安楽寺砦
高岡徹氏の「富山県小矢部川左岸地域における中世山城とその性格」(1993年3月 富山市日本海文化研究所紀要第6号)から
安楽寺砦の存在については、すでに『三州志』をはじめとするいくつかの文献史料に記載されているが、後述の道坪野城と同様、その位置や遣構の実態については、従来明らかにされていなかった。今回、小矢部川左岸地域調査の過程で踏査を行ない、遺構を確認できたので、ここに報告することとした。無論、遣構の縄張図についても、これが初めての公表となる。まず、この遺構に関する文献史料を掲げよう。
〔越の下草(稿本)〕一、安楽寺村にいにしへ高橋与十郎則秋といふ郷侍居住し侍るよし。今にかの障徼の跡有て、狐狸のふしどとなりて青艸蕭々たり。
〔越中古城記〕一、安楽寺古塁 天文之頃、高橋與十郎則秋与云人居住之所、石黒左近将監等相戦、野寺村ニおひて討死之由
〔三州志〕(ただし「道坪野」の項)又同郷安楽寺村の上に一跡あり。今は為陸田。道坪野・安楽寺隣邑。不可混。但官図並欠之。(以上、割注)
安楽寺堡は、里談に天文中高橋興十郎則秋(十一作次。不知何人)石黒左近将監と争ひ、野寺村にて撃死す。又云ふ、松岡新左衛門、其の後久兵衛(闕姓)。といへる者拠りしと。皆失其伝。
それぞれ、同一の遺構を「障徼」(簡単な城の意)・「古塁」・「堡」などと記すが、ここでは便宣上「安楽寺砦」と呼ぷことにしたい。ただし、前掲『三州志』の記事中、堡主として別に松岡新左衛門の名があげられているが、この松岡新左衛門は『越中古城記』によると、道坪野の城主として記されており、『三州志』の誤記の可能性が強い。『越の下草』や『三州志』、「越中古城記」が砦に居住したと伝える高橋与十郎則秋について詳細は不明だが、遺構の規模や構造などから見て、『越の下草』が伝えるように「郷侍」、すなわち、安楽寺村を本拠地とした土豪であろう。
砦の位置は、安楽寺集落の西側にそびえる山上(標高176.9m、比高約125m)で、付近から北東に至近距離で今石動城を望める。周辺には前述の今石動城や道坪野城が存在するが、安楽寺砦一一今石動城間は直線距離で約1.8km、また安楽寺砦一一道坪野城間は約1.3kmである。
この安楽寺は道坪野の東南にあって、加賀国境に近い交通路の要衝である。村から西方の国境越えに加賀の九折、また西北に道坪野を経て加賀の莇谷へと通じている。一方、中世の主要街道であった北陸道は、加賀から国境の倶利伽羅峠を越え、麓の蓮沼付近へ出たが、別に倶利伽羅から東北方向に尾根を下り、安楽寺・後谷を経て今石動に出る道筋があった。こちらの方は「北黒坂道」と呼ばれ、天正13年(1585)佐々成政攻めのため越中へ進攻した秀吉軍の一部もここを通り、今石動城に陣を構えたとみられる。砦のある山上には古くからの道形が何本も残り、南北に山越えする道と西への尾根道が近くで交わっている。こうした点から見て、安楽寺の砦は中世の山上をたどる国境近くの道筋を押さえる意図で築かれたことが理解できよう。
次に砦の遺構を見てみよう。
砦は広々とした山上部の東側のへりに臨んで築かれている。この山上部は比較的平坦で、東側から西側に向けてゆるやかに下った傾斜を見せる。砦のプランは図18に示すとおりで、ほぼ方形を示す。基本的には周囲に土塁をめぐらし、外部と境を画するが、土塁は全体的に低く、小規模なものであり、それと洋意しなければ、知らずにそばを通り過ぎてしまう。規模は、土塁の内側で50×40m程度である。砦の内部は山上の地形にあわせ、東から西へとゆるやかに傾斜するが、東南部は山上部の最高所の一角を占めるため、砦の中でも最も高い。この東南部から外側の南南東に向けて小高くなった箇所が東側の谷に面して伸びており、砦の防御上の弱点となるが、なぜかこの付近に明確な土塁の遣構は見出せず、かすかな形跡をとどめるのみである。
また、この小高く伸びた南の山続きと一線を画する空堀もまったく掘られていない。このことは、後世に土塁が多少崩された可能性を考慮しても、もともと、この箇所にさほど厳重に一線を画そうとする意図がなかったことを意味していよう。あるいは、この東南方向が麓の安楽寺村に下る尾根筋にあたることから、砦の主にとって最も警戒を要しない箇所であったのかも知れない。
また、砦の東側のへりも谷に面しているためか、 土塁は設けられておらず、高さ1.5m程度の切岸で守られている。なお、土塁の上幅は0.8〜1.3m程度で、高さは北側中央の最も高くなった所で外側掘底から1.8m(内部からlm)、また西側北半部で掘底から1.4mを測る。砦の出入口は西側のほぼ中央に設けられ、ここに下部で0.9mの幅の開口部が見られる。ここから西に向けてまっすぐに道がゆるやかに下りながら伸びている。
この出入口に面した西側が砦の正面(大手)なのであろう。出入口から西へ伸びた大手道沿いには、2段にわたって平担面が投けてある。ここは土塁の外側ではあるが、砦の正面にあたることから、何らかの関連施設が置かれていた可能性がある。
2段設けられた段差の内、上段は0.6m、下段は0.4m程度を測る。いずれも低い段差である。砦を守る防御施投として、北側と西側の2面にわたり土塁の外側に空堀がめぐらされている。この内、北側の空掘は土幅4.6mを測り、砦から北に向けてゆるやかに下る平坦な山上部に備えている。
2本残る空堀の内、こちらの方が規模が大きいことから、北側に対する守りが特に意識されていることがわかる。一方、西側の方は、出入口から北半部のみに空堀が掘られているが、上幅は3mで掘り方も浅いものである。また、砦の南側は土塁の基部にやや狭い平坦面が見られ、そこから斜面を下った所に東西に伸びた低地がある。南側に空堀はないものの、この低地帯が自然の空掘の役割を果たしていたものであろう。低地帯から土塁の上部までの高さは3m余りを測り、比高も大きい。
なお、砦内部の削平は十分なものではなく、全体的に起伏が見られる。特に南側部分が土塁に沿って小高くなっている。こうした状況は、砦の使用がごく一時的なものであったことをうかがわせる。
また、基本的に方形の単純なプランを有し、土塁も低く小規模なこと、空堀も部分的で浅いことなどから、さはど防御力の高いものとは言えず、むしろ居館的な性格が強いようである。当砦とよく似た立地・プラン・規模を示すものとして、大山町の湯端城がある。
ところで、「越中古城記」によると、砦に居住した高橋氏は天文年間(1532〜55)石黒左近将監と戦い、野寺村において討死したという。遺構の素朴なプランや規模などから見て、砦の存立時期は戦国前期と考えられ、ほぼ「越中古城記」に記す伝承の時期に合致しそうである。
一方、高橋氏と戦った石黒左近将監とは、現福岡町の木舟城に居城した砺波郡の有力国人石黒氏を指すとみられる。伝承を信ずるなら、石黒氏はこの加賀国境の要衝への進出を図り、在地の土豪高橋氏と争ったとも考えられる。木舟石黒氏の持城が戦国期、蓮沼にも存在したと伝えられることから、当地への進出も十分推測できそうである。ただし、今のところ、石黒氏と高橋氏をめぐる戦いを裏付ける史料は残されていない。なお、高橋与十郎則秋が討死したと伝えられる野寺村は、現石動の南東約2kmに位置している。
※踏査 平成4年2月15日
小矢部市南谷地区についてのページに戻る