富山県の出生率低下要因についての事後的な補足

 私のホームページは、従来それほどアクセスがなかったので、気楽に「拙文」を掲載して来ていたのですが、最近、かすかに少しずつ参照される方に増加の気配がありますので、誤解のないようにこの補足を付します。 (平成12年4月8日(土))
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 この試論の前段の中心テーマの一つは、富山県の出生率の低下になっています。
 そこでは、富山県の低い出生率の原因として、第一に出産世代の人口が少ないことを述べ、第二に、その原因の一つとして、昭和50年代以降の若者の流出の可能性を指摘する構成になっています。

 その原因の第一として、富山県の産業構造が製造業中心であること、そして、円高などを背景とする国際競争の激化に伴って、この分野では積極的な合理化が進められ、その結果として製造業の雇用吸収力が低下したこと(実際、昭和50年頃以降、この分野では富山県では雇用が増えていない)を、また、もう一つの原因として、富山県の若者の高学歴化と県内の向上主体の雇用構造とのずれが拡大してきたことをあげています。

 しかし、このことについては、この「試論」が「とやま経済月報」に掲載された直後から、若い世代の人口が少ない点については、それよりさらに20、30年前の富山県の合計特殊出生率が低かったためでであるとの指摘がなされていました。 

(たとえば 浜松/とやまを考えるヒント(平成8年11月。印刷物としては10年6月)。永森/とやま経済月報(平成12年4月))


 ただ、私としては、第一に「試論」の性格を政策論的な視点の主張であるものとして位置づけていました。これは、この試論を書いた時点が、県の計画課に在籍していた時期であることと無関係ではありません。この試論自体は、当時計画課内にあった別の視点の議論に対する対案として書いたものなのです。また、その結果として、若者の「流出」への視野の限定については、当時の計画課内の議論に影響を受けていると言えます。

 政策論的な視点で言えば、実際に、40、50年前の富山県の合計特殊出生率が低かったことに対して、今さら政策的に対策を採ることは不可能です。また、人口問題に関して(あるいは県民の幸福を考える場合に)行政が取りうる対策は、基本的に雇用対策・・・・具体的には富山県の産業構造の転換対策であるという認識は今でも変わっていません。つまり、政策の主張として、この「試論」は(私個人としては)価値を失っていないと言う認識があります。

 また、第二にわざわざ「試論」であると断っていること、第三に本文の中で

「まず第一に、この試論で展開される議論は、・・・・・基本的には、これは課題の提起・仮説である。「試論」とは、その意
味である。使用される統計数値は証明ではなく、あくまでも傍証にすぎないと考えていただきたい。・・・・・・第二に、人口増減の理由は一つではなく複合的である。その中には、大きな要因もあれば小さな要因もあるし、制御可能な要因もあれば困難な要因もあるだろう。ここでは、何らかの対策を講ずることにより、人口の増減に影響を及ぼすことが可能と思われるいくつかの要因−その中でも、県レベルでコントロール可能であるかもしれない要因を中心として論ずることとしたい。しかし、なおかつ、その選択はある程度恣意的であることはご容赦願いたい。」

と断っていることがあります。

 この試論は、何かを証明しようとするものではなく(証明できるにこしたことはないのですが)、政策の可能性を主張することに意図があるものなのです。