北鎌倉駅から約15分、斜面に這い登るようにして広がる住宅地の細い路地を抜け、入り組んだ石段を上がると、「POLARIS☆The Arat Stage」がある。こんな場所にと思われるような深山の趣きの中にたたずむこのガラス張りのギャラリースペースで、「ヒグマ春夫・展 インヴェンション/ミズと水」が開かれている。
当夜(9月10日)はその展覧会のイベントとして、喜多尾浩代による身体パフォーマンスが表演された。
ヒグマの作品はギャラリースペースと一体となったインスタレーションである。透明なプラスチックのカップに入れられた水の一つ一つが、単位であるとともに、全体として一つの造形物となっている。そこにパフォーマーの人体が働きかけていく。
人体そのものも大部分は水であり、その水に満たされた細胞の有機体として成り立っている。喜多尾のパフォーマンスが進んでいく中で、「水」を媒介として造形物と人体との境界が次第に超えられていくプロセスが感じられた。いわば造形物を媒介にして、身体が拡張・拡散していくイメージである。造形物と人体に重ねあわされて投影される光が、そのイメージを多層化していく。
造形物は相対的に静止した状態で置かれているが、そこに満たされた水の分子一つ一つは激しい運動の状態にある。
パフォーマーの人体は、その造形物の潜在的な「動き」に触発されて動き出し、やがて相対的に静止した状態の造形物そのものを動かし、あるときにはその安定した「形」を壊していった。
造形物の壊れやすさはまた、人体の脆さを見るものに訴えてくる。
ギャラリーのロケーションも、今回のパフォーマンスにはぴったりだった。落日とともに昼の厳しい残暑が去るころには、蝉時雨はいつしか蟋蟀・鈴虫の鳴く声に変わり、山の気、風の気、草木の気が空間を満たして、造形物と人体と環境とが一体となった雰囲気をかもし出していた。
かなり長いパフォーマンスだったが、いささかも緩みを感じることはなかった。古来東洋思想では「水」を重要な哲学的表象と見、さまざまなイメージのもとに哲学的比喩として言説化してきたが、ヒグマの造形と喜多尾の人体のコラボレーションはそうした表象にあらたな姿を与えようとする試みだったといってよかろう。パフォーマンスを見守る子どもの眼の輝きが、その試みの成功を物語っていたと思う。
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