ではないし、洗礼が単に会員の印でもないことは言うまでもない。それは神が召し給うたしるしであり、その召しへの招きに“応答”したしるしである。それは教会の信仰告白に「アーメン」と公に言い表すことである。福音共同体の一員と(され)なる出来事のしるしである。そのように告白した者は、忠実に礼拝に与り、み言葉の宣教に参加し、その共同体の交わりを重んじる(ヘブライ10章19節以下)。そのようにして、主の体である教会の部分として生きるのである。その共同体に「境界線」があるとすれば、それは聖餐にある(18)のではなく、福音宣教の委託に応答するか否かにある。

 洗礼は“救われる”ための必須の条件や手段ではない。はじめから終わりまで、あの“応答”のしるしである。それが礼拝を(だから、聖餐をも)まず意味づけるのではない。招きに従って礼拝に(そして聖餐に)与ることから、絶えず、繰り返し、新しい思いで“意味”を受け取るのである。洗礼は“意味”を創り出しはしない。“意味”に参与して生きる者を生み出す。“教会の秩序”ということが言われるとしたら、(私にはよくわからない意味の言葉なのだが)、それは少なくとも『聖餐の乱れという不祥事』という“誤解”に基づく事柄に関わる概念ではなく、洗礼を受けた者が主の体の部分として生きることをしていない事実に関わることであり、それを可能にすることのない礼拝のありように関わることなのではないだろうか。そうであるなら、洗礼を受けた者たちだけが集まっているから、その礼拝(そして聖餐)が秩序あるものである、ということにはならない。その逆に、洗礼を受けていない人たちも招かれていることが、礼拝(そして聖餐)を無秩序にすることにはならない。

 幼児洗礼に関しては、岸本羊一の『礼拝の神学』の中の『洗礼と堅信−今なぜこの問題か』と『宣教の教会と幼児洗礼』の中で十分に論じられており、それ以上に付け加えることはない。ただ、その116頁7行目以下は、“陪餐会員・未陪餐会員”に関する現行の教団教規の矛盾点の指摘として重要であることに注目したい。

 知的「障害者」のバプテスマについて、第22総会期第4回信仰職制委員会が答申を出している。(私も委員の一人としてそれに責任があるのだが)、この答申はきわめて大切な点を見落としている。それは、この答申が『知的「障害者」等へのバプテスマは可能か』ということにだけ目が行って、バプテスマが何を意味しているのかを、根本的に問題にすることをしなかった点である。この点に関しては、上記の『礼拝の神学』284頁注42を指摘すれば十分であろう。つまりこの答申では、「バプテスマは救いにとって必要不可欠である」という前提に立っている限りでの“工夫”が探られていたのであって、むしろ「不可欠ではないが、−幼児の場合と同じく−『その人が神によってこの新しい生の文脈に置かれていることを信じ、告白する教会の責任と決断において執行される』(19)」ことを妨げるものではないことを、明確にすべきであったと考えている。

(注)

1 『聖餐』(教団出版局)にある参考文献に加えて、岸本羊一『礼拝の神学』(教団出版局)、教団改革長老教会協議『聖餐 なぜ 受洗者の陪餐か』、BAPTISM, EUCHARIST & MINISTRY 1982-1990,Report on the Process and Responses,WCC,(以下BEM,Reportと略す)

2 E.シュバイツアー『新約聖書における教会像』145頁

3 BEM, Report, P.113, 2.ab

4 『聖餐 なぜ 受洗者の陪餐なのか』 72頁。 以下『聖餐 なぜ』と略す

5 同94-5頁

6 同116頁

7 アンカーバイブル『第1コリント』(英書) 306頁

8 カルヴァン『新約聖書註解・コリント前書』327頁

9 コンツェルマン『第1コリント』(英書) 243頁、注31

10 シュバイツアー 前掲書 145−6頁、354頁

11 C.K.バレット 『第1コリント』(英書) 325頁 

12 W.ミークス 『古代都市のキリスト教』296頁による。

13 BEM Report, 145頁

14 『聖餐 なぜ』125頁以下

15 前掲書 126頁

16 バレット前掲書 11章27節の終わりの部分を参照。その他の注解書も。

17 BEM Report, 135頁

18 『聖餐 なぜ』 109頁

19 岸本羊一 『礼拝の神学』 136頁