毛利氏と重臣井上氏について
=独断と偏見により 9.10.5
一部修正 (「毛利氏から見た井上氏誅伐」を追加) 9.12.27
1 毛利氏の「経済担当の重臣−井上氏」は =「?」
NHKの「毛利元就」では、井上元兼を毛利家の「経済担当の重臣」と説明
していた。
これは、重臣という意味では正しいが、「経済担当の」という意味では異な
るのではないかと思う。毛利氏の組織がそれほど強固な官僚システムを持って
いたとは思えないからである。当時、毛利氏自体、毛利氏の庶家などを中心と
する土豪の連合体に近かった。
ただし、その中で「執権」は、傘下の各土豪に影響を及ぼす官僚・重臣だっ
たと思う。多治比時代、元就は、「多治比元就」として、執権である志道広良
に、「今後必ず広良の援助を得て毛利家のために奉公すべきこと」という誓詞
(起請文)を出している。当時、元就は、ある程度自立した小土豪の立場にあ
り、毛利土豪連合の一員として毛利総領家の執権に従属する地位にいた。
2 井上氏は、元々独立した国人領主だった。
では、井上氏とは何か。
井上氏の経済力、特に元兼(井上総領家)の初期の経済基盤は、毛利氏によ
って与えられたものではない。
もともと、井上氏は、毛利氏とは同レベルの独立した国人領主だった。井上
氏は、吉田が属する高田郡の西隣の山県郡に本拠を持つ国人領主であるととも
に、毛利氏の足元の安芸吉田で駒足銭という通行税を徴収する中世的な権益を
持っていた。吉田は、出雲街道の要衝にあり、石見銀山や石見、安芸の国境地
帯に広がる当時我が国最大の一大製鉄「工業」地帯に往来する商人達の通行が
多く、駒足銭の徴収権は、重要な経済的な権益だった。
それを保持するため、井上氏は、吉田をおさえる毛利総領家と協力関係を持
たざるをえない立場だったのである。それが、元就の曾祖父当時、双方の当主
の力関係の中で、井上氏は、毛利総領家と縁戚関係になるとともに、毛利総領
家を中心とする毛利同族連合に徐々に組み込まれていったのである。
しかし、元就の初期の時代、依然として井上氏は、毛利氏に属するだけでな
く、石見・安芸の山間部に強大な勢力を持つ高橋氏にも両属する立場にあった。
その意味で、井上氏は、半独立勢力だった。少なくとも、元兼がそういう意識
を持っていたことは間違いない。
元就が総領家を嗣いだ頃、毛利家中の中で、井上党の軍事力は、3分の1を
占めていた。ということは、大雑把に言えば、毛利領3千貫のうち1千貫は、
井上一族領だったということになる。
なお、NHKの「毛利元就」では、元就の幼少時代に、元就を多治比猿掛城
から追い出したのは、「井上元兼」になっているが、これは、ドラマの設定で
あり、実際は、井上氏の一族の井上元盛が元就の後見の立場を利用して横領し
ようとしたのである。そして、井上元盛の急死後に、元就に多治比3百貫を返
すよう力を尽くしてくれたのが、井上一族の総領家の井上光兼らだった。
この光兼の後、井上総領家を継いだのが井上元兼である。元兼は、元就が毛
利総領家を相続する際に井上党をまとめて元就の相続を強力にバックアップし
ている。
井上党の誅伐は、毛利氏の、小土豪連合から戦国大名への移行に係わる統制
力強化の過程としてとらえられるべきである。
3 毛利氏から見た井上氏誅伐
これを、毛利氏側から見てみよう。
井上氏は、(井上の)総領家の力の分散を防ぐため、総領に総領家の所領の
ほとんどを一括相続させるようになっていた。これは、珍しいことである。鎌
倉以来の地頭達は、基本的には、兄弟間の分割相続制だったからである。その
意味で、井上氏は、時代に敏感な、それなりに合理的な家だったと言える。
この結果、井上氏の庶家は、それぞれ自活の道を探す必要があった。そして、
それらの者たちの何人かは、隣の毛利家に仕えたのである。そして、その後、
最後に、井上総領家本体が毛利家に属するようになったのである。
これを、毛利家側から見ると、井上姓の者を家臣に順次加えていったら、そ
のうちに井上の本家も加わってきた訳であるが、それら井上の各氏は、個別に
毛利氏に仕えているのであり、早くから毛利氏に属した井上の庶家の中には井
上総領家よりも、毛利家中の序列の高い者もいるということになる。井上各家
は、毛利家に直接属しているのであり、井上総領家を通じて属しているのでは
ない。
ところが、井上総領家は、毛利に属しても、井上氏内の序列を意識する。井
上各家も、はじめは、井上の庶家全員が井上総領家を頂点とする序列に従うと
いう合意はなかっただろう。
ところが、まさに毛利元就を毛利総領家の当主にかつぐべきかどうかという
時期に、井上総領家の元兼は、井上一族を挙げて元就をかつぐという方向で井
上各家の中でリーダーシップを発揮したのである。つまり、元就の毛利総領家
相続は、同時に、毛利氏に属する井上一族内での井上総領家の発言力を高める
方向に働いたのである。また、そこで元就に恩を売ったことにより、井上元兼
の毛利氏内での発言力も増大した。
そのような過程を経て、毛利氏内の各井上氏は、改めて井上総領家を中心と
する同族連合=「井上党」に再編成されていったのである。
これを毛利総領家側から見ると、井上姓のものを個別に傘下に加えていき、
各井上家を直接支配していたはずが、いつのまにか、井上総領家を通じた間接
支配に近い状態なってしまった。つまり、毛利家側のコントロールが十分に効
かない、井上党という異物が体内にできあがってしまったのである。
しかも、井上党は、毛利氏の勢力のほぼ3分の1を占める異常に大きな勢力
だった。これは豊臣政権における徳川家康の勢力よりも比率では大きい。これ
が、熊谷氏とか天野氏のように最初からまとまって毛利氏に同盟の形で加わっ
てきたのなら問題はなかったが、そうではなかった。
これは、たしかに毛利氏にとって重大問題だったのである。それは、単に井
上元兼だけの責任ではなく、井上の各庶家が、総領家の支配を承認することに
よって成立した関係だったのであり、各庶家は井上元兼の毛利氏内での発言力
を頼み、また、毛利氏内で井上党として統一的な動きをすることに利益を見い
だしていたのである。井上党三十数名をほぼ皆殺しにするという元就の過激な
処置は、これによって初めて理解できる。
4 戦国時代の中国地方は、実力だけの世界だったか。
戦国時代後期、あるいはそれ以後の近世大名を考えると、大名・領主は、地
域を「一円支配」しているイメージでとらえられがちである。つまり、一種の
独立国家として、地域内のあらゆる権限は領主に属していたと考えてしまいが
ちである。
しかし、元就の当時、特に西国では、中世的な法秩序の中でいろいろな法的
経済的権益が色濃く残っていた。領主達の権益は、土地に関する権益ばかりで
なく、商業に係わる権益もあり、近世の大名や武士達の権限よりもはるかに土
地に係る権益と商業に係る権益は入り組んでいた。秀吉の刀狩令以前の階級の
未分化は、実際の経済的権益面での未分化を反映していたのである。当時、領
主たちは、たしかに武力で自らの権益を守り、他の領主の権益を奪うこともあ
ったが、彼らの権益はやはり当時の法秩序に守られていたのである。
これは、たとえば、元就が、尼子から大内氏に寝返ったときに、大内氏から
広島湾に近い飛び地の所領数カ所をもらっていることでも明らかである。また、
毛利氏は、元就の父の弘元の代に、備後でかなりの所領を獲得しているが、そ
のかなりは、飛び地だったはずである。
当時が、完全に実力の支配の世の中であったとすれば、そのような飛び地を
軍事力だけで持ちこたえることは困難である。
井上氏が、吉田で持っていた通行税の課税権限は、毛利氏によって与えられ
たものではなく、そういう法秩序の中で古くから持っていた権益だったのであ
る。(と思う。)
5 安芸国人達と毛利元就初期の頃の軍事力は
そもそも、毛利氏は、安芸の国人領主の1人に過ぎない。毛利氏レベルの領
主は、安芸国内に三十数家あったという。大ざっぱにいえば、それら国人領主
は、平均で数百人くらいの動員力であったかもしれない。毛利氏は、元就の初
期の頃、それより若干大きく、5百−8百人くらいの動員力だったと思われる。
当時、安芸国人として行動していた国人領主で最大のものは、高橋氏であっ
た。高橋氏は、石見の東部で安芸に接する山間部に根拠を持ち、安芸国内で
は、高田郡の北半や山県郡の東部に勢力を伸ばしており、また備後にも所領を
持ち、公称3千貫、実高は、一説には1万2千貫とも言われる大勢力だった。
もっとも、これは同盟者を入れた話かもしれない。
これに対し、毛利氏も、公称3千貫だった。石高と貫高の関係は、物価によ
って大きく変動したが、おおむね5石で1貫とすれば、元就の初期の毛利氏は
1万5千石、高橋氏は本当に1万2千貫だったとすれば6万石だったというこ
とになる。
また、元就は、総領家を嗣ぐ前は、多治比で3百貫だった。ちなみに、この
多治比3百貫は、元就の父の弘元の代に、天皇家領だったものを横領したもの
と言われている。NHKの「毛利元就」で、父の弘元は、武将に向かない性格
に描かれていたが、実は、彼は、このほかにも、かなり大きく毛利家の所領を
増やしている。
なお、このころ井上総領家の所領は4百貫と言われている。多分、毛利総領
家の直轄領も数百貫程度(多分1千貫にならない程度)だったのではないかと
思う。この中で、元就の3百貫は、結構大きかった。他の多くの重臣達は、
1百貫から2百貫程度だった。彼らの軍事動員力は、2−3十人程度だったと
言われている。その中で、多治比時代の元就は、5−6十人程度の動員力だっ
たと思われ、重臣中の重臣だった。決して次男元就は冷遇されていたわけでは
なかった。
6 毛利氏の経済・軍事力の拡大
毛利氏は、井上氏を元就の曾祖父の段階で傘下に組み込み、祖父の豊元の代に
基盤を築き、父の弘元の代にも着実に勢力を拡大していたが、さらに元就が総領
家を相続して6年後には、高橋氏を討ってその所領を併せることで、一気に一般
の安芸国人を圧倒する大勢力になった。
さらに、その数年後には、東隣の備後の宍戸氏に娘を嫁がせ、さらにその7
年後には、尼子氏から大内氏に寝返った際に、大内氏から広島平野に一千貫の
所領を与えられている。さらにその3年後には三男隆景を竹早小早川氏に入れ、
その5、6年後に沼田小早川氏を併せて嗣がせ、同時に次男元春を吉川氏に入
れた。これが西暦1550年頃である。
これにより、毛利氏は、安芸、石見、備後にまたがる所領を抱え、通常の安
芸国人の十倍近い勢力に育っていた。特に、安芸国内では、その3分の1から
4分の1程度を占めていた。
これに同盟関係にあった熊谷氏や天野氏などの兵力が加わった。これが、
毛利氏が陶晴賢に反旗を掲げた時点の毛利氏の実力である。
このとき、毛利氏直属の軍事力は、直臣二百数十名、陪臣を含めて、具足を
着用する者が千数百、これに中間、小者を入れて、3千から4千人程度だった
と言われている。これに、吉川、小早川、宍戸、熊谷、天野の勢力を加えると、
毛利氏の中核的軍事力は、5−6千人だったのではないかと思う。
なお、井上一族は、この1550年に誅伐されたが、このころの井上一族の
軍事動員力は、これらの中で1千人程度だったと言われている。
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