怪盗を捕らえてみれば女なり
(エドワード・D・ホック『怪盗ニック全仕事4』解説)
おっと、巻末解説に女性蔑視だと見なされそうなタイトルをつけてしまった。
しかし、本書『怪盗ニック全仕事4』の収録作品が発表された八〇年代は、現代女性が心身ともに強い主人公として注目を浴びた時代なのである。それまでのアクション系ミステリー小説では、私立探偵や刑事や殺し屋や怪盗やスパイなどの行動的な主人公の地位を男性がほとんど独占していたが、八〇年代から女性も活劇場面をこなす作品が増えていったのだ。本書を読んでいただければ、こんなタイトルをつけた理由を理解していただけるだろう。
第四巻には、ニック・ヴェルヴェットものの短編が十五編収録されていて、改訳(旧短編集の新訳を含め、訳者自身の翻訳を改めて訳し直したもの)が四編と、新訳(すでに翻訳があるものを本書の訳者が新たに訳したもの)が五編と、初訳(初めて日本語に翻訳したもの)が六編ある。
本書でも巻末解説のスペースがごく限られているので、収録作品の注釈を短かめに加えてみよう。
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第四十五話の「白の女王のメニュー」には、これからニックの商売敵として準レギュラーになる女怪盗サンドラ・パリスが初登場する。『ニック全仕事』全六巻の後半部の冒頭を飾るのにふさわしいと編集担当者が考えてくれたのだ。
そのうえ、もう一人の準レギュラーが登場している。本編のチャーリー・ウェストンはアトランティック・シティーのカジノ警備部長だが、「真鍮の文字を盗め」ではニューイングランド地方のイーストブリッジ警察の警部補だったし、「くもったフィルムを盗め」では〈全国宝石協会〉の特別捜査員だった。
第四十七話の「ハロウィーンのかぼちゃを盗め」では、イーグルズ対ラムズのフットボール試合がプロットに大きく関係する。イーグルズの本拠地はペンシルヴェニア州フィラデルフィアだが、ラムズは本拠地をしばしば変えている。一九三七年にオハイオ州クリーヴランドで結成されたが、四六年にカリフォーニア州ロスアンジェルスに移り、本編が発表された八五年にはまだLAにいたが、九五年にミズーリ州セントルイスに移り、二〇一六年からLAに戻ってきている。通常、プロ・フットボール試合は日曜日の午後に行なわれるのだが、七〇年から毎月曜日の夜にABC- TVで一試合ずつ生放送された。二〇〇六年からはスポーツ専門チャンネルのESPNが生放送している。
第四十八話の「図書館の本を盗め」には、女怪盗サンドラが再登場する。サンドラはこのあと、「紙細工の城を盗め」と「色褪せた国旗を盗め」にも顔を出す。ニックが盗んでほしいと依頼されるダシール・ハメットの『影なき男』のハードカヴァー廉価版は、一九三四年一月刊のクノッフ刊初版とは異なる。その頃はまだペイパーバック廉価版がなく、かわりに再版専門のハードカヴァー出版社があった。初版のジャケットには赤版と緑版の二種類があり、右三分の二は痩身のハメットが“影なき男”に扮した白黒写真が占め、左三分の一は赤地もしくは緑地に THE-THIN-MAN という黒文字が下から上にはいる。背の下部には、ボルゾイ犬マークの下に『アルフレッド・A・クノッフ』と記されている。初版には誤植が一箇所あり、当時の“猥褻語”のせいで、カナダ版は“訂正”が一箇所あった。同年に再版されたグロセット&ダンラップ版のジャケットはほぼ初版と同じだが、背の下部や裏表紙には『グロセット&ダンラップ』と記されているのが違いである。ウィリアム・パウエル&マーナ・ロイ共演の映画版は同年五月に公開された。監督のW・S・ヴァン・ダイクがたった二週間で撮影を終えたという。
第四十九話の「枯れた鉢植えを盗め」では、ガールフレンドのグロリアがなんとニックに別れ話を持ち出すのだ。原因はサンドラかもしれない。くしくも、ロバート・B・パーカーの創造した私立探偵スペンサーがガールフレンドのスーザンと一度別れるのも八〇年代半ばだった。本編で、ニックはケータリング会社のアトラクション担当者として“ニコラス・スミス”と名乗る。
一方、第五十話の「使い古された撚り糸玉を盗め」で、ニックは写真ジャーナリストの“ヴェルート”と名乗る。イタリア語で“ヴェルヴェット”のことである。
第五十二話の「人気作家の消しゴムを盗め」で、エルモア・レナードに似た人気作家トラスクがこう言う。「そのうちに誰かがわたしをベロウかアップダイクかスタイロンと比較してくれたらいいんだがな。できれば生きている作家と関連づけられたいね」と。本編発表の一九八六年には、ソール・ベロウ(一九一五〜二〇〇五)もジョン・アップダイクも(一九三二〜二〇〇九)ウィリアム・スタイロン(一九二五〜二〇〇六)も存命だった。そして、レナード(一九二五〜二〇一三)も。
第五十三話の「臭腺を持つスカンクを盗め」では、ニックはグレイズ医師に対して“ヴェロア(Velour) ”と名乗る。英語では本当は“ヴェルア”と発音するのだが、日本語表記に従った。本来はフランス語で“ヴェルヴェット”の意味で、“ヴェルール”と発音する。
第五十四話の「消えた女のハイヒールを盗め」The Theft of the Lost Slipper は二〇〇〇年刊のヴェルヴェット短編集 The Velvet Touch に収録されるときに、The Theft of Cinderella's Slipper と改題されたが、たぶん後者がホックの最初につけたタイトルだったのだろう。本編には珍しくグロリアの兄アーニーが登場する。グロリアの親族が実際に登場するのは初めてだが(グロリアが母親を訪ねて留守だという状況設定はときどき言及される)、ここで重大な疑問が一つ残る。その疑問についてはいずれ詳しく説明しよう。
第五十五話の「闘牛士のケープを盗め」(一九八七年発表)を翻訳したあと、訳者は偶然にもホックの契約諜報員チャールズ・スペイサーものの「極秘指令/映画祭潜入」(『ミステリマガジン』二〇一六年十一月号訳載)の翻訳も担当した。そのとき、プロットも人物設定も異なるが、雰囲気が非常によく似ているという印象を受けたらしい。「映画祭潜入」の発表は八六年なので、同時期に執筆されたのだろう。
第五十六話の「社長のバースデイ・ケーキを盗め」で、ニックは自分にこう言い聞かせる。「このちょっとしたトリックは覚えておいたほうがいいぞ」と。実際に、このちょっとしたトリックをほかのシリーズで使っているのである。もちろん、ネタバレになるので作品名はお教えできないが、既訳である。
第五十八話の「医師の中華箸を盗め」では、「図書館の本を盗め」に登場したニックの戦友トニー・ワイルドが再登場してくれる。ほかに登場するトニーの新妻ジル (Jill) と医師のジルー (Giroux) の名前がカタカナ表記では酷似しているのだが、二人が会話するわけではないので、読者の皆様は混同しないはずだと確信している。
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ゲラ校正の最中に巻末解説の貴重なスペースをさらに盗み出してきてもらったので、サンドラ・パリスについてもう少し説明しよう。
サンドラが「白の女王のメニューを盗め」で初登場した八三年時点では、年齢は三十代半ば。女優としての短いキャリアのあと、もっと実入りのいい犯罪の道を歩み始めた。プラチナ・ブロンドの長い髪が天使のような色白の無垢な顔を縁取っていて、目は薄い青色で、脚は長く、背は比較的高い美女である。歌やダンスはそれほどうまくないが、変装はうまい。しかも、飛行機の操縦もできる。
ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に出てくる〈白の女王〉が「わたしはときどき朝食前に多くても六つの不可能を信じることがあるのよ」と言ったことにヒントを得て、朝食前に大胆な盗みを働き、現場に〈白の女王〉というニックネームと、〈不可能を朝食前に〉というモットーを書いた名刺を残す。ニックが価値のないものしか盗まないのに対して、サンドラは頼まれれば何でも盗む。八三年当時の手数料は五万ドルだったが、時代とともにだんだん高くなっていく。
ニックとは初めのうちライヴァルだったが、ときおり窮地に陥った相手を助け合い、パートナーになることもある。お互いに惹かれ合っているようだが、ニックにはグロリアという長く連れ添ったガールフレンドがいる。そのグロリアは初めのうちサンドラを信用していなかったのに、次第にサンドラとの関係が変化していく。
最後に、いつものとおり、ニック・ヴェルヴェット・シリーズの最新チェックリストを挙げておこう。
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[註=完全チェックリストを見たい方は、現物の巻末を参照してください。]
二〇一七年三月
これは木村二郎名義で翻訳したエドワード・D・ホックの『怪盗ニック全仕事4』(創元推理文庫、2017年4月刊、1300円+税、電子書籍もあり)の巻末解説であり、自称研究家の木村仁良が書いています。このあと、『怪盗ニック全仕事』が6巻まで続きます。次巻の『怪盗ニック全仕事5』も読んでいただけましたら幸いです。(ジロリンタン、2017年4月吉日)
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