フォーチューンの運命
Fortune's Fortune
〈ベティーズ〉のカウンターで、ワイルド・ターキーのストレートにソーダのチェイサーをつけて飲んでいると、三十前後の美女がおれの左隣のスツールに腰かけた。女は聞き慣れないカクテルを注文して、右手で黒いハンドバッグから十ドル紙幣を一枚取り出し、カウンターの上に置いた。
バーテンダーはそのカクテルの作り方を女に尋ねてから、ビーフィーター・ジンとホルスのブルー・キュラソーとグリーン・ミントとレモン・ジュースを掻き混ぜて、カクテル・グラスに注ぎ、女の前に置いた。そして、十ドル紙幣を指先でつかんで、一ドル紙幣八枚を返した。
〈ベティーズ〉はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにあるレストランで、安くてうまいものを食べさせてくれる。ローレン・“ベティー”・バコールのポスターや写真が壁じゅうに貼りつけてある。内装は映画《脱出》の〈ジェラールズ・カフェ〉をかなり模倣していた。
「ねえ、あなた、ここの常連?」女はブルー・グリーンのカクテルを一口味わってから、おれに話しかけた。若い頃のアンディー・ウィリアムズを連想させるような、少し男性的な声だが、ハスキーに聞こえる。
「いや、バーテンダーの悩み事を聞いてやって、そのうえ、カネを払ってる」おれはワイルド・ターキーをまた一口飲んだ。
「ここによく私立探偵がたむろするらしいから、あなたも探偵さんかと思ったのよ」口はおれの好みより少し大きく、眉毛は好みより少し長く、緑色の目は好みより少し鋭い。
「いや、おれは探偵じゃないが、ここに来る探偵連中とは顔馴染みだ」
女はにこっと微笑を浮かべた。寒くもないのに、ソーダ・グラスを持つおれの手がかすかに震えた。「じゃあ、ダン・フォーチューンとかマット・スカダーなんか、ご存じ?」
「ああ、マット・スカダーは禁酒してしまって、ここにも〈アームストロングの店〉にも来なくなったけどね」
「それで、フォーチューンはここによく来るの?」肩まで垂らした金髪の上に赤いベレー帽をのせ、白地に黒い千鳥格子のスーツを着ている。白いブラウスの襟元に真っ赤なスカーフ。
「ほらっ、あのバーテンダーはフォーチューンの友だちだ。フォーチューンはチェルシーにある〈ボギーズ〉にもよく行くね。昔はアイリッシュ・ウィスキーを飲んでいたが、最近はベックス・ビールを好むようだ」
「フォーチューンの恋人だったマーティーはどうしたの?」
「ああ、マーティーね。懐かしい名前だな。『虎の影』事件のときに、フォーチューンと別れたんだ。『ひきがえるの夜』事件で、入院中のフォーチューンを見舞いに来たときに、カート・レストンという演出家と一緒だったのを覚えてるかい?」
女は軽くうなずいて、カクテルを飲み干し、右の人さし指をバーテンダーのジョー・ハリスに見せて、もう一杯注文した。
「マーティーは結局レストンと結婚して、西海岸に引っ越したんだ。八〇年の The Slasher 事件で、フォーチューンはマーティーに呼ばれて、LAへ行った。マーティーはレストンと別れて、脚本家のウィリアム・デッカーと再婚した。その旦那の姪が連続刺殺魔の犠牲者になったようなのだが、どうも犯人は別にいるらしいというので、フォーチューンに捜査を依頼した」
「フォーチューンって可哀想ね。女運が悪くって」
「いや、そのとき、ケイ・マイクルズという美人モデルと出会って、仲良くなったんだな。フォーチューンが仕事で西海岸へ行くときとか、ケイがニューヨークへ仕事で来るときには会っている」
「へええ、そうなの。それに、警部さんがいたわね。フォーチューンのお母さんと関係があったという」女は右手の指先でグラスのステムを撫でた。
「ガッゾー警部か。ガッゾーは七八年の The Nightrunners 事件で殉職した。ピアス警部がその後釜だ。ピアスは初めのうち、フォーチューンをだいぶ嫌ってたようだが、だんだん丸くなってきた」
「へええ、知らなかったわ。でも、まだチェルシー地区に住んでるんでしょ? そこで会えるかしら?」
「いや、八八年の Red Rosa 事件で、八番街にあるフォーチューンの住むビルディングが爆破されてしまった。今は新しいビルディングを建設中で、あいつはもうそこにいない」
「じゃあ、どこに行ったの?」
「さあ、おれにもそこのジョーにも何も言わずに消えてしまった。恋人のケイと一緒に西海岸に行ったのかもしれない。ケイの稼ぎのほうがいいからな」
「でも、フォーチューンのことだから、きっとニューヨークに戻ってくるわよ」
「さあ、おれにはわからないね。あいつも、六七年の『恐怖の掟』事件のときからだいぶ変わったからな」
「例えば?」女はニ杯目のカクテルを飲み始めた。
「あの頃は、内省的で、暗かった。比喩がアーチャーみたいだぜと言ってやったこともある。最近は、失った左腕のことでくよくよ悩まなくなったし、明るくなった。それに、フォーチューンの事件簿の代作をしているマイクル・コリンズは、フォーチューンの登場しない三人称記述の文章を挿入し始めた」
「そう、フォーチューンにもスカダーにも会えないなんて、残念だわ」おれの好みより少し長めの顔には、失望の色が見えた。
「フォーチューンに急用なのかい?」
「元アル中のマット・スカダーでもいいんだけど、とちらかと言えば、フォーチューンに仕事を頼みたいのよ」
「へええ、あいつのどこがいいのかな」おれはワイルド・ターキーのお代わりをジョーに頼んだ。
「あなたには、わからないでしょうよ」突然、女は初めて憤慨した様子で立ちあがり、カウンターに残った数枚の一ドル紙幣を右手で握ると、〈ベティーズ〉から出ていった。
そのとき、初めて、女の左手が見えないことに気がついた。
これは『ミステリマガジン』に寄稿した会話型式のエッセイだが、何年の何月号に寄稿したのが確かではない。一九九〇年前後に会話型式のエッセイをよく書いたので、「私立探偵特集号」か「ハードボイルド特集号」か「マイクル・コリンズ特集号」に寄稿したのかもしれない。これも2021年刊の会話型式によるエッセイ集『おれってハードボイルド探偵なの?』に収録したかったエッセイなのだが、3年前には見つからなかった原稿を最近になってやっと見つけたのだ。(ジロリンタン、2024年5月吉日)
[付記]このページを読んでくださった読者からのご教示により、これが『ミステリマガジン』一九八九年四月号「現代のプライベート・アイ特集号」に掲載されたエッセイであることがわかった。同号にコリンズのフォーチューンもの短編「白雪と黒犬」が訳載されている。その読者さんに感謝です。(ジロリンタン、2024年10月吉日)
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