二〇〇五年七月七日の朝、コンピューターを起動し、電子メールをチェックすると、「エヴァン・ハンター」という件名のメールがエドワード・ホックから届いていた。七月六日の午後にエド・マクベインが亡くなったという短いメッセージだった。マクベインが危篤状態だったということは知っていたので、近いうちに訃報を聞くことになるだろうとは覚悟していた。
ホックのメッセージには詳しいことは書いていなかったので、真っ先に直井明さんに電話をかけた。直井さんなら、もっと詳しいことを御存じだろうと思ったからである。しかし、直井さんはマクベインの訃報を初めて聞いたということだった。
三番目には、早川書房編集部と『ミステリマガジン』に連絡した。
二番目に連絡したのは、おれの兄である。マクベインのファンであり、ときどき原書でも八七分署を読んでいる。『暴力教室』の一部となった短篇「壁」を収録したペイパーバック・アンソロジー Discovery #2 も持っていた。おれにマクベインの本を紹介してくれたのが彼である。
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一九六〇年前からアメリカのテレビ番組がたくさん日本でも放映されていた。小学生のおれは、《パパは何でも知っている》から《ペリー・コモ・ショウ》まで、いろいろなジャンルの“舶来番組”をほとんど何でも観ていた。
兄がある日、エド・マクベインの『クレアが死んでいる』を買ってきた。そのときにテレビ番組の《八七分署》には原作があることを初めて知ったのである。それを読み終わってから、近くの小さい本屋でポケット・ミステリを買い始めた。この兄が《マンハント》を読んでいたので、中学生になったおれも読み始め、近くの本屋でカート・キャノンの『酔いどれ探偵街を行く』も買ってきた。
高校生になると、通学に片道一時間余りかかるので、電車の中では教科書ではなく、ほとんどポケミスを読んでいた。一年生の夏休みには、近くの本屋では売り切れていた初期の八七分署ものを大阪じゅうの大型書店で捜しまわり、第二十一作『八千万の眼』まですべて読破した。そのほか、ハンター名義の『若い野獣たち』、ハント・コリンズ名義の『果てしなき明日』、リチャード・マーステン名義の『ビッグ・マン』も読んだ。
アメリカの大学に在学中は勉学や家事や夜遊びに忙しくて、ミステリ読書から遠ざかっていたが、卒業間近からまたミステリに興味を持ち始め、古本屋でミステリを買い漁った。大学卒業後は八七分署ものの新刊をほとんどすべて新刊ハードカヴァーで読み、『ミステリマガジン』で紹介した。ニューヨークの本屋では日本未紹介の Sons や Nobody Knew They Were There を見つけ、Buddwing や Walk Proud の映画版も観た。
あるとき、作家になるためのハウツー本をニューヨークの本屋で見つけ、その序文をハンターが書いていたので、立ち読みした。ハンターが《スコット・メレディス文芸代理店》に就職したときの話が披露されていた。ハンターはロブスターのセールスマンをしていて、作家になるために努力していた。そのためには、文芸代理店に就職するのが近道だと思ったので、昼休みに《スコット・メレディス》の就職面接に出かけたという。一時間の昼休みのあいだに一冊の長篇小説を渡され、それの長所短所を書けという“就職試験”に“合格”したらしい。
翻訳をするようになってから、ハンター名義の「なにかがやってくる」を『奇想天外』七四年三月号に訳載してもらった。そのあと、ハンター名義の半自伝的ジャズ小説『黄金の街』(七四年刊)を翻訳した。九〇年にマクベインが初来日して、おれは早川書房主催の歓迎パーティーに出席した。そのときに初めてマクベインと会ったのだ。『黄金の街』の中でジャズのアドリブ風の文章をどう訳したのか、とマクベインはおれに尋ねた。ジャズのアドリブについて少しは知っていて、作者の意向が理解できるので、訳すのはそれほど難しくなかったとかなんとか答えたと思う。パーティーの席で、彼が何度もマイクの前に駆け寄り、ジョークを披露したことが印象に残るが、ジョークの内容は覚えていない。でも、八七分署の刑事たちがジョークを言い合う場面を連想させてくれた。
二度目にマクベインに会ったのは、一九九八年のニューヨークである。エドガー賞授賞ディナーの前日に、ニューヨーク大学でミステリ・シンポジウムが開かれ、おれも出席した。そのときのパネルの一つがマクベインとスチュアート・カミンスキーの対談だった。昼休みが終わるころ、ニューヨーク大学ロー・スクールの校舎に戻るとき、中庭のベンチに見慣れた作家が一人ですわっていた。おれは図々しくも隣にすわり、『黄金の街』の日本語翻訳者として自己紹介した。
『ジャーロ』〇三年冬号にマクベインの「告白」を訳載するにあたり、彼に短い作品紹介を書いてほしいとメールで依頼したところ、快く承諾してくれた。しかし、締切り日が過ぎても紹介文が届かないので、やんわりと催促したら、マクベインは謝罪して、長い紹介文を寄せてくれた。あとで知ったことだが、〇二年にマクベインは喉頭癌手術を受けた。手術後、文字どおり声を失い、痛みで苦しんでいたのだ。そして、彼の要望により掲載誌を彼の自宅に郵送すると、すぐに航空便で丁重な礼状を書いてきてくれた。
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ホックからのメールのあと、ジェレマイア・ヒーリイがメールでマクベインの訃報を知らせてきた。オットー・ペンズラーがミステリ業界関係者たちに送信した訃報メールをおれにも転送してくれたのだ。ちょうど、その朝、マクベインが編纂した中篇アンソロジー Transgressions がやっと届いた。その日は、インターネット上でマクベインの死亡がどう取り沙汰されているのか調べるのに忙しかった。
ミスター・ハンター、楽しい思い出をありがとう。ミスター・マクベイン、あなたの小説を読んでいるあいだは、まだ青年の気持ちでいられます。\\