北日本新聞(1997.12.1):精神科診療室から
【見えなくなった父親(現代日本社会の縮図に)】
子供をめぐる話題に事欠かない昨今である。私の勤務している病院でも、登校拒否や家庭内暴力、摂食障害の子供さんが多くなってきている。私は、そんな子供や両親を診察しながら、最近は父親が診察室から消えているのに気がつく。このことは、診察室の出来事と片付けることができない。現代日本社会の縮図がそこにある。
私が診察場面で体験する、見えない父親の5つのタイプを示し、私見を述べてみたい。
第一に、父親が付き添って来院することが少ない。養育が母親中心としても、患者が成人を過ぎても、さらに結婚していても母親が付き添ってくることが多い。一瞬、小児科医になった錯覚にとらわれる。
第二は、両親で付き添って来ても、父親の存在がない。母親が一方的に話し、父親は刺身のつまにすぎないのである。父親の役割は、送迎でないはずで、養育に関してぴりっと辛いわさびぐらいの存在になってほしい。
第三は、診察室にいる父親が、より母親的な場合である。こと細かく子供のことを述べ、子供の思いなどに頓着無く近視眼的に指示し、干渉するタイプ。家には、小母親と大母親しかいなく、子供が大人になりきれないのではと心配になる。
第四は、より友達的な父親の存在である。「何でも子供と話し、子供の意見は尊重しています」と語り、物わかりが良さそうで一見理想的タイプ。だが、このタイプは父性を置き忘れ、私にとって一番苦手である。子供の友人は家の外にいると思うのである。
第五は、父親が診察室はもちろん家庭にも存在しない場合である。患者さんや母親から、「学校にいけない」、「食べて吐いている」などの症状や、「息子は、私に甘えてこまる」とか「叱ってばかりいる」など家族関係を巡る問題が語られる。ところが、父親との関係が話題になることはない。思いあまって「お父さんは」と尋ねて、「父は仕事が忙しくて話すことがない」などと返ってくる。間接的にも子に対する父親の考えが見えてこないのである。
では、五つのタイプが示す見えない現象を単にダメ父親問題として片付けていいのだろうか。個人的、社会的問題、そして母親の問題として考えてみるとわかりやすい。
現代社会を「父親なき社会」と社会学者のミッチャーリッヒは名付け、親の仕事を継ぐことが難しく、父の働く姿は子供の視界から消えているのが原因の一つという。父から子へと生活実践の方法や良心が伝えられにくくなり、子に父親像が見えにくく、父親喪失の危機にもある。ここに現代の子供の成熟の困難性や、伝統的秩序の崩壊、価値観の変化を生じ、人々は困惑し、子供のように退行し、不安や攻撃などの心の問題が生ずると述べている。
さらに、日本では太平洋戦争に敗北し、大きな価値観の変動があった。縦社会が横社会となり、自由、平等という風潮の中で育った団塊世代に、第四のタイプの父親が多いと思える。このタイプの家族は、中心となる者がおらず、家族それぞれがバラバラとなりがちで、小此木啓吾慶応大教授は「ホテル家族」と呼んだ。今後は、縦横社会が必要と私は思う。
さらに、戦後の女性の社会進出で、父が仕事、母が家庭という構造が崩れた。女性だけでも子育てができる環境が整いつつある現代の中で、ますます父性が発達しにくいのが現状である。
内外の厳しい状況の中で、個々の男性は、新しき父親像を求めて船出しなければならない。一方、女性も新しき母親像を確立する必要がある。子供は、父性行動を母親を通して知ることが多く、父親や母親像はコインの裏表にあるからである。
私は子供の心の病が良くなるために、見える父親が必要と考えている。私の診察室に、そんな父親が多く現れることを期待している。
(富山市民病院精神科部長・富山市)