紫煙の街

      
 
 熱帯夜の夜だった。
 梅雨が明けて夜の蒸し暑さは幾分和らいだが、暑苦しさはむしろ増していた。
 三田村はバーのカウンターの中で、黙っったままグラスを磨いていた。
 古いエアコンが唸る音と時を刻む時計の音、乾いた布がグラスを擦る音だけが店の中に聞こえていた。
 カウンターでは若い女性客が、水割りを飲んでいた。彼女は佐藤由美という名の、週に一度来る馴染みの客だった。
 近所に住んでいるOLらしい。何度か会社の同僚と来たことがある。そのうち一人で来るようになった。
 今日も会社帰りに寄って、薄い水割りをゆっくりと飲んでいる。酒には強くないようで、一杯めで顔を紅く染めている。
「あ、あの……」
「はい、何でしょう?」
「な、何でもないです」
 会話が途切れた。
 他に客はいなかった。
 再び沈黙が店を支配した。
 だが三田村はそのこと歓迎していた。客と会話するのは苦手だった。シェーカーを振っているほうが気楽で良い。
 時計の針は十一時を回っている。
 由美が立ち上がった。
「ごちそうさまでした。お勘定お願いします」
「いつも、ありがとうございます。チャージ料だけですので千五百円になります」
 由美は店を出る寸前に再び何かを言いかけたが、三田村が反応する前に黙り込んでしまった。結局、いつも通りに何も言わないまま店を出ていった。
 三田村は由美を見送ると、表の看板の灯を落とした。
 残っていた洗い物を済ませると、スツールに座って一息ついた。今日の売り上げを帳簿の付ける。
 今月も赤字だった。運転資金を借りている銀行への支払いを考えると頭が痛かった。
 三田村のバーはベッドタウンの駅前商店街の一角にあった。
 一階はカウンターに席が六つあるだけの小さなバーで、二階は住居になっている。立地条件からすれば格安だったが、それでも運転資金に借りた金額がかなり残っていた。
 接客中は我慢していた煙草に火を点けた。
 一口めを思い切り深く吸い込むと、紫の煙の味と香りに身を任せる。溜め息と一緒に吐き出した。ニコチンとタールが全身に心地よく回っていく。
 三田村は煙草を一本灰にしたあと、蝶ネクタイとベストのバーテンダースタイルからトレーニングウエアに着替えた。
 店に鍵をかけて外に出ると、空気の密度が増したようにさえ感じられるほど熱かった。精神と肉体の疲労のバランスが取るために、人通りの絶えた深夜の商店街を走り出した。
 身体で空気を掻き分けるようにして走ると、熱いままのアスファルトがスニーカーの底を焼いた。
 目的地の公園に着く頃には全身に汗をかいていた。
 息を整えるとベンチを利用し、黙々と腕立て伏せを繰り返した。同様に腹筋と背筋も鍛える。筋肉は張りを失ってはいたが、年相応に鍛え上げられていた。
 流した汗が地面に小さな染みを作っていく。
 仕上げはシャドウボクシング三ラウンドだ。
 ベンチに腰掛けて休憩すると、汗を冷やしていく生温い夜風が気持ちよかった。
 アスファルトの焦げる臭いを嗅ぎながら歩いて店に戻ると冷たいシャワーを浴びた。シャツとトランクスに着替える。
 冷蔵庫から出した缶ビールを、プルトップを開けるのももどかしく飲み始めた。喉の乾きがビールの味を甘くしている。
 一気に飲み干した三田村は満足の溜め息を付いた。
 突然、店の電話が鳴った。時間が時間だけに嫌な予感がしたが、習慣で受話器を取った。
「《スレッジ・ハンマー》です」
『元気そうな声だな、三田村』
 十年ぶりに聞く声だった。
「川本か?」
『女房は元気か』
 三田村は、バックボードに置いてある麻由美の写真を見た。
「……死んだよ」
『そいつは済まなかったな』
「随分前の話しさ。用は何だ」
『力を貸してくれ。でかいヤマがあるんだ』
「堅気になったんじゃないのか」
『ゲーセンやカラオケでチマチマ稼ぐのに飽きたんだよ』
「俺は満足してる」
『お前の腕っ節が必要なんだよ』
「悪いが、店があるんだ」
『今さらこんな事は言いたかねえが、その店の開店資金は俺の懐から出たんだぜ』
「俺は貸しを取り戻しただけだ」
『まあ、良いさ。とにかく話を聞いてくれ。明日の七時に《パンゲア》で会おう』
「約束出来ない」
『来るさ。お前はチンケなバーのマスターで満足する男じゃねえからな』

 翌日。
 三田村は電車に揺られていた。結局、川本の話を聞くことにしたのだ。川本には余裕がある口振りで答えたが、実際には迷っている余裕はなかった。店のことを考えると、喉から手が出るほど金が欲しかった。
 苦労して手に入れた店だ。手放すことは考えられなかった。
 しかしそれ以上に、麻由美との生活が短かった三田村にとって、この店は彼女との唯一の思い出だった。堅気になったのも、店を始めたのも全ては麻由美の為だった。
 店には臨時休業の看板を下げてきた。しばらく帰るつもりはなかったし、帰れるとも考えていなかった。
 海岸線と平行に走る列車の窓の外には、霞がかった青色の空とくすんだ碧色の海が広がっている。サングラス越しに見る風景は、街を出たときと少しも変わっていなかった。
 違うのは、あの時は麻由美と二人だったことと、窓が開かないことぐらいなものだ。
 窓さえ開けば、嗅ぎ慣れた排煙とヘドロと磯の香りで車内は一杯になり、気分だけは十年前に戻れるような気がした。

 十数年前。
 三田村は若造だった。
 あの頃は怖いもの知らずだった。誰彼の見境もなく噛みつく狂犬だった。死の恐怖さえ感じていなかった。あの頃に本当に怖かったのは、自分が臆病者だと認めることだった。
 中年の声を聞いた、いまの三田村にはそれが良く解る。
 川本は目端の利く男だった。既に川本は組織に属さないチンピラ達の間ではちょっとした顔役だった。金になることなら何でも首を突っ込み、小口の金貸しから古買屋、不法就労の斡旋や賭博まで手広くやっていた。バックに組織を持たない川本は、のし上がるに従って次第に地元ヤクザに目を付けられるようになっていた。
 三田村と川本と出会ったのは、その頃だ。
 出会いこそ偶然だったが、はぐれ者同士が意気投合するのに時間がかからなかった。
 身動きが取りにくくなっていた川本は、向こう見ずで腕の立ち、単純で御しやすい番犬を必要としていた。
 目指していたプロボクサーへの道を閉ざされた三田村は、日常の空白を埋めようと、命懸けの緊張感を求めていた。
 三田村は、川本が全身から発していた裏の世界に漂う危険な香りを瞬時に嗅ぎ取った。川村の「仕事を手伝ってくれないか」という誘いに間髪入れずに乗った。
 川本は必要以上に欲をかかなかっし、抜け目がなかった。
 ヤクザや警察が乗り出してくる前に儲けを出し、さっと逃げた。それでも敵対するチンピラグループとのいざこざは絶えなかった。抗争は単なる殴り合いのレベルでは止まらず、拳銃(チャカ)や日本刀(ポントウ)が絡む抗争へと発展したが、それこそが三田村の求めていたものだった。リスクの割には三田村の一件辺りの儲けは微々たるものだったが、それでもそこらの若造が手にできない額の金は稼いでいた。
 川本は、バックに組織がいたら稼ぎの大半をピンハネされて殆ど手元に残らないことを思うと、笑いが止まらなかった。
 三田村も川本の側にいる限り、金はともかく危険に不自由することはなかった。
 互いが望むものを手に入れていた二人の関係は、概ね上手くいっていた。
 三田村が、麻由美と出会うまでは……。

 列車が速度を落とした。
 線路は海岸線を離れ県境の山に向かっていく。長いトンネルを抜けると、目的の街だった。
 夏の長い陽も落ちて、辺りは夕闇に包まれ始めている。
 駅が近づくに連れ、遠くに見えるネオンサインが眼に付くようになってきた。
 三田村はバッグを手にして、駅のホームに降り立った。
 少し前までの甘酸っぱい想いが跡形もなく吹き飛ばされたことを痛感した。その場所は、全く見覚えのない場所だった。
 三田村の記憶にある、薄暗くて古汚い国鉄の駅は何処にもなく、近代的で明るいJRステーションがそこに建っていた。
 気温は太平洋側に比べて幾分低いようだが湿気が酷い。体中から拭き出る汗を無視して歩き出した。
 案内板を頼りに改札を抜けると、立ち食いソバ屋とキオスクがあっただけの駅は小綺麗なショッピングモールになっていた。モールは通勤や通学、それに買い物客で賑わっている。
 三田村は、自分が暮らしていた街に戻ってきたのではなく、自分の住んでいる町に戻ったのではないかという軽い既視感に襲われた。側を通った女子高生達に方言が耳に入り、ようやく我に返った。
 列車に乗っていた間ずっと我慢してきた煙草を吸おうと待合室へ入った。待合室のプラスチックのベンチはソファーに変わっていた。ただし、安物の椅子特有のセンス悪さにはまったく変わりがなかった。
 三田村は苦笑しながら灰皿を探す。禁煙の看板に気がついて舌打ちすると、足早にタクシー乗り場へ向かった。
 繁華街の様相は一変していた。
 盛り場からは馴染みの看板が軒並み消ていた。
 それでも《パンゲア》は、三田村が最後に見たときと変わらないままで残っていた。
 ほっとしながら、天然物の無垢の一枚板で出来た分厚い扉を開けた。
「いらっしゃい」
 カウンターでグラスを磨いていた初老のマスターが、十年前と変わらない笑顔で迎えてくれた。
 開店したばかりで、店の中に客はいなかった。
 自分の店の紛い物とは違う、扉同様に無垢の一枚板で出来ているカウンターの席に座る。
「お久しぶりですね」
「十年ぶりかな」
 おしぼりを渡してくれるマスターを改めて見ると、昔にはなかった白いものが髪に目立つようになっていた。十年の年月が顔の皺を更に深く刻んでいた。
「何をお飲みになりますか」
「いつものやつ」
「かしこまりました」
 マスターはショットグラスをカウンターに置くと、迷うことなく一本のジンをバックボードから取り出した。
 丁寧にグラスに注いでくれた。
 三田村はジン特有の臭いに誘われるように、一気に喉にジンを注ぎ込む。喉から胃に落ちていく焼けるような熱さが身体に心地よい気怠をもたらした。
 ポケットから煙草を出して加えると、灰皿を出したマスターが火を点けてくれる。
 店内にはジャズがBGMとして流されていた。カウンターの中のマスターは、十年前と同じように、無言でグラスを磨いていた。
 三田村は、この店で酒の飲み方を教わった。良いバーテンダーと金をかけた内装、過ぎ去った年月。それらを揃えた店だけが持つ、心地よい雰囲気が空間を包んでいた。
 約束の時間を一時間過ぎた。
 川本は現れない。
 三田村は短くなった煙草を消した。
「マスター、何か聞いてないですか」
「川本さんのことですか。いえ、何も……」
 三田村は店の隅にある公衆電話から、川本に電話をかけてみた。十年前と番号は変わってないらしく、呼び出し音はしたが誰も出なかった。
「川本なら来ないさ」
 背後からの声に振り向くと、そこには見覚えがある人間が立っていた。十年前、追いかけ回された田坂刑事だった。
 三田村は田坂を無視して、カウンター席に戻った。ジンのお代わりを頼む。田坂が隣に座ってきた。
「冷たいじゃないか。それとも何か刑事(デカ)と口を利くのも嫌だってのか」
「どういう意味ですか、田坂さん。俺は堅気ですよ」
 初老の田坂刑事は、三田村を目の敵にしていたとは思えないほど馴れ馴れしい口調で肩に手をかけてきた。
「おいおい、そんなに怖い顔することもないだろう。久しぶりに会ったのに」
「川本がどうかしたんですか」
  田坂は注文した水割りを一口すすった。
「死んだよ」
「何時?」
「今日だ。三時間ほど前、深野川で土左右衛門で上がった。鑑識は、酒を飲んで溺れたんじゃないかって言ってたがな」
「……少なくとも、俺は信じないですがね」
 田村はニヤリと笑った。
「たぶん、お前の考えている通りだろうな。心当たりは?」
「そいつを調べるのが田坂さんのお仕事でしょう」
 田坂は口調が剣呑なものに変わった。
「おい、三田村さんよ。お前が思っている以上に、この街は物騒になってるんだ。お前だって川本の二の前にならないとは限らないんだぜ」
「今度は脅しですか」
「いやいや、忠告だよ。十年前に若造の尻尾を捕まえ損ねたヘボ刑事のな」
 扉が開いて、新しい客が入ってきた。
「じゃあな、堅気の三田村さん。また会おうぜ」
 三田村は、田坂が店を出て行くのを見送ると、財布から携帯電話の番号をメモした紙と一万円札と一緒にカウンターに置いた。
「何か解ったら、連絡して下さい」
 立ち上がって扉に手をかけた三田村に、背後からマスターが声をかけてきた。
「あれから十年経ったんですよ。三田村さんが今から首を突っ込むことはないと思いますがね」
 三田村は振り向かずに無言で手を振ると、扉を開けて外に出た。
 外はすっかり暗くなっていた。夜になってようやく気温が下がり始めていた。風が出てきたせいで、湿気も幾分少なくなっている。
 三田村は、ホテルに向かって歩き出した。
 昔はなかったカラオケボックスやゲームセンター、コンビニエンスストアの存在が記憶の中の風景を変えていた。
 十年という歳月は予想以上に土地勘を奪い去り、三田村を完全な異邦人にしていた。
 だが、そこに行き交う人々の人間模様には変わりがない。
 未知への不安で、意味もなく大声を上げる若者。
 自分達だけの世界に浸っているカップル。
 背広同様に存在自体がくたびれている中年のサラリーマン。
 交差点で意味もなくアクセルを空吹かしした後、タイヤを鳴らしながら発車する金髪のヤンキー。
 三田村は表通りの風景に背を向けて、裏通りへと足を運ぶ。裏通りは表通り以上に変容していた。
 狭い通りには異国風に机や椅子を通りに並べたレストランやバーが林立していた。エスニックな香りに混じって、声高に従業員と客とが交わす異国の言葉が耳に飛び込んでくる。通りにいる人間の半分が日本人ではなかった。中国系や朝鮮系は言うに及ばず、東南アジア系、南米系、中東系、それにロシア系らい外国人までもが狭い裏通りに溢れていた。
 ビルの隙間で商売している立ちんぼうにも中年女に姿は見えない。若い外国女だけだ。
 店の隅に目つきの悪い若造が座っている店も多かった。
 注意深く伺うと、暑いにも関わらず上着を着ている者が目立った。脇の下や背中の腰の辺りが不自然に膨らんでいる。
 膨らみに正体に気が付いた三田村は、背中に冷たい汗をかいた。彼らを刺激しないように視線を合わさずに歩いていく。
 遠くで爆竹の弾ける音がした。音に反応した三田村は物陰に飛び込んだ。通りにいる外国人の大半が伏せたり、物陰を隠れたりしていた。反応しないのは日本人だけだ。
 続けて幾つもの破裂音が聞こえてくる。間違いなく拳銃の発射音だった。銃声が止んだ数分後に、走っていくパトカーと救急車のサイレンが聞こえてきた。それを合図に、外国人達は再び裏通りに溢れ出した。皆、何事もなかったような表情だった。
 三田村は連中のタフさに苦笑する。再び歩き出すと、いい匂いが鼻をくすぐっていることに気が付いた。アルコールに刺激された胃が空腹を訴える。自分がまともに食事をしていないことを思い出した。 三田村は、大陸系の言葉が飛び交う眼の前のラーメン屋へと入っていった。

 腹が焼けるように熱い。
 短刀(ドス)が深々と脇腹に突き刺さっていた。
 必死に抜こうとしていると、背中に衝撃を受けた。触って見ると自分の身体に大きな穴が開いていた。
 いつの間にか脇腹の短刀は抜けていた。
 だが、傷口からは内臓が飛び出して垂れ下がっていた。
 背中の穴からは滝のように鮮血が吹き出していた。

 三田村は叫び声を上げながら、ビジネスホテルの安ベッドから跳ね起きた。ねじ切れた脇腹の刃物傷と背中の引きつれた弾傷が疼く。十年は過ぎた古傷だったが、忘れた頃になると悪夢を見せた。悪夢を見る間隔は時が経つにつれて開いていったが、鮮明さや感触は色褪せないままだった。
 荒い息が治まると、全身が冷や汗で濡れていたことに気付いた。左腕の腕時計を見ると、一時間ほど眠っていた。
 汗で張り付いたTシャツを身体から引き剥がすように脱ぎ捨てる。トランクス一枚のままベッドから出るとエアコンのスイッチを入れた。ようやく汗が冷えていく。
 三田村はバスルームのシャワーで汗を流した。腰に巻いたバスタオル一枚のまま、冷蔵庫から出したミネラルウォーターをがぶ飲みする。ボトル一本を一気に飲み干して大きく息を吐くと、全身の毛穴から新たな汗が吹き出てきた。
 上半身の汗を拭い、再びベッドで横になっていると携帯電話が鳴った。ディスプレイを見ると、電話番号が表示されていない。ピンときた三田村は電話に出た。
『三田村、さん?』
 聞き覚えのない、若い女の声だった。
「ああ、そうだ。あんたは?」
『話があるの、川本のことで』
 予想より早い反応だった。
「何か知ってるのか?」
『電話じゃ言えないわ』
「じゃあ何処かで会おう。あんたの方で場所を指定してくれ」
『辰巳山の展望台に十二時に』
 腕時計を見ながら時間と場所を確認した。三時間後だった。
「解った。あんたの名前は?」
『貴子、尾崎貴子よ』
 三田村は電話を切ると、動きやすいポロシャツとジーンズに着替えた。スニーカーを履いて部屋を出ると、ホテルの喫茶店でコーヒーを飲んで完全に酔いを醒ました。
 相手の女について色々考えても見たが、材料がなさすぎる。考えるのを止めた。
 ホテルの向かい側にある、二十四時間営業のレンタカー会社で目立たない小型車をカードで借りた。
 夜も更けて車が少なくなった街を、ゆっくりと走りながら土地勘を取り戻す。道はかなり変わっていたが、中心街から離れると、街同様に道の変化も小さくなっていく。
 小一時間ほど走り、土地勘が戻ってきたところで辰巳山に向かう。非力な小型車では辛い、つづら折れの坂道を頂上にある展望台へ向かって登っていく。
 十分ほどで着いた展望台に人気はない。レストランや喫茶店は営業時間が過ぎていた。街灯が数本立っているだけの暗い駐車場の片隅に、出口の方に向けて車を停める。
 三田村の他に停まっている車はなかった。ライトを消しエンジンを切ると、暗闇と静けさだけが辺りを支配した。
 眼下に見える街の明かりが、漆黒の絨毯の上に玩具の宝石をひっくり返したように安っぽく輝いていた。
 約束の時間まではまだ十分ほど余裕があった。しばらく辺りの様子を伺ってから、そっと車の窓を開けた。
 低いとはいえ山の上だけあって空気が冷えている。鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。
 肌に当たる風の心地良さを感じると、無性に煙草が吸いたくなった。だが闇夜の蛍になる危険を犯すわけにはいかない。
 我慢するしかなかった。
 約束の時間が十分ほど過ぎた。
 諦めて車から出た三田村は、展望台のベンチに腰掛けて煙草に火を点けた。暗闇に赤い煙草の火が浮かび上がる。思い切り吸い込んだ煙を吐き出すと、身体を強張らせていた緊張感が一緒に抜けていく。
 一本めの煙草が半分ほど灰になった頃、坂を上ってくる車がタイヤを軋ませる音が聞こえた。慌てて煙草の火を消す。
 左右に目を凝らすと、駐車場の隅に設置してある大きなゴミ箱を見つかった。車に戻って革の手袋を掴むと、キーを付けたまま急いでゴミ箱の影に身を潜める。
 車のライトの光が見えてきた。二台だ。
 三田村は手袋を填めた両の拳を握りしめた。緊張感で膝が笑っている。唾を何度も飲み込んだ。無性に小便がしたくなってくる。反射的にポケットをまさぐった。あるはずもない捜し物の代わりに、くしゃくしゃに丸めたハンカチが指に触れた。急いで取り出すと、細く小さく固く折り畳んだ。
 口に入る大きさになると、即席のマウスピースを歯と唇との間に押し込んだ。しっかりとくわえ込み、大きく息を吸い込む。落ち着きを取り戻すと一つの考えが閃いた。
 足下に転がっている空き缶の中から薄手の大きめのスチール缶を見つけて拾っておく。
 タイヤを軋ませながら駐車場に二台の車が入ってきた。
 先頭は赤い小型車、後続は大型車だ。
 駐車場の奥の行き止まりでブレーキをかけながらハンドルを切った小型車は横を向いて停車した。後続の大型車はスピードを落とさないまま小型車の横腹に突っ込んでいく。破壊音と同時に激突した小型車を浮き上がて大型車が停止した。
 男が二人大型車から降りてくると、小型車の運転席から女を引きずり出した。男達は女の手足を持って崖の方へが移動していた。女は気絶しているらしく、ぐったりして抵抗する気配はない。
 三田村は女の姿を見た途端、考える余裕もなく行動に出た。空き缶を男達とは反対側の空に力一杯放り投げると同時に飛び出した。落下してきた空き缶がアスファルトの路面に当たって乾いた金属音を上げる。
 男達は驚いた表情で音の方を振り向くと、女を地面に放り出した。慌てて脇の下に手を滑らせる。
 男達の背後から忍び寄っていた三田村は、一人めの男の脇腹に右フックを入れた。手首までめり込んだ拳が男の脇腹二本を折る。男は抜きかけた拳銃を放り出すと、口から血を吐いて悶絶した。二人めの男が向ける拳銃の狙いをステップを踏んでかわしながら、カウンターの要領で顎に右ストレートを入れた。拳は狙い通りに顎を貫き、その場で膝から砕け落ちた男の腹を思い切り蹴飛ばした。ひっくり返った男は胃の内容物を吐いて気絶した。
 三田村は息を吐いて額の汗を拭うと、眼を覚ましかけている女を抱き上げた。
「おい、大丈夫か。しっかりしろ」
 女は眼を覚ますと、三田村肩越しに指さした。
「後ろ!」
 女の声と同時に反射的に振り向いた。大型車の後部から発した閃光の残像が視界を奪い、破裂音が耳の鼓膜を圧迫する。
 三田村は女を離すと、地面に落ちている拳銃に飛び付いた。飛んでくる銃弾を無視しながら、拾うと同時に車に向けて撃ちまくる。
 女に制されて三田村は我に返った。
「終わったわ。もう終わったのよ!」
 引き金を引き続けていた拳銃は弾倉が空になっていた。
 握っている右手を苦労して左手で引き剥して拳銃を捨てた。
 車に近寄ってみると後部シートで男が白目を剥いていた。腹が血で染まっているが、まだ息をしているところを見ると気絶しているらしい。床には拳銃が落ちていた。
 三田村の背後では、男二人が悶絶した呻き声を上げている。右肩に激痛が走った。流れ出した血が袖を濡らしている。
 辺りに漂っている硝煙と血の臭いが鼻を刺激する。途端に猛烈な吐き気に襲われ、その場にしゃがみ込むと胃液を吐き始めた。

next top