幻想の中の現実

(ビル・プロンジーニ『幻影』解説)

幻想  本書『幻影』(原題: Illusions)はビル・プロンジーニが一九九七年に発表した名無しの探偵ものの長編二十四作目である。

 九五年刊の『凶悪』が講談社文庫より刊行されたのは二〇〇〇年のことで、そのあともプロンジーニは一年に約一作のペースで名無しの探偵(以下、名無し)ものの長編を書き続けている(しかも、ノンシリーズ長編も一年に約一作のペースで執筆しているのである)。そのうえ、ノンシリーズ(「ささやかな願望」『ミステリマガジン』[以下、HMM]〇三年二月号)や西部探偵ジョン・クインキャノンもの(「暗殺団員」HMM一九九九年十一月号)のほか、名無しものの中短編も発表している。名無しものでは、「大きなひと噛み」(HMM〇二年二月号→DHC刊『アメリカミステリ傑作選2003』。〇二年刊の長編 Bleeders の一部)と「わかちあう季節」(『ジャーロ』〇三年冬号。細君マーシャ・マラーとの共作で、マラーの女性探偵シャロン・マコーンが共演。〇三年刊の長編 Spook の一部)が訳出されている。

       

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 本書では名無しの親友であり、パートナーだったエバハート(通称エブ)が「自殺」する。  エブは名無しとは警察学校時代からの親友で、名無しが警察をやめて私立探偵となったあとも、サン・フランシスコ市警にとどまって、名無しに警察内の情報を提供していた。八二年刊の『標的』(徳間文庫)で殺し屋に撃たれ、市警を辞職する(第八章で名無しが思い出す「九年前の八月のある月曜日の午後のこと」を参照)。

 八四年刊の『亡霊』(徳間文庫)で名無しのパートナーになるが、九二年刊の Epitaphs で名無しとの友情とパートナーシップが壊れたため、独立して、《エバハート調査サーヴィス》の事務所を構えた。本書の第一章にも登場するデイナ・マックリンと離婚したあと、オツムが弱く胸の大きいワンダとしばらく付き合っていた。不動産ブローカーのボビー・ジーンと結婚する計画を立てていたが、結局は結婚を取りやめた(結婚に言及した『凶悪』の巻末解説は間違い)。

 エバハートはある実在の作家を連想させるが、最後までファースト・ネームが明かされなかったのが残念である。

 ここで、久々に登場するボビー・ジーンのことも説明しよう。八八年刊の『報復』(徳間文庫)のプロローグで、ボビー・ジーンが紹介されている。本名はバーバラ・ジーン・アディスン。「サウス・カロライナはチャールストンの出で、二度の離婚経験者。サン・ラファエルの不動産ブローカーの秘書を務め、趣味はスキート射撃」(遠藤不二彦訳)である。最初の結婚は十八歳のときで、夫とともにテキサスに行ったが、十四カ月後に別れた。その数年後、エレクトロニクス・エンジニアと再婚し、夫と二人の娘とともにカリフォーニアのシリコン・ヴァレーに引っ越した。しかし、二人目の夫がホモセクシュアルとわかり離婚した。そのあと、長女パムの住む北カリフォーニアに移り住んで、不動産ブローカーの秘書という職を得たのだ。  名無しとケリーはボビー・ジーンに初めて会ったときから、意気投合した。

      
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 次に、本書で言及されるいくつかの出来事について簡潔に説明しよう。

 第一章で、「おまえは二百五十マイルも離れたところで、白人至上主義者どもに手こずっていた」とジョー・デファルコが名無しに言う。そして、第十二章で、「おれはその頃クリークサイドにいたし……」と名無しが保険屋のバーニー・リヴェラに言う。エバハートが名無しに電話をかけてきたときに、名無しがクリークサイドで調査していた事件は、九六年刊の Sentinels で語られている。

 第十一章で、「ケリーを守るためなら、殺人もいとわないだろうし----最近、もう少しで殺すところだった----彼女もわたしのために同じことをするだろう……」と名無しは思う。そして、第二十章で、「つい最近のことだけど、もう少しで殺すところだったわ、忘れないでちょうだい」とケリーが名無しに話す。九五年刊の『凶悪』での出来事である。第十八章で、ケリーと名無しが泊まるメンドシノ郡エルク近くの小さい宿屋は、『凶悪』でも宿泊したところだ。

 第十六章で、名無しは「友人であり、探偵仲間であり、免許を持ったパイロットでもあるシャロン・マコーン」に言及する。シャロン・マコーンはプロンジーニの細君であるマーシャ・マラーの創り出した女性探偵である。マコーンは七七年刊の『人形の夜』(講談社文庫)でデビューした。八二年にデビューした二人の人気女性探偵(サラ・パレツキーのV・I・ウォーショースキーとスー・グラフトンのキンジー・ミルホーン)よりも先に登場したので、マラーは「現代女性私立探偵小説の母」と呼ばれることもある。マラーとは、マコーンと名無しを共演させた八四年刊の『ダブル』(徳間文庫)など三作の長編を共作したり、八六年刊のミステリー・ガイドブック 1001 Midnights: The Aficionado's Guide to Mystery and Detective Fiction を共同監修したり、いくつかのアンソロジーを共同編纂したりしている。ちなみに、マラーはパイロット免許を持っている。

      
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 九七年刊の本書のあと、二〇〇〇年刊の Crazybone で、名無しと妻ケリーは孤児になった十歳の少女エミリーを養女として引き取る。〇二年刊の Bleeders で、名無しは死神と向き合う経験を味わい、探偵業から半ば引退しようと決心する。プロンジーニはこの作品でこのシリーズを終了させるつもりだったのだ。九六年刊の Sentinels よりこのシリーズをハードカヴァーで刊行していた版元キャロル&グラフ社が、どうしても作品をペイパーバック版で再刊しようとしなかったからだ。そして、版元がやっとペイパーバック版で再刊すると約束したので、プロンジーニはシリーズを続行することにした。

 〇三年刊の Spook で、六十一歳の名無しは半ば引退し、助手だった二十五歳のタマラ・コービンが同級パートナーとして実質的に探偵事務所の所長になる。そして、四十一歳の元警官ジェイク・ラニオンが実際に足と車を使って、聞き込み調査をする。構成も大きく変わり、名無しの一人称記述と、タマラとラニオンやほかの登場人物からそれぞれ見た三人称一視点記述が混ざる(タマラやラニオンは名無しを「ビル」と呼ぶ)。つまり、名無しだけではなく、タマラやラニオンの私生活が明らかになるわけだ。タマラは恋人ホレスに求婚されるが、一緒にフィラデルフィアに来てくれと頼まれて、悩む。シアトルから移ってきたラニオンには、サン・フランシスコに息子がいるが、息子のほうはラニオンに恨みを抱いている。

      
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 プロンジーニと名無しの探偵については、『凶悪』の巻末解説で詳しく紹介したのだが、『凶悪』を読んでいない方もおられるようなので、その巻末解説にあった名無しとプロンジーニの紹介文をほとんどそのままここに書き写させていただく。すでに読んだ方には、最後の段落へ進んでいただきたい。

 名無しの探偵は原書では "Nameless Detective" と記されている。日本では、「名無しのオプ」としばしば誤記されているが(原書には op という単語は出てこない)、オプ(op)とは operative (オペラティヴ。ダシール・ハメットは「オペレイティヴ」と発音したらしい)の短縮形で、本来は探偵社の雇われ探偵のことを指す。それで、コンティネンタル探偵社に勤めるハメットの探偵は、「コンティネンタル・オプ」と呼ばれるのである。

 プロンジーニはハメットやレイモンド・チャンドラーに大いに影響を受けている。それで、ハメットの名無しの中年探偵にあやかって、自分の探偵に名前を与えなかったんだと考える人は多いが、プロンジーニはこう述べている。「名前がついていない理由は適当な名前が考えられなかったからだ。一作目を書いている時、いい名前が浮かんでこなかった。おれ自身にほかの名前をつけるようなもんだな。彼の本当の名前はビル・プロンジーニなんだ」(木村二郎著『尋問・自供』[早川書房]収録のインタヴューを参照)
 
 それで、コリン・ウィルコックスとの共作『依頼人は三度襲われる』(七八年刊の五作目)では、ウィルコックスのヘイスティングズ警部補が名無しのことを「ビル」と呼んでいる。九八年刊の二十五作目 Boobytrap では、チャック少年が名無しを「ビル」と呼んでいる。そして、名無し自身が自分のことをイタリア人だと言っているので、やはり名無しの本名はビル・プロンジーニなのだ。ちなみに、マーシャ・マラーとの共作『ダブル』(八四年刊の十三作目)では、マラーの探偵シャロン・マコーンは名無しを「ウルフ」(ローン・ウルフ、一匹狼の短縮形)と呼んでいる。しかし、プロンジーニの名無しの探偵は、ハメットのコンティネンタル・オプよりも、むしろトマス・B・デューイの名無しの探偵“マック”(『非情の街』ハヤカワ・ミステリ、『涙が乾くとき』河出書房新社)に近い。  

 名無しはサン・フランシスコのノエ・ヴァレー地区で育ち、大学を中退して、陸軍では軍事諜報部の下士官として務めるめる。サン・フランシスコ市警で十五年勤務してから(最後の四年間は殺人課刑事)、独立する。趣味はパルプ・マガジン収集(九五年刊の二十二作目『凶悪』で結婚するケリーと出会ってからは、パルプ・マガジンを読む場面は無きに等しい)と釣りとスポーツ観戦とフィルム・ノワール鑑賞。事務所にバーボンのびんは置かず、普段はビールを飲む。 名無しが初めて登場した作品は、《アルフレッド・ヒッチコックス・ミステリー・マガジン》(AHMM)六八年八月号掲載の「誤射」(HMM八四年十一月号)である。AHMMに掲載された数編の作品に登場したあと、AHMM六九年五月号に掲載された短編を長編化した一作目『誘拐』を七一年に発表し、七三年には二作目『失踪』と三作目『殺意』を上梓した。そのあとは、AHMMのほか、《エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン》、《マイク・シェイン・ミステリー・マガジン》、《アーゴシー》などに中短編を寄稿しながらも、一年に約一作のペースで長編を発表する。『小説新潮』には書き下ろし中編を四編寄稿したこともあるし(八四年に中編集『名無しの探偵事件ファイル』にまとめられる)、中短編を長編化することもたびたびある。

 初期はヘヴィー・スモーカーだったので、肺癌を心配してたのだが、七七年刊の四作目『暴発』で良性の腫瘍だとわかり、そのあとは禁煙する。八四年刊の十二作目『亡霊』より、警察学校からの親友で、サン・フランシスコ市警殺人課の警部補だったエバハートをパートナーにするが、喧嘩別れをして、現在では元の一匹狼に戻った。

 九五年刊の『凶悪』で名無しは六十歳に手が届く年齢に達し、八一年刊の七作目『脅迫』で出会ったケリー・ウェイドとついに結婚式を挙げる。しかし、二人はめいめいの住居を手放していないから、住居は二つあるわけだ。

 そして、コンピューターを使えなければ、使える人間を雇うべきだと労災保険局員に言われて、パートタイムのコンピューター専門家タマラを雇う。タマラ・コービンは女子大生(おっと、失礼、“女性大学生”と呼ばないといけないんだった)で、頭が切れる。タマラがぶっきらぼうなしゃべり方をする理由については簡潔に説明できないので、ぜひとも『凶悪』のほうも読んでいただきたい。

      
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 ウィリアム(通称ビル)・ジョン・プロンジーニは一九四三年にカリフォーニア州ペタルーマに生まれた。サンタ・ローザ短期大学を中退してから、六〇年まで《ペタルーマ・アーガス・クーリエ紙》で記者として勤務する。作家をめざし、六五年に短編がやっと雑誌に売れる(《シェル・スコット・ミステリー・マガジン》六六年十一月号掲載のYou Don't Know What It's Like)。そのあと、新聞売り、倉庫番、タイピスト、セールスマン、連邦保安官事務所の民間警備員などの職を転々としながら、小説を書き続ける。

 処女長編は七一年刊のサスペンス小説 The Stalker で、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)のエドガー賞にノミネートされる。そして、同年に名無しの探偵もの長編第一作『誘拐』も発表する。六六年に一人目の妻ローラと離婚したあと、マジョルカ島に移り、そこで知り合ったツアー・ガイドのブルーニと一緒にドイツに行って、七二年に結婚する。七四年に二人目の妻ブルーニと一緒にサン・フランシスコに戻り、執筆活動を精力的に続ける。 

 アレックス・サクスンとか、ジャック・フォックス(冒険者ダン・コネルもの)というペンネームも使って、名無しの探偵もののほか、サスペンス小説(『パニック』TBS出版会、『マスク』創元推理文庫)、ウェスタン小説、SF小説、ホラー小説を書き続け、ロバート・ハート・デイヴィス(チャーリー・チャンものの中編)とか、ブレット・ハリデイ(マイク・シェインものの中編)というハウス・ネームも使った。

 ほかの作家との共著も多く、マーシャ・マラー(『ダブル』)やコリン・ウィルコックス(『依頼人は三度襲われる』)のほか、バリー・N・マルツバーグ(『裁くのは誰か?』創元推理文庫、『決戦! プローズ・ボウル』新潮文庫)、ジョン・ラッツ、ジェフリー・ウォールマン、政治コラムニストのジャック・アンダースンとも共作している。

 編纂者としても有名で、七六年刊の『現代アメリカ推理小説傑作選1』(立風書房)が彼の編纂した初めてのアンソロジー(ジョー・ゴアズとの共編)で、そのあと、単独でも共同でも(共編者はマラー、マルツバーグ、エド・ゴーマン、マーティン・H・グリーンバーグなど)アンソロジーを数え切れないほど多く編纂していて、『エドガー賞全集』(早川文庫)と『1ダースの未来』(講談社文庫。マルツバーグとの共編)が日本でも紹介されている。

 ミステリー研究家でもあり、八二年刊の Gun in Cheek: A Study of "Alternative" Crime ではB級ミステリーの歴史を書いて、MWAのエドガー評伝賞にノミネートされた(八七年に続編 Son of Gun in Cheek を、九六年にウェスタン編 Sixgun in Cheek を上梓)。マーシャ・マラーと共同監修した八六年刊の 1001 Midnights: The Aficionado's Guide to Mystery and Detective Fiction もエドガー評伝賞にノミネートされた。  八一年刊の名無しものの七作目『脅迫』と、八三年発表の短編「ライオンの肢」(HMM八三年十月号)と、九八年刊の Boobytrap でアメリカ私立探偵作家クラブ(PWA)よりシェイマス賞を受賞した。そして、八七年にはPWAより功労賞ともいうべきジ・アイ賞を受賞。

 九二年に、『ダブル』の共著者であるマーシャ・マラーとついに結婚し、サン・フランシスコ近郊のソノマ郡ペタルーマに住んでいる。

      
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 日本ではつい最近、七四年刊のノンシリーズ作品『雪に閉ざされた村』(扶桑社ミステリー文庫)や七六年に刊行されたバリー・N・マルツバーグとの共著『嘲笑う闇夜』(文春文庫)が訳出された。

 〇三年には名無しものの長編 Spook と名無しもの第三短編集 Scenarios のほか、ノンシリーズの長編 Encounter Darkness とバリー・N・マルツバーグとの共作短編集 Problems Solved が出た。

 現在、プロンジーニは名無しの探偵ものの次作 Nightcrawlers を執筆中である。

  二〇〇三年七月

[名無しの探偵もの単行本リスト]
1 The Snatch (1971)『誘拐』新潮文庫
2 The Vanished (1973)『失踪』新潮文庫
3 Undercurrent (1973)『殺意』新潮文庫
4 Blowback (1977)『暴発』徳間文庫
5 Twospot (1978)『依頼人は三度襲われる』文春文庫 コリン・ウィルコックスと合作(ヘイスティングズ警部補と共演)
6 Labyrinth (1980)『死角』新潮文庫
7 Hoodwink (1981)『脅迫』新潮文庫 シェイマス賞受賞
8 Scattershot (1982)『迷路』徳間文庫
9 Dragonfire (1982)『標的』徳間文庫
10 Bindlestiff (1983)『追跡』徳間文庫
* Casefile (1983) 第一短編集
11 Quicksilver (1984)『復讐』新潮文庫
12 Nightshades (1984)『亡霊』徳間文庫
13 Double (1984)『ダブル』徳間文庫 マーシャ・マラーと合作(シャロン・マコーンと共演)
* Nameless Detective's Casefile (1984)『名無しの探偵事件ファイル』新潮文庫 日本で独自に編纂した中編集(四編収録)
14 Bones (1985)『骨』徳間文庫
15 Deadfall (1986)『奈落』徳間文庫
16 Shackles (1988)『報復』徳間文庫
17 Jackpot (1990)
18 Breakdown (1991)
19 Quarry (1992)
20 Epitaphs (1992)
21 Demons (1993)
22 Hardcase (1995)『凶悪』講談社文庫
23 Sentinels (1996)
* Spadework (1996) 第二短編集
24 Illusions (1997)『幻影』講談社文庫 本書
25 Boobytrap (1998) シェイマス賞受賞
26 Crazybone (2000)
27 Bleeders (2002)
28 Spook (2003)
* Scenarios (2003) 第三短編集
29 Nightcrawlers (2004)
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これは木村二郎名義で翻訳したビル・プロンジーニの『幻影』(講談社文庫、2003年8月刊、752円)の巻末解説であり、自称ミステリー研究家の木村仁良が書いている。訳者の希望する日本タイトルは『幻想』だったのですけどね。増刷になるように、皆様方の盛大なご声援をお願いします。(ジロリンタン、2003年8月吉日)

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