腕のいい怪盗には盗みをさせよ
(エドワード・D・ホック『怪盗ニック全仕事6』解説)
ああ、ついにお別れを言うときがきた。
泣いても笑っても----しくしく、はははは----怪盗ニックものの短編集はこれが最後である。《エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン》(EQMM)一九六九年九月号の「斑の虎を盗め」での初登場から同誌の二〇〇七年九月・十月合併号掲載の「仲間外れのダチョウを盗め」まで、四十年余り続いた怪盗ニック・ヴェルヴェットの活躍が読めるの短編は全部で八十七遍。『怪盗ニック全仕事』全六巻では、その八十七編を年代順に収めてきた。これだけ続けられたのも、エドワード・D・ホック愛読者や怪盗ニック支持者のお蔭である。
本書『怪盗ニック全仕事6』には、一九九七年から二〇〇七年までに発表された怪盗ニックものの短編が十四編収録されていて、改訳(旧短編集の新訳を含め、訳者自身の翻訳を改めて直したもの)が五編と、新訳(すでに翻訳があるものを本書の訳者が新たに訳したもの)が一編と、初訳(初めて日本語に翻訳したもの)が八編ある。
この巻末解説では、いつものように、収録作品に注釈を加えてみよう。
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第七十五話の「グロリアの赤いコートを盗め」では、ガールフレンドのグロリアが一九六五年十一月にニックと初めて出会った経緯が彼女の視点から描かれる。しかも、グロリアが謎を解くという珍しい作品だ。珍しいのはそれだけではない。グロリアのラストネームが明かされるのだ。冒頭で、彼女は「グロリア・プロクターという二十代前半の若い娘だった」と自己紹介している。
おいおい、ちょっと待ってくれよ。第一巻の巻末解説には、ニックが「三十代のガールフレンド、グロリア・マーチャントと一緒に住んでいる」と書いてあるではないか。そうなんだが、それは一九七一年に刊行された暗号解読専門家ジェフリー・ランドもの短編と怪盗ニックもの短編が七編ずつ収録された作品集 The Spy and the Thief の編纂者エラリー・クイーン(実際にはフレデリック・ダネイ一人)が書いたニックの「素性調査報告書」から引用したものだ。作者のホックがクイーンに伝えた情報だと考えられるが、怪盗ニック活躍譚の本文中には、それまでのグロリアのラストネームはどこにも記されていなかった。ということで、彼女の本当のラストネームは「マーチャント」ではなく、「プロクター」だと判断してもいいだろう。
じつのところ、このことに解説子が気づいたのは二年前のことだ。第四巻収録の「消えた女のハイヒールを盗め」に、グロリアの兄アーニーが依頼人として初登場するが、主要登場人物としては珍しく、ラストネームが記されていない。そのときに、本編でグロリアがフルネームを明かしていたことを思い出して、この衝撃的な「事実」に直面したのだ。しかし、自慢できる話ではない。本編が『EQ』一九九八年十一月号に訳載されたときにも、解説子は作品解説を書いたのだが、そのときには、恥ずかしながら、まったく気がつかなかったのだ。
ちなみに、グロリアが勤めた〈ネプチューン・ブックス〉は、ホックの創造したオカルト探偵サイモン・アークものでナレーター役の「わたし」が勤める出版社であり、「わたし」は編集者から編集部長、発行人へと出世していく。
第七十八話の「浴室の体重計を盗め」では、「ニックの飛行機は正午すぎに〈テキサス州)オースティン・バーグストロム国際空港に着陸した」とあるが、二〇〇一年にEQMMに発表された原文では、「Muller Airport に着陸した」となっている。オースティンの有名なドイツ系市会議員ロバート・ミューラー(二〇一〇年代後半の特別検察官とは同名異人)に因んでつけられたこの空港は、一九九五年に閉鎖される前、地元民はなぜか「ミラー空港」と呼んでいたが、非地元民は「ミューラー空港」と呼んでいたらしく、とにかく発音がややこしかった。二十一世紀のニックには、別の場所に建設されたオースティン・バーグストロム空港のほを使ってもらうことにした。発音とか表記で混乱を招くこともないしね。
第七十九話の「劇場の立て看板を盗め」は、初出が通常のEQMMではなく、クラウディア・ビショップ(本名メアリー・スタントン)&ニック・ディカリオ共編の Death Dines at 8:30 というオリジナル・アンソロジーである。二〇〇一年にバークリー社からハードカヴァーで刊行され、タイトルどおり、ディナーをテーマにしている。寄稿した作家には、バイバラ・ダマトやマイク・レズニック、ダイアン・モット・デヴィッドソン、ビル・クライダー(収録作品でアンソニー短編賞受賞)が含まれる。それに加え、作品の終わりには作家によるレシピがつくという趣向だ。ホックは料理ができなかったから、奥さんのパトリシアが考えたレシピだろう。
第八十二話の「ダブル・エレファントを盗め」には、ニックものの準レギュラーが二人も顔を出す。ライヴァルであるサンドラ・パリスと、元ニューヨーク市警刑事のチャーリー・ウェストンである。ウェストンは第五巻収録の「二十九分の時間を盗め」に続いて五度目の登場を果たす。しかも、古巣のニューヨーク市警に刑事部長として戻っている。
本編を二〇〇四年刊の短編集『怪盗ニック対女怪盗サンドラ』に収録しようと決めたときには気づかなかったうえに、九四年発表の「二十九分の時間〜」リアルタイムで読んだことをすっかり忘れていた。その短編でウェストンは警官らしからぬ衝撃的な行動を取ったのだが、本編ではニックもウェストンも(ホック自身も)そのことを忘れているようだ。読者の皆さんには、この二編を読み比べて判断していただきたい。
第八十四話の「くしゃくしゃの道路地図を盗め」にも、準レギュラーのサンドラが登場する。第四巻以前のチェックリストには、サンドラ登場を示すSPマークがついていなかったが、一年前にそのことに気づき、第五巻からSPマークをつけた。リアルタイムでEQMM発表当時の短編を読んでいたはずだが、これもすっかり忘れていたことをお詫びする。
第八十五話の「最高においしいアップル・パイを盗め」では、「収益金は4Hクラブに寄付されます」と郡祭りの組織委員会会長がニックに話す。「4Hクラブ」という名称は、五十年ほど前のTV番組《名犬ラッシー》を観ていた年輩の方にとっては懐かしいかもしれないが、若い読者にはどういうものなのか見当もつかないだろう。
硬い芯の鉛筆とは関係なくて、研究社刊の『リーダーズ英和辞典』によると「head, heart, hands, health の向上をモットーに農業技術の向上と公民としての教育を主眼とする農村青年教育機関の一単位」と説明してある。つまり、個人の潜在能力を伸ばすために、頭と心と両手と健康(四つのH)を通じて、農業を営む家庭の青少年たちに実用的な教育や親睦を提供する非営利組織であり、日本では「農業青年クラブ」と呼ばれている。
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古い記録を調べてみると、訳者が初めて手がけた怪盗ニックものは『ミステリマガジン』一九七三年十二月号訳載の第二十一話「カッコウ時計を盗め」だった。それ以来、ホックの作品は数えきれないほど翻訳させていただいている。二〇〇八年一月にエド・ホックが亡くなってから、もう十年余りたつが、これからもホックの作品が日本の読者の皆さんに読み続けられ、できればもっと翻訳されることを切に望む次第である。
この『怪盗ニック全仕事』全六巻のほか、『サム・ホーソーンの事件簿』全六巻や『サイモン・アークの事件簿』全五巻、ノンシリーズ短編集『夜はわが友』を読んでくださった方々、お薦めくださった作家や書評家、書店員の方々には、改めて感謝する。誠にありがとうございました。
ということで、最後の最後に、いつものとおり、ニック・ヴェルヴェット・シリーズの最新チェックリストを挙げておく。
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[註=完全チェックリストを見たい方は、現物の巻末を参照してください。]
二〇一九年一月
これは木村二郎名義で翻訳したエドワード・D・ホックの『怪盗ニック全仕事6』(創元推理文庫、2019年1月刊、1300円+税、電子書籍もあり)の巻末解説であり、自称研究家の木村仁良が書いています。『怪盗ニック全仕事』はこの第6巻で完結です。これまでの御支援を感謝いたします。これからもエド・ホックの作品が翻訳されることを切に祈ります。全作品を読んでいただけましたら幸いです。(ジロリンタン、2019年1月吉日)
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