『イエス・キリストは彼に言われた。私が道であり、真理であり、いのちなのです。 私を通してでなければだれ一人父のみもとにくることはありません。』【ヨハネ14:6】 |
今日のみことばは、『ヨハネの福音書』14章6節のみことばです。 私が、お読み申し上げます。 『イエスは彼に言われた。私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければだれ一人父のみもとにくることはありません。』アーメン。 イエス・キリストは、「雀一羽さえ神の許しがなければ落ちない」というふうに言われました。 イエス・キリストがわれわれに教えて下さったのは、われわれの髪の毛一つ一つさえも、神様は数えておられるということなのです。 われわれは、自分の髪の毛が何本あるかも知りません。 また、目先の今後のことすら、どういうふうにことが起こるか、われわれは全然無知なのです。 しかしながら、創造主である神様は、すべてをご存知なんです。 雀一羽落ちるのさえ神の「許し」がなければ出来ないというのに、まして、われわれが今日、この日に七尾でお会いできて、一緒に心を合わせて神に礼拝を捧げるということは「偶然」のことではございません。 必ずこの出会いの中に、神の大きな「摂理」が動いているわけなんです。 みなさんの中に、われわれが、ここに集まって、礼拝を捧げているように思われる方がおられるかも知れませんが、神の目から見ると、一つの大きな「摂理」の中の一コマです。 これが今後どういうふうな「計画」のもとに、神様が導いてくださっていくのかということは、われわれは確かにはわかりません。 しかしながら、神様が「私を信ずるものにとってはすべてのものを共同して益となす」と言われ、約束されたがごとく、われわれのこの出会いも必ず、われわれの未来において、必ず益となして下さるものと信じてやみません。 今日は、われわれの出会いを記念して、われわれの本当の信仰の基礎が何であるか、という問題について、お互い恵みを分かち合いたいと思います。 周囲では、われわれを、「キリスト教人」といいます。「あれはクリスチャンだ」と。 そして、われわれに聞くのが、「一体どこの教会に通っているのか?」ということです。 そして、次に聞くのが、「その教会は、どの教派に属するか?」ということで、もっと詳細に知りたい人は、「そこでは何人くらい集まるのか?」ということを聞きます。 われわれは、キリスト教という宗教を信ずる人だというふうに、周囲の人から言われていますが、はたしてそうでしょうか。 われわれは、キリスト教という宗教を信ずる人でしょうか。 この世の中には、仏教、儒教、キリスト教、回教いわゆるマホメット教いろんな宗教がございます。 その中で、なぜ、みなさんは、キリスト教を選んだのでしょうか? この基本的な問題をはっきりさせなければ、われわれが今何ゆえにイエス・キリストを主と崇め奉り、信じているのかということがはっきりしないわけです。 私は、世界各国を回りながら、最近、強く感じていることがあります。 イエス様の「再臨」が近くなれば、「サタン」の勢力というものが、もっともっと強くなると、『聖書』に預言されていますが、それでは、「サタン」の勢力はどういうふうな方法でわれわれキリスト人たちを挫かせようとするのだろうかということをよく考えます。 今、世界でどういうふうな動きが行われているかというと、宗教はみな同じじゃないか。ちょうど、山登りがどの道を通っても頂上に達しさえすればいいじゃないかという式に。 仏教でも、キリスト教でも、教えは同じじゃないか。 そして、仏教でいう「天国」でも、あるいは、キリスト教でいう「天国」でも、要は、「天国の民」になればいいじゃないか。 仏教では、それを「極楽」というんだと。 キリスト教では、死んだ時に「天国」に行くというんだけれども、「極楽」でも「天国」でも同じじゃないか。 頂上に上がりさえすればいいのであって、「道」は違うのだろうけれど、同じだと。 そして、世界的に「宗教合併運動」、「統一運動」が行われています。 日本でも、その際たる例が、「神仏」と言っています。「神、仏は同じ」だというわけです。 「神仏をまつるのは同じじゃないか」と、こういうふうに言われています。 はたして、そうでしょうか? 『聖書』をいくら探して見ても神のみことばの中に『キリスト教人』というものが出ておりません。 また、「キリスト教が宗教である」というみことばも出てきておりません。 今日お読み申し上げたみことばは、イエス・キリストが「最後の晩餐」のあと、遺言として残された、弟子たちに対する説教の中に出てきているみことばです。 イエス様は、『私は道である』言われました。 『私は道である』と言われたんですよ。 そして『真理』であり、そして『生命である』とも。 孔子は、「あしたに道を聞かば、ゆうべに死すとも可なり」と、言っています。 孔子が聞こうと思ったのは、「道」を聞こうと思ったわけです。 もしも、朝に人生の「道」というものを悟りさえすれば、夕べに死んでもかまわないというふうに、その「道」というものに対する憧れを持っていたわけです。 孔子自身が、「道」と言っておりません。 だが、イエス様は「私こそは道である」と言われました。そして、「真理」だと。 イエス様自身が「真理」ですよ。イエス様自体が「生命」ですよ。 『聖書』の中に、これほどイエス・キリストの真髄をうがったみことばはございません。 そして、同時に、イエス・キリストが、『私を通さずに神の国に行くものはいない』というふうに言われました。 「イエス・キリストを通してのみ」、われわれは、「天国の民」となることができるのです。他の「道」は、駄目なんです。 それならば、キリスト教は、「宗教」ではありません。宗教でなくて、何ですか? 「真理」です。 「生命」です。 本当の「生命の根源」です。 みなさんが、ご自分の座標をはっきりわからなければならないということは、みなさん自身が、「キリスト教人」だと思ってはいけません。 みなさん自身が、「真理」を生きる人です。宗教人ではありません。 イエス・キリストを主と崇め、信ずる人たちです。 そして、イエス・キリストが示された「道」を、一生懸命に歩かれる方なのです。 その「道」こそ「真理」に通じ、その「道」こそ、本当の「永遠の生命」に通ずるわけなんです。 そして、これ以外「神の国」へ通ずる「道」はございません。一本道です。 従って、神様は一人、神の御子イエス・キリストも一人、聖霊様も一人、信仰も一つ。 みなさんは、どの教派にも属しておりません。 イエス・キリストが、どの教派に属していますか? みなさんは、イエス・キリストに属する人間です。 そして、イエス・キリストが示された、この人生の「道」を今一生懸命に歩かれるわけです。 歩かれる理由は、本当の「生命」が与えられると、信ずるからなんです。 その証拠は、「十字架」にかかられたイエス・キリストが「復活」された証拠を見上げながら、われわれも、その「道」を信じて、歩いていくわけです。 それでは、この「真理」を歩いているということが、一体何なのかということです。 まず、われわれは「キリスト教人」ではなしに、「キリスト人」です。 「キリストに似たもの」になるために、一生懸命に信仰生活をしておるわけです。 それは一体どういうことか? そこで、ぼくらの信仰生活の出発点から、もう一度考え直すべきだと思うんです。 人間は、信仰を持つ人間でも、持たない人間でも、必ず疑問に思うことがございます。 みなさんも、冷静に、自分を考えてみて下さい。 ぼくらは、どこからきて、どこへいくのでしょうか? われわれの「生命」というのは、どこからきているんでしょうか? そして、どこへ行くんでしょうか? 具体的にいえば、われわれ人間には、だれでもが持つ、3つの疑問点がございます。 まず第一は、人生は何のためにいきるんだろう、「人生の目的」は何だろうという疑問です。 もう一つの疑問は「死」というものは一体何だろう、なぜ人間が死ななければならないんだろうということです。 それから、三つ目の疑問は、「死んだ後」、ぼくらはどうなるんだろうか、ということなんです。 この三つの疑問というのはだれでも、人間として生まれたものは必ず持つ疑問なんです。 この三つの疑問を解決しようという努力が、人類の歴史始まって以来、今日に至るまで続いており、今も人間は、この疑問を明かそうと努力しています。 この疑問を明かそうとする方法も、三つの方法をとっています。人間はね。 まず第一の方法は、推理や論理の方法を講じて、この三つの問題を考えてみようとするわけです。 この考えをとる人間たちの歩みが、歴史として残っているのが哲学史であり、思想史であるわけです。 哲学者は、「人生の目的」は何かということを、人生論ということでぼくらに提示しています。 あるいは来世の問題については「ある」、「ない」、いろいろな議論を展開しています。 ある思想家は、「来世はあるんだ」と、「霊魂は不滅だ」と。 また、ある人間は「そうではない、現世で人間は終わるんだ」と、いうふうにも言っています。 これが第一の推理と論理によって、持っている疑問を解決しようとする方法ですけれどこの方法は不確実です。 人によって、意見が違うわけです。 だから、信ずるわけにはいかないわけです。 もう一つ、第二番目の方法としては、どういう方法があるかというと、これほど確実な方法はないんです。 その方法は、一回生きてみて死んでみて、来世にいってまた戻ってくることができさえすれば、これほど確実なことはないんです。 だが不幸にして、ぼくらは一回きりしか生きられないし、一回きりしか死ねない。 あの世に行って、帰ってきた人がいません。 ぼくらの祖先のうちで、あの世に行って来て、子孫に、「あの世に行ってみたら、あの世に天国と地獄があった」ということを証言する人はいません。 イエス様のお話の中に、富める者と、その富める者の門の側で物乞いをしていた人間とが死んで、その乞食のラザロというのが天国に行き、富める者が地獄に墜ちたという話があり、その中で地獄の苦しみに苦しんでいるその富める者が天国のアブラハムに頼みます。どうかその乞食のラザロをつかって水一滴をここに送って下さいと。 しかし、天国と地獄には断層があって、そこを越えることは出来ないと言ったら、その地獄に墜ちた富める者が、再び頼みます。 私の兄弟が地上に五人残っていますけれど、どうか私を地上にもう一回戻して下さいと。そうすれば、その五人の兄弟に、死んだ後こういう地獄というのがあるんだということを証言して、悔い改めて天国へくるように、勧告したいから、ぼくをもう一回地上に送って下さいということを頼みます。 しかし、その返事はどうだったですか? 神は、「モーセをはじめ多くの預言者を通して証言しておるにも関わらず、おまえらが信じなかったのに、おまえが戻って実情を話したからといって信ずるはずがない。それは不可能だ」と言って、断わられたのです。 その話と同じように、われわれの祖先のうちで、あの世にいって帰ってきた人は一人もいません。 ですから、第二番目の方法は確実ではあるけれど、不可能なんです。 そこで、第三番目の残された方法を、神様は使われたわけです。 その三番目の方法が何かというと、みなさんが礼拝を捧げるときに信仰証言をされます。 その中に、イエス・キリストを何と言われます? 「処女マリア」が「聖霊」によって身籠ったと、まずそれが出てくるでしょう。 そして「十字架」にかかられ、三日後に「復活」され、そして五百人以上が見る前で 「昇天」されたわけです。 イエス様が四十日後にね。 「昇天」されて、神様の右側に座っておられる、ということをみなさんが証言するし、『聖書』が証言しているわけです。 そうすると、これは何を意味するかということです。 ぼくらの疑問を明かす方法としては、「霊」の世界におられる神様が地上に降りられてそして、おまえの「生きる目的」が何であり、「死」がなぜ人生に与えられて、そして、「死後」にどういう世界があるのかということを証言する方法があり、その方法を神様は取られたのです。 そして、それが、神様が、イエス・キリストをこの地上によこされた理由なんです。 これを『聖書』は何と言っているかというと、「天国の福音」というふうに言っているわけです。 なぜなら、われわれが人類歴史始まって以来、みんなが疑問と思うことを、神様自ら、その方法を講じて、われわれに諭して下さったわけです。 ですからイエス・キリストを「神の一人子」であるということを信仰することによって、その方の証言、言われたみことばを信ずることができ、同時に、イエス・キリストは、そのみことばだけで証言されているわけではないんです。 「能力」によって、イエス・キリストが、「神の御子」であるということを証言されて信ずるようにされるとともに、「いのち」をもって、ぼくらに教えて下さったわけです。 多くの「奇跡」によってイエス・キリストが「神の御子」であるということをぼくらに諭しておるというわけです。 同時に、「死」を通して、「いのち」を投げ出して、この「道」こそが本当の「永遠の生命」を得る「道」であるということを実証して下さった、これは歴史上唯一度行われた事実なんです。 今から1980余年前に、その事件が歴史上、エルサレムにおいて行われたわけです。 それの記録が、『聖書』なんです。 『新約聖書』は、イエス・キリストが「神の御子」として、この世の中に来られて、「天国の福音」、われわれが最も疑問とするその三つの点を、みことばをもって、そして「奇跡」をもって、そして「生命」を賭して、われわれに証言された記録が残されているわけなんです。 ですからイエス・キリストこそ「神の一人子」であると信じさえすれば、そのみことばこそが本物であると信じぜざるをえなくなっちゃうわけです。 それでは、ぼくらが一番疑問と思う「人生の目的」は何であろうか? 何のために、ぼくらが生きているかという問題について、イエス様は、なんと言われたでしょう。 これは「山上の垂訓」のみことばの中に、一言で、簡単に、完璧にわれわれに示されています。 おまえがこの世の中に生きている「目的」は「神が完全であるがごとくおまえも完全となれ」と。 そして、神様が「生命を」この世の中によこした理由は、その「訓練」のためによこしたんだと、こういうふうに言われています。 だからね、みなさんが、この世の中に生まれて来られた時に、ご両親をみなさんが選ぶことができました? 出来なかったわけです。 というのは、肉体的な誕生そのものが、ぼくらの意思外です。 自分の意思で、勝手に日本の地で、みなさんが、両親を選んで生まれたわけのものでもないし、私は女に生まれようとか、男に生まれようとかいって、勝手に生まれてきたわけではないんです。 これは見えない神の「摂理」の中で、この「生命」が与えられているわけです。 またこの「生命」の終点である肉体的な「死」を、みなさん避けることができないわけです。 どんなに金を積んでも、「死」を避けることができません。 従って、人生の出発点と、終点は、不可能に閉ざされています。 同時に、われわれの生きている「時間」というものも、神の手中にあるわけです。 その際たる例が、ヒデキア王が重い病にかかった時に、神様に祈ったら15年の寿命を延ばしてくださったと『聖書』に書かれてあります。 これは、逆に縮めることもできるわけです。 いつでも、神が「来い」と言ったら、誰でもすべてをおいて神の御前に一人行かざるを得ないわけです。 従って、われわれの「人生」と思うでしょうけれど、そうではありません。 与えられた「人生」です。預かった「人生」です。 その与えた方が、誰かというと、「創造主」です。神様です。 その神様の手中に「時間」もあり、ぼくらの「人生」もあるわけなんです。 それではなぜこの「生命」がこの地上に生まれてきたんだろうかという疑問に対して、イエス様は、一言で、おまえは訓練のためにきたんだと。 なんの「訓練」ですか? その「訓練」の目標は、何ですか? それは、「神様が完全であるがごとく、おまえも完全となる」ための「訓練」だと。 みなさんが『創世記』を見られますと、神様が人間を造られたときに、「神様の御姿に似せて造った」と、こういうふうに記録されています。 神様が自分の御姿に似せて造ったということは、みなさんが子供を産まれると、子供は自分の両親に似た子供が生まれます。無条件可愛い。 似た子供だから、可愛いんです。 そして、自分の子供だから、可愛いんです。 そして、その子供のためには、どんなことでもします。 一緒に住むために、子供を産んで、みなさんの「家族」として、住まわれます。 そして、いくいくは、自分の「相続者」として、子供を育てます。 それと同じように、神様は自分に似せた姿で、アダムとハゥアを造って、神様は一緒に住もうとされたわけです。 一緒に住まわれる以上は、必ず条件が必要なわけです。 話が通じなければいけないし、同じ「家族」としての資格を持たなければいけないわけです。 みなさんが、ライオンと「同居」することはできませんよね。 同じ人間だから「同居」できるわけです。 と同じように、人間も、神様の御姿に似せて造られたがゆえに「同居」できるわけです。 ただし、一つの条件があったわけです。 神様のみことばに、「従順」であるという条件なんです。 その条件さえ満足されれば、ぼくらはエデンの園で、神様と「同居」する「天国の民」だったわけです。 それが「堕落」したがゆえに、神は「一人子」をよこして、その「罪」を許し、同時に、「同居」できる資格を、ぼくらに与えるための「訓練」を受けさせんがために、この世の中に、ぼくらの「生命」が与えられたわけです。 それならば、つぎは、その神が完全であるがごとく、おまえは完全でなければならないといわれた、その目標は何でしょう? 信仰生活の目標です。 神様が完全であるがごとく、ぼくらの完全な姿というのはどういう姿か、ということを具体的に『聖書』は教えてくださっております。これが目標です。 信仰生活の「訓練」の目標。この目標が確立されないと、どれが終点か、わかりません。 そして、自分の信仰生活がどういう実を結んでいるのかもわかりません。たださまようだけです。 次にわれわれが確実に確信しなければならないのは、神のみことばの中で、本当のその目標、信仰生活の目標というのは、どんな姿かということです。 これを、イエス様はなんと言われたかというと、ニコデモに対して、「おまえが生まれ変わらなければ天国に入れない」と言われました。 生まれ変わるにはどんな生まれ変わりかたをして、生まれ変わった姿がどういうものかということです。 これには、神様は、われわれに、3つの判定基準を与えてくださいました。 この3つの判定基準というのは、みなさん一人一人が信仰生活をされながら、自分が、この基準の鏡に映してみて、はたして、神が喜ばれるような「信仰の実」が結んでおるかということを、判定することができるわけです。 その3つの基準。 まず第一の基準を、みなさんに提示いたします。 まず『ヨハネの福音書』の8章31節です。『新約聖書』の176頁です。 私がお読み申し上げます。 『そこでイエスはその信じたユダヤ人たちに言われた。 もしあなたがたがわたしの言葉にとどまるならばあなたがたは本当に私の弟子です。 そしてあなたがたは真理を知り真理はあなたがたを自由にしますと』 このみことばの中に、われわれの信仰生活の第一の「実」が示されているわけです。 ここで、この最後のみことばの中で、「真理」をあなたが知れば悟るならば、あなたは「自由」になりますと言われています。 先ほど、イエス様はなんと言われました。 私は「道」であり「真理」であると。そして、「生命」であると。 イエス様を、本当に知ることができるならば、あなたは、「自由」になると言われておるわけです。 では「自由」になるというのは、一体何でしょう。 この基準をわからないと、自分の信仰生活が本物であるかどうか、どういう「実」を結ぶものかどうかの判定がつかないわけです。 みなさんがイエス様のこの地上での生活の御姿をみて、「自由」になった姿というのは「イエス・キリストの姿」だということがわかるはずなんです。 イエス様は、エルサレムに「過越しの祭り」にあわせて入城されたときにロバに乗って入られました。 そのロバは、イエス様の所有でしたか? そうではないです。借り物なんですよね。 「ロバを借りてこい」と言って借りたロバに乗ってエルサレムへ入城されたわけです。 そして、「最後の晩餐」を行った場所はイエス様の会堂でしたか? そうではないんです。マルコの二階の部屋を借りたわけなんです。 そして、イエス様が十字架にかかって死なれた時に、どこに埋葬されましたか? 墓場はイエス様の所有でしたか? そうではないんです。借りた墓場に埋葬されたわけです。 このように、イエス様は自分のものが一つもなかったわけです。 イエス様の登記書に、これは私の家だと、私のものだと登記されたものはございません。 イエス様みたいな、「神の一人子」が、自分の会堂一つないわけです。 その当時の教会ですよね。 建物一つないわけです。 おかしいではないですか? なぜ全部借りたんでしょう? そのようなイエス様が5つのパンと2匹の魚をもって、その場で5千倍に増やされとるわけね。 そして5千人に、空腹の聖徒さんに全部、食料を供給されたわけです。 これを見て周囲の人たちは驚いて、この方こそわれわれの王だと言って奉ったわけです。 そうしたら、イエス様は、山に逃げられたわけです。 考えてみて下さい。 その場で、5つのパンと2匹の魚をもって一挙に5千倍に増やしたということは、何を意味しますか? 今、現代社会で、人間たちは、金儲けで必死ですよ。 会社を作っては、1億の資本金をもって、もしも、その場で5千億になるならば、日本中の資本家は、全部クリスチャンになります。 だが事実、イエス様はそれを行ったわけです。 だから、その当時の人間だって、ああこの方はわれわれの王にしたならば、われわれが恵まれるというふうに感じたわけです。 そのように素晴らしい「能力」をもっておられたイエス様は、物質から「自由」でした。 物にとらわれる必要がないわけです。 「創造主」であるイエス様がなぜ、物にとらわれる必要がありますか? 宇宙万物のすべてが、イエス・キリストのものなんですから。 またイエス・キリストのものということは、それを「自由」にいくらでも増やしもでき、あるいはその質まで変えられるわけです。 カナの結婚披露宴の席で、イエス様はどうされましたか? 水を葡萄酒に変えられましたね。 もしもそういう技ができるならば、現代でそういう技ができるならば金持ちにならない人間はまずいません。 材料がいらずに、水を汲んできて、それが祈りさえすれば葡萄酒になる。 こんなみわざが出来る方が、どうして、自分の所有物がなかったかというと、「自分の所有」と主張する必要がないわけです。 すべてが、イエス・キリストのものなのだから。 だが驚くなかれ、これは「イエス・キリストの姿」だけではなしに、われわれ自身の、「罪」を犯さなかった当時の、「人間の姿」なんです。 『聖書』によれば、アダムが「罪」を犯す以前に、神様は、宇宙万物を5日の間に全部創造されて、アダムに「おまえがこれを支配し征服しろ」と言われたと書いてあります。 「すべて万物の名前はおまえがつけろ」と、神は人間に言われました。 すべての宇宙万物は、われわれに与えられたものなんです。 しかし、人間は、神のみことばに、「従順」ではありませんでした。 むしろ、神から与えられた物質に支配されているような、哀れな奴隷の状態に堕落していったわけです。 従って、その状態から、イエス様は、「回復しろ」と言われるわけです。 本来のおまえは「神の子」である。 その「神の子」は物質から「自由」にならなければならないということなんです。 物から「自由」になった姿、その姿が「罪」を犯さなかった当時のアダムの姿であり、同時に「第二のアダム」、「イエス・キリストの姿」なんです。 われわれ自身の本当の信仰生活の「実り」はこういうふうに「自由」な姿なんです。 従って、おまえが、神のみことばの中におれば、「真理」を悟り、「真理」を悟れば、おまえは「自由」になるであろうと神様が言われたごとく、まず物質から「自由」になるはずなんです。 信仰生活をしておりながら、物質にまだ執着し、れんれんとするような状態ならばそれは信仰生活の「実り」が、まだ実っていないという証拠なんです。 もう一つ「イエス様の御姿」の中でわれわれが発見することができるのは、イエス様は病気をされたことがないということですね。 むしろ、病人とか、死人を、その場で癒されたわけです。 同時に、もう一歩進んで、死から「自由」であったわけです。 死からの「自由」というのは、「十字架」にかかられて、三日後に「復活」されたわけです。 「死」を克服された姿を、ぼくらは見ることができます。 従って、次は病から、そして死からの「自由」な姿というものが信仰生活の「実り」の一つなんです。 だから、信仰生活の「実り」の一つは、物から、それから、病から、そして死からの「自由」な姿に変わっていかなければなりません。 これはみなさん自身が、みなさん自身の心の中を実生活の中で見られたら、信仰生活をしながら、過去の「肉」に属していた信仰生活をしなかった当時の、自分の姿に比べて、どれほど物から「自由」になり、そして病から「自由」になり、死から「自由」になったかということを判断されればいいわけです。 簡単に言って、物に対する「不安」、死に対する「恐れ」、病に対する「心配」から、「解放」された姿なんです。 だから、神様が言われるでしょう。 「おまえは私が共にいるから心配するな、恐れるな」ということを言われるわけです。 心に心配や取り越し苦労や恐れや不安が残っておるということは、まだまだ信仰生活の「実り」が実っていないという証拠なんです。 それでは、第二番目の特徴は何でしょう。 神様のみ姿の完全な姿になるのは、「心の平安」が望んでこなければなりません。 信仰生活において、「平安」が望んでこないならば、これは本当の信仰生活の「実り」とはいえません。 イエス様が、「最後の晩餐」の後、何と言われましたか? 『ヨハネ(の福音書)』4章27節を探して見ましょう。192ページね。 『私はあなた方に平安を残します。私はあなた方に私の平安を残します。私があなた方に与えるのは世の与えるのとはちがいます。 あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません』 このみことばの中で、イエス様がこの世に来られて、われわれに与えようとされたものは何かというと、「平安」を与えようとされたわけです。 だが、イエス様が与えようとされたその「平安」というのは、この世が与える「平安」とは違うわけです。 みなさんは保険をかけられるでしょう。 これは金によって、不安や心配を除去しようとする努力です。 失業保険、病気の保険、死亡保険、すべて不安な要素を金でカバーしとるわけです。 これが、世の中で与えようとする一つの平安の方法なんです。 だが、神様が与えようとする「平安」というのは、そんな種類のものではありません。 たとえ、環境がどういう風に変わろうと、物に対する不安とか、病に対する不安とか、これが保険をかけて、不安がなくなるんではなく、神が私と共に動くからこそ不安がなくなるわけです。 従って、第二番目の「信仰の実」とは「心の平安」であり、心に「平安」が望んでいるかどうかということが、「信仰の実」が結んでいるかどうかの一つの判定基準になるわけです。 それから最後に神が与えようとする第三番目の本当の「信仰の実」はなんでしょうか?これはみなさんがご承知のように『コリント前書』の13章に記録されています。 信仰生活においては、3つが大切だと。 「信仰」、「希望」、「愛」、その「信仰」、「希望」、「愛」の内、最後に残るもの、そして、最も重要なものは「愛」であると記録されています。 この意味は何でしょう? みなさんが何を信仰されますか? もしもみなさんが望み、「希望」を持っておられるということは天国へ行かれるという「希望」を持っておられるわけです。 天国へ行った後は、その「希望」はなくなります。 神様とお会いし、イエスキリストと同居するという(希望が実現したという)ことは、「信仰」を持つ必要がなくなるわけです。 見えない神様とおつきあいしようと思うと結局「信仰」が必要になってくるるわけです。 しかし、面と面と向かって、一緒に生活するのに、「信仰」は必要ありません。 これは、この地上で、神様にお会いするため、イエス・キリストにお会いするための「信仰」は手段に過ぎません。 しかし、「天国の民」になった後は、その必要はありません。 ただ最後に残る物は、では何でしょう? 「イエス様がわれわれを愛した」ごとく、本当の「アカペーの愛」が、われわれの心に望まなければ、「天国の民」の資格はないわけです。 「天国の民」というものは、本当の「愛」をになっていなければ、神様との「同居」ができないわけなんです。 天国における一つの原則は、「類は類を呼ぶ」ということなんです。 同じ「愛」を持った人間同志でなければ、「天国の民」になることができないわけです。 従って、最後に残るのは何ですか? 「愛」なんです。 その「訓練」を、ぼくらはこの地上でやってるわけなんです。 そして、この3つを合わせた姿が、「イエス・キリストの姿」なんです。 『ガラテア書』に記録されているがごとく、「おまえの心にイエス・キリストの御姿が刻まれるまでは私は産みの苦しみをするであろう」ということが、それなんです。 われわれの本当の信仰生活の実がなるのは他ではないんです。 イエス様が言われたごとく「あっちこっちに天国は望むんではない。あなたの心にまず望むであろう。」 われわれの心が「イエス・キリストの御姿」に生まれ変わらないと、みなさんは「天国の民」ではありません。 同時にその特色は三つの特色をもっといるわけです。 「イエス・キリストの御姿」には。 すべて「自由なる霊」の状態でなければならないし、次に、「平安」なみ心がぼくらの心の中に望まなければならないし、本当のイエス・キリストの「愛」がぼくらの心の中に望まなければならないわけです。 これが「信仰の実」なんです。 イエス様は言われました。 神様は農夫であられると。そして種を蒔いて、それが芽が出、花が咲き、実が結ばれたときには、その実は天国の倉庫に入れられると。もしも、それがカラチが結び実が結ばれなかった場合は焼き捨てると言われました。 神はどこに種を蒔かれたかというと、みなさんの肉の中に霊の種を一つずつ蒔いておられるわけです。 そして、その種が本当の「イエス・キリストの御姿」の「自由なる霊」と、「愛の霊」、そして、「平安の霊」が「実」を結ばれるまで、ぼくらをこの地上で「訓練」されるわけです。 従って、みなさんは一人残らず、「神の民」の「訓練」の予備校に通っておられるわけです。 「天国の民」の予備学生です。 そのために必要な学費は、全部神様が出して下さっているわけです。 だから、五日の間に宇宙万物を創造されたわけは、おまえの肉は霊を入れる器だから、肉を養うために、必要な万物を供給して下さっているわけです。 だが、これは手段に過ぎませんよね。 手段にすぎない物質が、目的になってきた場合に、これを貪欲といいます。 これは、神の意思に反するような場合。 こういうふうな、神の本当のわれわれの生命の、人生の目的が何であるかということをイエス・キリストは、ぼくらに教えておるわけです。 そして、「時間」は神の手中にあるわけです。 いつ神の召集令状がくるかも知れません。 その与えられた「時間」の間に、この「信仰の実」を結びなさいというわけです。 そして、この「道」こそ本当の人生の「道」であり、「真理」であり、「生命の道」であることを、イエス・キリスト自ら「神の言葉」をもって、そして「奇跡」を、「能力」をもって、そして「生命」をもって、ぼくらに「証言」されたわけです。 この「道」こそ、本当の「道」であるがゆえに、おまえら人生をこの「訓練」のために、忠実に動きなさいとこういうわけです。 だから、これは神様が、ぼくらに「啓示」して下さったことなんです。 教えに従って、ぼくらは生きなければなりません。 信仰生活は、みなさんの生活の現場で行われるわけです。 本当の神学校、神様の学校というのは、みなさんの生活の現場であり、家庭の中です。 「教会」というのは、それの予備学校に過ぎません。課外授業に過ぎません。 みなさんが本当にそこで、信仰の先輩たちとあって、どういう具合にしたら信仰生活ができるのかと、そして、この「実」が結ばれるのかということを、経験者にアドバイスを受けながら、実際の「訓練」は、生活の現場で行われるわけです。 そうでなしに、一週間に一回くらい、教会に通って、そこですべてををなそうとしても駄目です。それは、主客転倒です。 だから、みなさんは、生活の現場の中で、神様の訓練を受けながら、本当の信仰の実を結ぶ過程を進まれた時に、それが即「真理を生きる方」だということになるんです。 従って、みなさんはどこで、どういうふうな「訓練」を受けるかということは、神様が決めるのであって、人間が決定するものではないんです。 実はこの2つの問題、今日申し上げました、「キリスト教は宗教ではない、真理だ」という問題と、われわれの「人生の生きる目的」というものが、神の「訓練」のために遣わされた「天国の民」の候補生たちだという、この二つをしっかり踏まえて、みなさんが動かれる時に、誰が何と言っても、神の御前で忠実なる信仰生活ができるんです。 この次の時間からは、どういう具合な信仰生活をしたら、実際の生活の中で、どういう「訓練」を行った場合は、どういう風な「実」が早く結ばれるかと、普通の植物にしても、この頃は温室育ちというものがあります。 そうした季節を越えて、「実」を結ばせるものがあるわけなんです。 私は50の時に、初めて牢屋の中で、神様にとお会いした人なんです。 それ以前に、私は教会へ行ったこともないし、『聖書』を読んだこともないし、私は、自分中心の事業をやっていた人です。 その人間が、どういう具合に、神に救われ、神の「訓練」を受けて、この地点まで到達したかと。 そして、現在のおまえ自身は、どれほど「自由なる霊」の状態になり、おまえの心には「イエス・キリストの御姿」がどういう具合に形成されているのかということを今晩から具体的に、順を追って、みなさんに「証言」したいと思います。 どうか、みなさんの信仰生活のために、プラスになれば幸いだと思っています。 今日のこのみことばは、原則の問題として、みなさんがどういうふうな場で、どういうふうな「訓練」をうけ、必ず心に命じておかなければならない必須的な条件なので、この主の日に、みことばを伝えたわけなんです。 一緒にお祈り致しましょう。 天のお父様、ここに集まっておられる皆様の一人一人を、お父様はご存知の筈です。 われわれが生まれる以前から大きな計画の中に、一人一人の「生命」を、この世の中に送られ、本当の「イエス・キリストの御姿」に変えられるために、一人一人見守りながら「訓練」していただいていることを、心から感謝申し上げます。 われわれは愚かで、本当の神の、その御意思を判断することができずに、途中で道草を食い、あるいは道を誤ることが少くございません。 どうか一人一人を強力な力で導いていただいて、本当の信仰の実、「イエス・キリストの御姿」がわれわれの心に刻みこまれるよう、そして神が喜ばれるわれわれになれるよう導いて下さい。 そして、われわれの生活そのものが神に栄光を捧げ、ゆくゆくは、「天国の民」に一人残らずなれるよう、「祝福」の手を伸ばして下さい。 ここにおられる方々一人一人が、真剣にあなたの御旨を、あなたのみ手を、乞い願っています。 どうか、われわれを、神にちかづけるよう許していただき、「祝福」をして下さい。 主イエス・キリストの御名を通して、お祈り致します。(1989.08.13) |
※(文中の黒文字)部分は、聞き取りにくかったり、理解しにくい部分に関して、筆者独自の判断で加筆した箇所です。 |