女怪盗サンドラ登場
(エドワード・D・ホック『怪盗ニック対女怪盗サンドラ』解説)
二〇〇三年にはエドワード・D・ホックのニック・ヴェルヴェットもの短篇集が三冊(『怪盗ニック登場』と『怪盗ニックを盗め』と『怪盗ニックの事件簿』)も文庫化され、好評を得た。そして、『怪盗ニックの事件簿』の巻末解説でこの解説子が唱えた祈りが叶えられ、第四短篇集がハヤカワ・ミステリ文庫〈クラシック・セレクション〉の一環としてここに刊行される運びとなった。これもひとえにファンの皆さんのご支援のおかげである。
今回は本書に収録する作品を選んだ経緯について、なるべく楽しく説明することにしよう。先ほども書いたように、この解説子の祈りが叶えられ、第四短篇集も刊行しようという話がまとまった。木村二郎がすでに翻訳した「シルヴァー湖の怪獣」と「レオポルド警部のバッジを盗め」と「浴室の体重計を盗め」の三篇を含む合計十篇を選ぼうというのが、最初の考えだった。それで、翻訳者はその三篇と中期の七篇を加えた十篇を選んで、企画書を担当編集者に提出した。
そのあと、既訳の三篇を読み直していると、女怪盗サンドラ・パリスもの二篇において、ほかの未訳の作品に言及する箇所がかなり多いことに気づいた。ほかの未訳のサンドラ特別出演作品があれば、既訳のサンドラもの二篇もずっと面白くなるだろうと思ったのだ。それで、企画書第一案を取り下げて、「シルヴァー湖の怪獣」とサンドラもの九篇(改訳二篇、新訳一篇、初訳六篇)の合計十篇を改めて選んで、企画書第二案を担当編集者に提出した。そして、その第二案が編集部会議で通過した。
その旨をエド・ホックに電子メールで報告すると、《エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン》(EQMM)〇四年二月号に発表するヴェルヴェットものにサンドラ・パリスも登場するから、それも収録したらどうだという助言をもらった。それで、急遽「シルヴァー湖の怪獣」を「ダブル・エレファントを盗め」(その時点では未読)に差し換えて、企画書第三案を担当編集者に提出し、第四短篇集『怪盗ニック対女怪盗サンドラ』の収録作品が最終的に決定したのである。
なお、二〇〇〇年にアメリカで刊行されたヴェルヴェットもの短篇集 The Velvet Touch には全十四篇が収録されているが、そのうちの八篇ではサンドラが共演する。本書には、その八篇に新作二篇を加えた十篇を収めた。結果的には、安易な選択だと見なされそうだが、紆余曲折を経た末に決めた選択である。
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主人公のニック・ヴェルヴェットについては『怪盗ニック登場』の巻末解説で書いたので、今回は副主人公の女怪盗サンドラ・パリスについて書いてみよう。
ホックが女性を主人公にしたシリーズを初めて発表したのは、たぶんEQMM一九七三年二月号掲載のインターポルもの第一篇「第三の使者」(ハヤカワ・ミステリ刊『ホックと13人の仲間たち』収録)だろう。そのシリーズでは、語学と変装と空手のうまい女性捜査官ローラ・シャルムが、元スコットランド・ヤードの刑事セバスチャン・ブルーと共演する。このシリーズはEQMM八四年一月号掲載の第十四篇のあと中断している。
それから、女性雑誌《ハーズ》七九年十月一日号に発表した The Dog That Barked All Day で、女性刑事ナンシー・トレンティーノが初登場する。どっかで聞いたような名前だと思う方もおられるだろう。そう、トレンティーノはレオポルド警部ものに登場する女性刑事コニー・トレントにそっくりなのだ。このシリーズは《マイク・シェイン・ミステリ・マガジン》八三年三月号掲載の第四篇のあと中断している。
上記の二つのシリーズが中断した頃、一九八二年に、女性ボディーガードのリビー・ノールズがエレノア・サリヴァン編のオリジナル・アンソロジー Ellery Queen's Prime Crimes に収録された Five-Day Forecast でデビューした。このシリーズは八七年刊の《ア・マター・オヴ・クライム》第一号に収められた第四篇のあと中断している。
そして、ちょうど同じ八三年に女怪盗サンドラ・パリスがヴェルヴェットもの第四十五篇「白の女王のメニューを盗め」(EQMM八三年三月号掲載)に颯爽と登場したのである。しかし、サンドラのほうはまだヴェルヴェットものにしばしば登場している。
おりしも、前年の八二年は、現代私立探偵小説の草分け御三家の一人であるスー・グラフトンのキンジー・ミルホーンもの第一作『アリバイのA』や、サラ・パレツキーのV・I・ウォーショースキーもの第一作『サマータイム・ブルース』(いずれもハヤカワ・ミステリ文庫)、マーシャ・マラーの待望のシャロン・マコーンもの第二作『タロットは死の匂い』(徳間文庫)が刊行された年だった。
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前置きが長くなってしまったが、サンドラ・パリスについてさらに説明しよう。初登場の八三年には、年齢三十代半ば(約二十年たっても、まだ四十歳だ)。女優としての短いキャリアのあと、もっと収入のいい犯罪の道を歩み始めた。プラチナ・ブロンドの長い髪が天使のような色白の無垢な顔を縁取っていて、目は薄い青色で、脚は長く、背は比較的高い。一言で言うと、美女である。歌やダンスはそれほどうまくないが、変装はうまい。飛行機の操縦もできるようだ。
ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に出てくる〈白の女王〉が「わたしはときどき朝食前に多くても六つの不可能を信じることがあるのよ」と言ったことにヒントを得て、朝食前に大胆な盗みを働き、現場に〈白の女王〉というニックネームと、〈不可能を朝食前に〉というモットーを書いた名刺を残す。ニックが価値のないものしか盗まないのに対して、サンドラは頼まれれば何でも盗む。八三年当時の手数料は五万ドルだったが、約二十年後の二〇〇四年には手数料が十万ドルに倍増している(ニックの手数料も二万五千ドルから、三万ドルを経て、五万ドルに倍増している)。
ニックとは初めのうちライヴァルだったが、ときおり窮地に陥った相手を助け合い、パートナーになることもある。今では友人になった。お互いに惹かれ合っているようだが、ニックにはグロリアという長く連れ添ったガールフレンドがいる。しかし、一度グロリアはニックと別居して、ほかの男と付き合ったことがあり、サンドラがその原因なのかもしれない。グロリアは初めのうちサンドラを信用していなかったが、ニックを助けてほしいとサンドラに頼んだり、サンドラを助けてあげるようにニックを促したりするようになった。ニックとサンドラとの関係よりも、グロリアとサンドラとの関係のほうが微妙なのかもしれない。
ちなみに、サンドラの電子メール・アドレスはサンドラの名前のアナグラムらしいが、なかなか見当がつかない。
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全十作を読み通していると、二人の馴染み深い人物に出くわした。「レオポルド警部のバッジを盗め」に登場するレオポルド警部がその一人である。九一年にEQMM創刊五十周年記念として、ホックはヴェルヴェットとレオポルド警部、田舎医者サム・ホーソーンと西部探偵ベン・スノウ(光文社文庫刊『革服の男』収録の「呪われたティピー」)、暗号解読専門家ジェフリー・ランドとジプシー探偵ミハエル・ウラドをそれぞれ共演させた作品を発表したのである。
もう一人の馴染み深い人物は、「白の女王のメニューを盗め」と「ダブル・エレファントを盗め」に登場するチャーリー・ウェストンである。かつてはニューヨーク市警十七分署の刑事だったが、「真鍮の文字」ではニューイングランド地方の中都市イーストブリッジの警察で警部補になり、「くもったフィルム」では退職して《全国宝石協会》の特別捜査員になった。しかし、本書収録の「白の女王のメニューを盗め」ではラス・ヴェガスのカジノ警備課長になっているかと思うと、「ダブル・エレファントを盗め」ではニューヨーク市警の部長刑事になっているのだ。
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もちろん、翻訳者もこの解説子も本書の好評を願っているし、ヴェルヴェットもの短篇集が次々に刊行されることも祈っている。引き続き皆さんからの盛大なご声援をいただければ幸いである。
最後に、怪盗ニック・ヴェルヴェット・シリーズのチェックリスト改訂版を挙げておこう。
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《怪盗ニック・ヴェルヴェット・シリーズ・チェックリスト》
[註=完全チェックリストを見たい方は、現物の巻末を参照してください。]
[(改訳)は訳者自身の翻訳を短篇集において改めて訳し直したもの。
(新訳)はすでに翻訳があるものを短篇集において新たに訳したもの。
(初訳)は短篇集において初めて翻訳したもの。
短篇集@ABの文庫版においては、全作品がハヤカワ・ミステリ版の改訳である。
HMMは《ミステリマガジン》のこと。
○●で囲んだ数字は収録されている短篇集を示す。
SP =女怪盗サンドラ・パリス共演。]
[コレクション]
|The Spy and the Thief (1971) エラリイ・クイーン編、暗号解読専門家ジェフリー・ランドもの短篇七篇と怪盗ニック・ヴェルヴェットもの短篇七篇(1、2、4、5、9、10、11)収録
@Enter the Thief (1976) 『怪盗ニック登場』(ハヤカワ・ミステリ1256→ハヤカワ・ミステリ文庫、日本で独自に編纂) 小鷹信光編、ヴェルヴェットもの短篇十二篇(1、4、7、10、11、12、13、14、17、18、21、23)収録
}The Thefts of Nick Velvet (1978) ヴェルヴェットもの短篇十三篇(1、2、3、7、8、15、16、17、19、20、22、23、25)収録(限定版にのみ29を加えた十四篇収録)
AThe Thief Strikes Again (1979) 『怪盗ニックを盗め』(ハヤカワ・ミステリ1342→ハヤカワ・ミステリ文庫、日本で独自に編纂) ヴェルヴェットもの短篇十二篇(2、6、19、22、24、25、26、27、28、29、30、31)収録
BThe Adventures of the Thief (1983) 『怪盗ニックの事件簿』(ハヤカワ・ミステリ1411→ハヤカワ・ミステリ文庫、日本で独自に編纂) ヴェルヴェットもの短篇十篇(3、5、9、15、16、20、32、34、37、43)収録
~The Velvet Touch (2000) ヴェルヴェットもの短篇十四篇(26、29、30、38、45、48、51、54、57、63、67、70、75、76)収録(限定版にはほかに詐欺師ユリシーズ・バードもの短篇一篇も収録)
CThe Thief vs. the White Queen (2004) 『怪盗ニック対女怪盗サンドラ』(ハヤカワ・ミステリ文庫、日本で独自に編纂) ヴェルヴェットもの短篇十篇(45、48、51、57、63、67、70、76、78、82)収録
[なお、チェックリストを作成するにあたり、毎年更新されるジューン・M・モファット&フランシス・M・ネヴィンズ・ジュニア共編の Edward D. Hoch Bibliography を参照させていただいた。]
二〇〇四年六月
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これは木村二郎が翻訳したエドワード・D・ホックの短編集『怪盗ニック対女怪盗サンドラ』(ハヤカワ・ミステリ文庫、2004年7月刊、860円+税)の巻末解説であり、自称ミステリー研究家の木村仁良が書いています。『怪盗ニック登場』(お陰様で文庫版は3刷)『怪盗ニックを盗め』『怪盗ニックの事件簿』に続くニック・ヴェルヴェットもの第4短編集です。第5短編集も出せるように、皆様方の盛大なご声援をお願いします。(ジロリンタン、2004年7月吉日)
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