怪盗ニックを見たら泥棒と思え

(エドワード・D・ホック『怪盗ニック全仕事3』解説)

怪盗ニック全仕事3  本書『怪盗ニック全仕事3』には、ニック・ヴェルヴェトもの短編が十四編収録されていて、改訳(旧短編集の新訳を含め、訳者自身の翻訳を改めて訳し直したもの)が五編と、新訳(すでに翻訳があるものを本書の訳者が新たに訳したもの)が五編と、初訳(初めて日本語に翻訳したもの)が四編ある。

 第二巻では、巻末解説のスペースがごく限られていたので、収録作品について充分な注釈を付けられなかった。そのため、解説子のウェブサイトに「完全版」を載せているが、それを見ていない読者のために、第二巻の解説から削除した箇所だけを付け加えよう。

 第十七話の「空っぽの部屋から盗め」には、フェリックス・オルタモンという私立探偵が登場するが、ホックは“フェリックス”という名前がよほどお気に入りらしく、「マフィアの虎猫を盗め」にも、このあとのいくつかのエピソードにも、“フェリックス”たちが現われる。

 第十八話の「くもったフィルムを盗め」が『ミステリマガジン』一九七五年四月号に訳載されたとき、訳者名はハウスネームの「四条美樹」名義だった(六〇年代前半に《マンハント》日本版で片岡義男氏が翻訳用ペンネームとして使っていた「三条美穂」のモジリでで、この名前は小鷹信光氏が主に使っていた)。二〇〇三年刊の早川文庫版から、日本の読者が理解しやすいように、作中のある人名をあえて変えている。

 第二十話の「サーカスのポスターを盗め」では、作者のホックが勘違いしていると判断したので、第二巻ではある人名を変えた。

 第二十九話の「シャーロック・ホームズのスリッパ」を盗めは、ホックのシャーロッキアン・パスティーシュを収録した二〇〇八年刊(ホックが亡くなって数カ月後)の短編集『シャーロック・ホームズ・ストーリーズ』(原書房、二〇一二)には収められていない。ホック自身はホームズものの愛読者であったが、それほど博識なホームズ研究家ではないということで、国際的なシャーロッキアン団体である〈ベイカー・ストリート・イレギュラーズ〉の会員にはなっていなかった。

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 次に、第三巻の収録作品の注釈に移ろう。

 第三十三話の「駐日アメリカ大使の電話機を盗め」では、グロリアが思い込んでいるとおり、ニックは本当に政府の仕事をする。作中のキャス・メルローズによると、〈シ・ファン〉はイギリス人作家のサックス・ローマー(一八八三〜一九五九)による怪人フー・マンチューものの小説に登場する秘密結社に因んだ名前らしいが、ローマーの創り出したフー・マンチューは日本人ではなく、中国人なのである。

 フー・マンチュー小説はイギリスやアメリカでも映画化され、ワーナー・オーランドやボリス・カーロフ、クリストファー・リーなどがこの怪人博士に扮した。フー・マンチューは変装の名人なので、口ひげは生やしていないのだが、映画や漫画では、「フー・マンチューひげ」と呼ばれるナマズひげ姿で描かれている。  第三十四話の「きのうの新聞を盗め」では、ニックはイギリス人作家のE・W・ホーナング(一八六六〜一九二一)の古い物語に出てくる泥棒紳士ラッフルズのような気持ちになる。A・J・ラッフルズは紳士的な金庫破りで、映画ではジョン・バリモアやロナルド・コールマン、デイヴィッド・ニーヴンが扮した。本編の最後で、グロリアが以後の作品にも影響する意外な台詞を発する。

 第三十五話の「消防士のヘルメットを盗め」では、ニックはニューヨーク・シティーのサウス・ブロンクス地区について、「大統領が視察に行ったときに夜のTVニュースで観」るところだとコメントする。発表年の一九七九年当時の大統領はジミー・カーターで、実際に七七年十月には荒廃したサウス・ブロンクス地区を視察した。

 第三十七話の「銀行家の灰皿を盗め」から、グロリアの忠告に従って、ニックは通常の手数料を二万五千ドルに値上げする。

 第三十九話の「感謝祭の七面鳥を盗め」では、「七面鳥の中に青い柘榴石は隠されていないですよね? 黒真珠が?」とニックは依頼人に尋ねる。もちろん、アーサー・コナン・ドイルのホームズもの短編「青い柘榴石」と「六つのナポレオン胸像」に言及しているのである。

 そして、「わたしはウェストチェスターに住んでいます」と依頼人に伝える。そう、ニックとグロリアが住むウェストチェスター郡は、ニューヨーク市ブロンクス区の北にあり、マンハッタン区からも遠くなく、ロング・アイランド・サウンドにも面している。たぶん、ニックのヨットはサウンドに臨むウェストチェスターのマリーナに停泊しているのだろう。

 第四十話の「ゴーストタウンの蜘蛛の巣を盗め」の原題にある cobweb とは、蜘蛛の住処[すみか]ではないので、厳密には「蜘蛛の網」、もしくは「蜘蛛の罠」と訳すべきなのだが、日本では一般的に「蜘蛛の巣」と呼んでいるので、一般用語に従った。

 第四十一話の「赤い風船を盗め」には、「銀行家の灰皿を盗め」に登場したTV記者のローン・ラースンが再び顔を出す。原題にある balloon のスペリングがリストではずっと間違っていたことに初めて気がついた(以前のチェックリストを訂正しておいてください)。一九六〇年代後半、ニューヨークのウェストサイドに〈オニールズ・サルーン〉O'Neals' Saloon というバーが開店したが、当時はバーに「サルーン」という名前をつけてはいけないという暗黙の規則があったため、州のアルコール販売許可が下りなかった。それで、看板のS字の上に「B」と書いた紙を貼って、店名を〈オニールズ・バルーン〉O'Neals' Baloon(ミススペリングのまま)に変えたという話を聞いていたので、間違えたのだろう。残念ながら、この有名なバー&レストランはすでに閉店した。

 主な舞台はニューヨーク州の小都市郊外にある州祭り会場である。英語では state fair と言い、county fair と同じく、もともとは州や郡で晩夏や秋に行なわれる収穫祭や農産物品評会だったのが、今では家族で楽しめる期間限定の遊園地のようになった。本書の訳者は『サム・ホーソーンの事件簿I』で、county fair を「農産物祭り」と訳していたが、ずっと違和感を覚えていた。State Fair という映画が一九三三年に公開され、邦題は《あめりか祭[さい]》(ジャネット・ゲイナー主演)だった。タイトルを聞いただけでは、アメリカ全土のお祭りのようだし、内容が想像しにくいが、内容がわかると、近からずも遠からずである。一九四五年と六二年の二度リメイクされたときは、ロジャーズ&ハマースタインの音楽がついたミュージカル映画になり、邦題はそのままの《ステート・フェア》だった。字幕の「共進会」では、畜産関係者以外にわかりにくい。当てはまる日本語が見つからなかったのだろうが、「村祭り」に倣って、本書の訳者は単純に「州祭り」と訳した。曖昧だが、間違いではない。訳者は一九六八年の九月にオクラホマ州オクラホマ・シティーで開かれた州祭りに行ったことがある。そのときは、何のお祭りなのかわからなかったのだが、子供や学生にとってはカーニヴァルか遊園地と変わりがなかったらしい。

 第四十二話の「田舎町の絵はがきを盗め」の「絵はがき」が原題では複数であることにも初めて気がついた(以前のチェックリストを訂正しておいてください)。

 さて、この話の翻訳中にある問題が持ちあがった。グロリアが病気の母親を訪ねるために、フロリダ州へ出かけているのである。おっと、待ってくれ。「赤い風船を盗め」では、グロリアはカリフォーニア州にいる母親を訪ねているではないか! どうせメイン・プロットにほとんど関係ないので、読者の皆様はカリフォーニアかフロリダのどちらか好きなほうに統一していただいても結構だ。ホック夫妻はフロリダに親戚がいて、しょっちゅうフロリダへ行っていたので、訳者はフロリダのほうに統一したい気もする。しかし、もしホック自身にこの矛盾を指摘したら、こう説明するかもしれない。母親は〈赤い風船事件〉のあと、カリフォーニアからフロリダに引っ越し、フロリダで病気になったのだと。

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 ホックが二〇〇八年に亡くなってからも短編集を刊行しているのは、日本の創元推理文庫だけではない。

 アメリカ本国では、二〇一四年にサム・ホーソーンもの第三短編集 Nothing Is Impossible: Further Problems of Dr. Sam Hawthorn がクリッペン&ランドルー社からついに刊行された。ホーソーンもの十五編(28より42まで)が収録されていて、一七五部限定版にのみ、ホーソーンもの最終編「秘密の患者の謎」を収録した小冊子がついてくる。

 そして、二〇一五年暮れには、ホックのSFとファンタジーとホラー作品を収録した The Future Is Ours: 31 Tales of the Fantastic がワイルドサイド・プレス社から刊行された。二〇一四年に刊行される予定が一年延びたことになる。一四年にアマゾン・コムに近刊予告が出て、書影も公表されていた。解説子が編纂者のスティーヴ・スタインボックに内容を問い合わせると、原稿がPDFファイルで送られてきた。収録作品を数えてみると、三十一編あり、書影のサブタイトルにある二十九編ではないことを指摘した。それで、出版社は書影の数字を変えることになったのだが、刊行日が延びたのは、そのせいではないはずだ。

 最後に、ニック・ヴェルヴェット・シリーズの最新チェックリストを挙げておこう。間違いが少ないことを祈る。

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[註=完全チェックリストを見たい方は、現物の巻末を参照してください。]

二〇一六年五月



これは木村二郎名義で翻訳したエドワード・D・ホックの『怪盗ニック全仕事3』(創元推理文庫、2016年6月刊、1300円+税、電子書籍もあり)の巻末解説であり、自称研究家の木村仁良が書いています。このあと、『怪盗ニック全仕事』が6巻まで続きます。次巻の『怪盗ニック全仕事6』も読んでいただけましたら幸いです。(ジロリンタン、2016年6月吉日)

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