これであなたもゴーストライターになれる
(ドナルド・E・ウェストレイク『鉤』解説)
本書『鉤』The Hook (Mysterious Press, 2000)は、『斧』(文春文庫)と同じく、不運な泥棒ドートマンダーもの(『骨まで盗んで』ハヤカワ文庫)でもないし、ドタバタ小説でもない。『斧』がアメリカ雇用事情を風刺していたとすれば、本書はアメリカ出版事情を風刺している。
巻末の「解説」から先に読まれる方も多いと思うので、指摘される前にここで断わっておこう。本書の原題はもちろん「鉤」という意味であるが、本書の場合は編集者のジョー・カッツが言うように、「売れる要素」という意味である。「読者や観客を引きつける要素、工夫」ということで、残念ながら、一口で表現できる適切な日本語が見つからなかった。一番近いところで、「セールス・ポイント」とか「売り」という言葉があるので、「売り」にルビを振って、あとは「フック」のままで通した。もし適切な業界用語をご存じの方がいれば、編集部気付でお知らせいただければ幸いである。「ツカミ」(英語で grab)という言葉があるが、これは作品の冒頭で読者や観客の興味をつかむ具体的な箇所を指しているので、「フック」とは少し意味が異なる。
「フック」とは、あまりにもたくさんの作品がある中で、その作品を商品として買ってもらうための個性的で魅力的な特徴を指す。ただ文章が見事だとか、人物描写が巧みだというだけでは、読者は買ってくれない時代なのだ。相棒が殺されたあと、主人公の探偵は相棒の女房との関係を絶ち、女性依頼人と関係を持つとか、連続猟奇殺人犯の心理分析をするのは、なんと精神分析医の連続殺人犯だとか、長年勤めた製紙会社をクビになった主人公は再就職を目指して、ライヴァルたちを次々に殺していくとかいうのが、「フック」である。
面白いことに、イギリスの出版元《ロバート・ヘイル社》が The Hook というタイトルを嫌ったために、本書のイギリス題名は Corkscrew になった。本書では、ワインを飲む場面はあるが、「コルク抜き」という言葉はたぶん登場しないと思う。登場するのかしないのか、読者の皆様にぜひ確かめていただきたい。
本書は『斧』(宝島刊『このミステリーがすごい! 2002年版』でベスト・ミステリー第4位)の姉妹編と銘打たれているが、本当にそうだろうか? 『斧』の主人公は中間管理職をリストラされた男であり、本書の主人公は書いた小説を出版社に買ってもらえない作家(つまり、仕事のないフリーランサー)である。『斧』のバーク・デヴォアも本書のウェイン・プレンティスも、生活費をもたらしてくれる仕事を得るために、過激な行動に出るので、状況が似ていなくはない。これで、いちおう「看板に偽りあり」という苦情は出ないよね?
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献辞ページで言及される「文芸代理人」だが、日本では馴染みの薄い職業なので、簡潔に説明しよう。英語で literary agent といい、日本の出版界では「版権エイジェント」と呼ばれることもあるが、実際は「版権」以外のことも扱っている。(長編小説でも短編小説でもノンフィクションでもいいから)作品を書くと、自分でいろいろな出版社か雑誌社に売り込む作家もいるが、たいていの作家は文芸代理人に頼んで、出版社や雑誌社に売り込んでもらったり、契約の交渉をしてもらったりする。そのほか、「商品価値」を高めるためのアドヴァイスを受けたり、海外出版権や翻訳権を扱ってもらったりもする。手数料は十から十五パーセント。本書のブライスのように、「映画関係の契約を扱ってくれるエイジェントを西海岸に持っている」(第26章)作家もいる。ちなみに、本書の映画化権は売れていて、フランス人のエリック・ゾンカが脚色・監督するらしい。
現在、ウェストレイクには文芸代理人がいない(つい最近まではノックス・バーガーがそうであった)。ウェストレイク自身、エド・マクベインやローレンス・ブロックなどと同じように、大手文芸代理店《スコット・メレディス》で閲読係をしていたことがあり、作家として四十年以上のヴェテランであるので、出版界の状況や変遷については詳しいし、多くの作家を知っている。作家を主人公にしたウェストレイクのメタ・フィクションは、ほかに一九七〇年刊の Adios, Scheherazade(主人公はなんとポルノ作家)と八四年刊の『ニューヨーク編集者物語』(扶桑社文庫)がある。
スランプで小説の書けないブライスが現実のRL(仮のイニシャル。あとが恐ろしくて実名は書けない)とどう違うのか、小説を書いても出版社に買ってもらえないウェインが現実のJS(仮のイニシャル。あとが恐ろしくて実名は書けない)にどれほど似ているのか、ブライスの小説をハリウッド映画のフランチャイズにしようとする俳優ジョージ・ジェンキンズが現実のMG(仮のイニシャル。あとが恐ろしくて実名は書けない)にどれほど近いのか、読者の皆様にぜひ見極めていただきたい。
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ここで、息抜きに少し世間話をしよう。
第2章で、スーザンは「手にしていた《バルドゥッチ》の白と緑のショッピング・バッグをカウンターに置いた」とある。グリニッジ・ヴィレッジにあった高級食料品店《バルドゥッチ》は、二〇〇三年一月に残念ながら店を閉じた。一代目のミスター・バルドゥッチが亡くなり、遺族が権利を他人に売り渡したあと、家賃が法外に高くなり、閉店せざるを得なくなったのだ。アップタウンに支店があるのだが、《バルドゥッチ》と言えば、ヴィレッジの本店しかない。ローレンス・ブロックやS・J・ローザンなどのニューヨーク在住作家の小説にもしばしば登場する有名な食料品店だった。
第15章では、ブライスがいろいろなストーリーを考えている。その中で、「この不動産屋を女にするか?」と自問する箇所がある。リチャード・スターク名義の最近の悪党パーカーものに、女性不動産屋が登場しなかったっけ?
そのほか、ウェストレイクがボツにしてしまったような小説のアイディアがたくさん提示される。ウェストレイクがかつてジェイムズ・ボンド映画に関わったという噂も耳にしたことがある。
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二〇〇二年二月のこと、本書の翻訳者はミステリー・ファン団体である《SRの会》主催の創立五〇周年記念大会に招かれ、四人の有名作家先生と共に壇上にのぼった。そのときにこういう質問を受けた。「一番訳しにくかった作家と、一番訳しやすかった作家は誰ですか?」「一番訳しにくかった作家はドナルド・E・ウェストレイクです」と翻訳者は答えた。ウェストレイクの使う英語の単語がとくにむずかしいというわけでもないのだが、英語の構文が読みやすい日本語に訳しにくいのだ。
本書の作者ウェストレイクについては、『斧』の巻末でこの解説子が簡潔に紹介しているので、本書を読んで興味を持った方は、なるべく『斧』を購入して、そちらの作者紹介を読んでいただきたい。
ここで、ウェストレイクと崩壊した世界貿易センターとの関係を紹介しよう。〇二年にウェストレイクは《アメリカ脚本家同盟》よりイアン・マクリラン・ハンター特別賞を受賞したのだが、そのときの授賞式プログラムにこういうようなエッセイを寄稿した。数年前に、ウェストレイクはロシアからニューヨークに初めて来た友人を連れて、世界貿易センターの展望台にのぼった。ニューヨーク周辺の景色を見おろしたあと、エレヴェーターのほうに戻る途中、一方の壁に有名なニューヨーカーたちの名前が何本もの線のようにABC順に連なっているのに気づいた。その中になんとウェストレイクの名前があったのだ。世界貿易センターが破壊された今も、地上一〇四階の空中に自分の名前が残っていると、ウェストレイクは信じている。
ウェストレイクは一九九七年刊の『斧』のあと、二〇〇〇年にはオットー・ペンズラーと共に『アメリカミステリ傑作選2002』(DHC)を編纂した(ウェストレイクがアンソロジーを編纂するのはごく稀である)。〇一年にドートマンダーものの長編第十作 Bad News と、リチャード・スターク名義で悪党パーカーもの復帰第四作 Firebreak を発表した。〇二年には、ノンシリーズの Put the Lid on It(ウォーターゲイト事件の現代版) と、スターク名義でパーカーものの Breakout と、ジャドスン・ジャック・カーマイクル名義(もっとも新しいペンネーム)でコミカル・ミステリー小説 The Scared Stiff を上梓した。
〇三年に刊行される Money for Nothing というサスペンス小説では、ジョッシュ・レッドモントという普通の男が《合衆国エイジェント》という正体不明の団体から一千ドルの小切手を受け取る。その団体の正体も住所も突きとめられず、毎月送られてくる一千ドルの小切手が当然のことのように思い始めてくる。そして、七年後に突然《合衆国エイジェント》の男がジョッシュの前に現われるのだ。
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ちなみに、本書の翻訳者にとって一番訳しやすかった作家は誰かという質問の答えは、リチャード・スタークであった。
二〇〇三年四月
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これは木村二郎名義で翻訳したドナルド・E・ウェストレイクの『鉤』(文春文庫、2003年5月刊、667円)の巻末解説であり、自称ミステリー研究家の木村仁良が書いている。増刷になるように、皆様方の盛大なご声援をお願いします。(ジロリンタン、2000年5月吉日)
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