本書『残酷なチョコレート』は、二〇一一年に創元推理文庫から刊行された『ヴェニスを見て死ね』と『予期せぬ来訪者』に続くジョー・ヴェニスもの作品集である。東京創元社刊《ミステリーズ!》に不定期に掲載された短編五編と書き下ろし短編二編が収録されている。
『予期せぬ来訪者』収録の「孤独な逃亡者」から本書収録の「永遠の恋人」を二〇一〇年に書くまでに十五年のブランクがある。著者が再びヴェニスものを書く気になったのは、ヴェニスものを気に入ってくださった東京創元社の名物編集者である桂島浩輔氏のおかげなのだ。
著者が二〇〇八年暮れに東京創元社の編集部を訪れて、翻訳担当編集者と打ち合わせをしているときに、桂島氏が現われて、ヴェニスもののような私立探偵小説が好みなので、ぜひ文庫版を創元推理文庫から出したいとおっしゃったのだ。そして、ヴェニスものの新作を書く気はないのですかと尋ねられた。そのときは、エドワード・D・ホックのサイモン・アークもの短編集を翻訳することばかり考えていたので、「さあ、わかりません」と曖昧な返事をしてしまった。
それから、一年あまりの年月が経ち、二〇一〇年の前半にサイモン・アークもの短編八編を翻訳したあと、時間の余裕ができたので、「永遠の恋人」を書き始めたのだ。主人公のジョー・ヴェニスも恋人のグウェン・ハリスもほかのレギュラー陣も曖昧に年齢を取らせただけで、生活状況はあまり変化していない。しかし、時代設定は二十世紀の一九九〇年代から二十一世紀の二〇一〇年代に変わり、ニューヨークの街も変わった。
復帰第一話「永遠の恋人」の原稿を桂島氏にeメールで送信したところ、運よく《ミステリーズ!》に掲載される運びとなった。そして、桂島氏だけではなく編集担当専務からも励ましの言葉をいただいた。そういうわけで、著者はヴェニスものを積極的に再開する気になったのである。
ジョー・ヴェニスの略歴については、第一短編集『ヴェニスを見て死ね』のプロローグを参照していただくとして、いつものように、ここでは収録作品について手短に説明したい。
第一話「永遠の恋人」(Your Eternal Lover)----《ミステリーズ!》二〇一〇年十二月号に掲載されたので、《ミステリマガジン》一九九五年十一月臨時増刊号に「孤独な逃亡者」が発表されてから十五年ぶりに、ヴェニスが読者の皆様の前に登場したことになる。復帰第一話は、一〇年夏に書いたのだが、このストーリーは十年以上前から考えていた。依頼人のデボラは十年以上前から書店員として著者の頭の中に存在していたが、ほかの登場人物とは一〇年夏に初めて出会った。二〇一〇年代になると、やはりiPadやiPhoneなどの新しい電子機器が登場してくる。同じようなストーカー被害に遭ったことのあるサラ・ガーデン(『予期せぬ来訪者』収録の「秘密の崇拝者」に登場)がカメオ出演してくれた。
第二話「タイガー・タトゥーの女」(The Woman with the Tiger Tattoo)----タイトルはもちろん、あの有名な『ミレニアム1/ドラゴン・タトゥーの女』から無断でヒントをちょうだいした。著者が描いた上半身裸の金髪女性のイラストの背中に虎のスタンプを金色インクで押し、Millennium 2010/The Girl with the Tiger Tattoo と書いた二〇一〇年(虎年)の年賀状を友人や知人に送った。それを受け取ったアーティストの友人が“かわったトラ/一等賞”としてブログで紹介してくれた。彼はミステリーが好きで「『ドラゴン・タトゥーの女』は面白かったよ」とコメントに書いたので、こちらは「『タイガー・タトゥーの女』を書くつもりはありません」と返答した。ところが、『予期せぬ来訪者』収録の「東は東」に登場したミサについては、ここ十数年のあいだ気になっていて、彼女を“タイガー・タトゥーの女”に仕立てあげれば面白くなるかもしれないと思いついた。いちおう原稿を書いて編集担当者に送信してから約一週間後に、大きな間違いに気づき、大幅に書き直した。
第三話「残酷なチョコレート」(Cruel Chocolate)----本書の表題作である。タイトルの意味は最後まで読んでいただければ、わかる仕掛けになっている。ヴェニスの大学時代の恋人が登場すればどうなるだろうというアイディアを基に、こういうプロットができあがった。ヴェニスの家族構成が少しわかる珍しい作品である。
第四話「バケツ一杯の死」(A Bucketful of Deaths)----あまりプロットのことを考えずに書いた。短くて、さほどヒネリのない短編なので、掲載を保留にしてほしいと頼んだが、編集担当者が意外にも気に入ってくれた。これを読んだ同窓生(かつての文学少女)もなぜか気に入ってくれた。著者の評価と読者の評価が一致するとは限らないことを実感した次第である。
第五話「ツインクル、ツインクル」(Twinkle, Twinkle)----書き下ろしである。二〇一一年夏に書いたが、編集担当者が雑誌掲載を保留した。ミステリー専門誌という舞台設定が気に入り、ある登場人物を死なせてほしくなかったのだろう。著者もその人物を死なせるのは惜しいと思っていたので、大幅に書き直した。根本的なアイディアは二十年ほど前に、ある病院の待合室で聞いた話(実際に当人を見た)が基になっている。《ダーク・シャドウ》という雑誌名は、ジョニー・デップの主演映画のタイトルから思いついたわけではないことを申しあげておく。この雑誌名はある有名なパルプ・マガジンの雑誌名からヒントを得たのである。《ミステリーズ!》二〇一三年二月号掲載の「偶然の殺人者」には、女性私立探偵フィリス・マーリーが初登場するが、本編の重要人物が二人も顔を出すので、マーリーものはこの作品からスピンオフしたものと言えるかもしれない。
第六話「血は水より危険」(Blood Is Deadlier Than Water)----打ち明けるのも恥ずかしいことだが、この短編を書きあげるのに----というより、アイディアを思いつくのに----多くの日数がかかった。書き始めた一つのストーリーは途中で筆がとまり、別のストーリーでは途中で事件に興味を感じなくなったのだ。どんなきっかけでこのアイディアを思いついたのかは定かではない。聖ヴァレンタインかダシール・ハメットかマイルズ・デイヴィスの霊が助けてくれたのかもしれない。「自分は楽しめたが、ニューヨーク好きの人しか楽しめない話だろうね」と評した人がいたが、ほめているのか、けなしているのか、それとも両方だろうか? 「タイガー・タトゥーの女」に登場した〈トライ・レベッカ〉のバーテンダーが興味深い情報をヴェニスに教えてくれる。
第七話「この母にしてこの息子あり」(Like Mother, Like Son)----これも書き下ろしで、二〇一二年夏に書いた。アイディアを思いついたら、すらすらと書けたが、思いつくまでにずいぶん日数がかかった。「ツインクル、ツインクル」に登場したある人物が出演してくれる。ちなみに、ネヴァーモア賞は実際に存在した“お遊びの賞”であり、〈パートナーズ&クライム〉も実際に存在したミステリー専門書店である。そして、アップル社が iCloud.com のドメイン・ネームを発表したのは、この短編を書きあげたあとのことだ。
本書を刊行するにあたって、下記の方々にお世話になった。まず、東京創元社編集部の桂島浩輔氏は、忙しい中、原稿に目を通して、いろいろと有益なアドヴァイスをしてくださった。《ミステリーズ!》編集長の神原佳史氏は、雑誌掲載時に著者を力づけてくださった。著者の翻訳本担当者である宮澤正之氏は、今回の編集も引き受けてくださった。
これからもヴェニスものやマーリーものを《ミステリーズ!》に不定期に発表させていただく予定なので、そちらのほうも読んでいただければ幸いである。
木村二郎
二〇一三年三月
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[献辞ページ]
ヴェニスを応援してくださっている読者の皆様と、
著者を激励してくれている同窓生のみんなに
感謝をこめて----
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『ヴェニス探偵事務所3/残酷なチョコレート』目次
初出一覧
永遠の恋人 《ミステリーズ!》二〇一〇年十二月号
Your Eternal Lover
タイガー・タトゥーの女 《ミステリーズ!》二〇一一年四月号
The Woman with the Tiger Tattoo
残酷なチョコレート 《ミステリーズ!》二〇一一年十月号
Cruel Chocolate
バケツ一杯の死 《ミステリーズ!》二〇一一年十二月号
A Bucketful of Deaths
ツインクル、ツインクル 書き下ろし
Twinkle, Twinkle
血は水より危険 《ミステリーズ!》二〇一二年四月号
Blood Is Deadlier Than Water
この母にしてこの息子あり 書き下ろし
Like Mother, Like Son
著者あとがき