ありがたいことに、『怪盗ニック全仕事1』はホック愛読者から好意的に迎えられた。この第二巻には、十五編が収録されていて、改訳(旧短編集の新訳を含め、訳者自身の翻訳を改めて訳し直したもの)が十四編と、新訳(すでに翻訳があるものを本書の訳者が新たに訳したもの)が一編あり、初訳(初めて日本語に翻訳したもの)はない。改訳と言っても旧訳をところどころ手直ししたわけではなく、訳者はかなり大幅に訳し直している。しかも、前巻同様、新しい編集者と校正者の厳しいチェックがはいっているので、前短編集とは印象がかなり異なっているかもしれない。第二巻に収録された作品は約四十年前の一九七三年から七七年までに発表されたものなので、現在とは社会情勢や生活様式がかなり変化している(四十年前には、携帯電話やインターネットは存在していなかった)。承知していただきたい。では、いくつかの収録作品についての注釈を加えよう。
第十六話の「マフィアの虎猫を盗め」では、第一話の「斑の虎を盗め」で説明したのと同じく、ニックが怪盗になった経緯を旧友に語る。ホックのノンシリーズ短編集『夜はわが友』(創元推理文庫)に収録された「キャシーに似た女」の内容によく似ている。「キャシーに似た女」は一九六九年に It Takes All Kinds というタイトルで映画化された。舞台はオーストラリアだが、主人公のトニーにはアメリカ人俳優のロバート・ランシング(TV番組『八七分署』のスティーヴ・キャレラ役)が扮した。オーストラリアでしか劇場公開されなかったが、アメリカでもTVでは放映された。本編が発表された一九七二年には、ちょうど映画版『ゴッドファーザー』が公開された年で、多くのイタリア系アメリカ人が公には“マフィアは存在しない”と主張していた頃だった。
第十七話の「空っぽの部屋から盗め」には、フェリックス・オルタモンという私立探偵が登場するが、ホックは“フェリックス”という名前がよほどお気に入りらしく、第十六話にもこのあとのいくつかのエピソードにも、“フェリックス”たちが現われる。
第十八話の「くもったフィルムを盗め」は、『ミステリマガジン』七五年四月号に訳載されたときに、ハウスネームの四条美樹名義だった(女優の三条美紀のモジリで、小鷹信光氏も使っていた)。二〇〇三年刊早川文庫版から、日本の読者が理解しやすいように、ある人名を敢えて変えている。誰か気づいてくれたかな?
第十九話の「クリスタルの王冠を盗め」の初出誌は、第六話の「聖なる音楽を盗め」と同じく、通常の《エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン》(EQMM)ではなく、《マイク・シェイン・ミステリー・マガジン》である。つまり、EQMMの編集責任者エラリー・クイーン(フレッド・ダネイ)が本編を買ってくれなかったのだ。
第二十話の「サーカスのポスターを盗め」の旧訳を読み返しているときに違和感を覚えたので、原作者のホックが勘違いしていると判断して、本短編集では一カ所で人名を入れ替えた。
第二十三話の「将軍のゴミを盗め」では、ニックが企業コンサルタントではないことに、ガールフレンドのグロリアがついに気づくのだが、そのときのニックの反応は……
第二十七話の「海軍提督の雪を盗め」のオカルト的なストーリーは、怪盗ニックものよりサイモン・アークもののほうがふさわしく思える。しゃべる首に関する蘊蓄は、ウォルター・B・ギブスン(またの名を手品師でもあるウィリアム・グラント)が一九三六年六月一日号の《ザ・シャドウ・マガジン》に書いた The Crime Oracle を参考にしたのだろう。この中編はちょうど本編が発表される前年(一九七五年)に再刊されているのである。
第二十八話の「卵形のかがり玉を盗め」は、アメリカでも現在めったに使われないかがり玉 (darning egg) を盗む話だ。昔は穴のあいた靴下は繕っていたものらしく、レイモンド・チャンドラーのポケミス版『湖中の女』(田中小実昌訳)でも、探偵マーロウが訪れたグレイスン夫妻の家で、夫人がかがり玉を使って夫の靴下の穴を繕っている。
第二十九話の「シャーロック・ホームズのスリッパを盗め」は一九七八年刊の短編集 The Thefts of Nick Velvet に収録されるときに、The Theft of the Persian Slipper に改題された。その短編集は、オットー・ペンズラー個人経営時代のミステリアス・プレスが刊行したもので、函入り二百五十部限定版(サイン&番号入り)には、普及ハードカヴァー版収録の短編十三編のほか、本編のみを収録した赤い表紙の小冊子が付いてくる。
ホック自身はシャーロック・ホームズものの愛読者であったが、それほど博識なホームズ研究家ではないということで、国際的なシャーロッキアン団体である〈ベイカー・ストリート・イレギュラーズ〉の会員にはなっていない。それでも、ホックはシャーロック・ホームズのパスティーシュを数多く発表していて、パスティーシュを集めた短編集『シャーロック・ホームズ・ストーリーズ』(原書房)が死後の二〇〇八年に刊行された。
第三十話の邦題は「ないものを盗め」とか「無を盗め」という直訳では不自然なので、ほかの作品の邦題とは違って、「何も盗むな」という否定形になってしまった。否定代名詞は日本語にないので、かつて中学生に英語を教えていたときに、「“箱の中には無がある”、つまり、“何もない”という意味だよ」と説明したが、はたして理解してくれただろうか?
最後に、ニック・ヴェルヴェット・シリーズの最新チェックリストを挙げておこう。